第4話 この地球に恋をした瞬間


 恋に落ちたとき、人の顔は打ち上げられた花火のように、ぱっときらめく。


 その瞬間を、私は目の当たりにしたことがある。

 合力真理が、この地球に恋をした、その瞬間を。


 真理の母と私の母が姉妹だったので、幼い頃から家族ぐるみでよく遊びに行った。真理の父親がキャンプカーを持っていたので、月に一回遠出をするのがお決まりの行事になっていた。


 あれ確か、私が幼稚園に通っていた頃だから、お互いにまだ四歳か五歳かだったと思う。


 その日、私たちは初めて海水浴に行った。


 真理は当時から自然が好きな活発な少女だった。田舎の山の麓に住んでいたので、暇さえあれば裏山へ赴いて、秘密基地をつくったり昆虫採集したりと走り回っていた。あのころの真理は本当に野生児みたいだった。植物の匂いを嗅いで食べられるかどうか当てることができたし、動物にとても懐かれていた。イノシシの背中に乗って山を下ってきたときには、私もさすがに肝を抜かれた。


 そんな真理だから、まだ見たことのない海にずっと憧れていた。

 行くことが決まったときには飛び上がるほど喜んでいた。海にむかう途中のキャンプカーの中でも興奮しっぱなしで、ぴょんぴょん飛び跳ねるものだからタイヤがパンクするというハプニングを起こした。



 海水浴場に着いたときの真理の横顔を、私は今でも覚えている。



 真理は、海を一目見て、「わぁ」と声を漏らした。口からぽろりと落ちてくるような、小さな感嘆の声だった。本当に心の芯から感動したら、人は大げさなリアクションなんてとれないことを、私はそのとき初めて知った。


 真理の大きな目は潤み、口が半開きになり、そして頬が少し紅潮していた。目の前に広がる大きな海。遠くにフェリーが走り、波がさざめき、緩やかな水面がキラキラと光っていた。その広大な自然を前に、真理は惚けたように立ち尽くしていた。


 それが、真理の恋をした瞬間だった。


 それから真理は、少しでも多く魅力を肌で感じようと海の中を駆け巡った。心配する父親をそっちのけで海の中を泳ぎ回る彼女は、まるで人間界に迷い込んだ人魚の子供のようだった。日が沈む時間になっても、真理は海から離れようとはしなかった。父親に海から無理やり引きずり出され、まだ帰りたくないと泣く真理を、私は波打ち際に座ってぼんやりと見つめていた。ゴーグル部分だけ残して赤く日焼けした真理の顔は、昼間の海面のようにキラキラしていた。


「海を作った人はすごいんだよ! 水の中にたくさん塩を入れて、そして魚も入れて、さらには海苔まで入れているの!」


 家に帰っても、真理の興奮は冷めなかった。いかに海がすごいか、それを真理は必死になって話していて、真理の両親はニコニコと笑顔を浮かべてその話を聞いていた。


 けれど、真理は話すだけでは満足できなかったらしい。


 その翌日、真理は自宅の風呂場に、小さな海を作った。


 浴槽の底に庭の砂を敷き詰め、溜めた水に大量の食塩を投入し、さらには水面に味付け海苔を浮かべていた。

 それはもう笑ってしまうほど滑稽な海だった。いや、海なんて呼べるものじゃない。ただの泥水だ。塩を一袋入れたと言っていたから、舐めたらとてつもなく塩っぱいだけの、ただの泥水に違いなかった。


 けれど、あのときの真理は本気だった。


 泥水で満たされた浴槽を見つめるその顔は、間違いなく、真剣そのものだった。

 四歳の真理にとって、浜辺の砂も、庭の砂も、どちらも同じ「砂」だった。だから真理は、どうして同じものを入れているのに、あの澄んだ青い海底が再現できないのか、分からなかった。


 眉間にしわを寄せ、親指の爪を悔しそうに噛む真理の横顔を、私はずっと見つめていた。

 あのとき、私がどんな気持ちでいたのか、今はもう覚えていない。あっけにとられて呆然としていたのかもしれないし、あるいは、好奇心に従順な彼女の性格が羨ましいと思っていたのかもしれない。


 どちらにしろ、あのときの真理の横顔が私の心に残り続けていて、忘れることができないのだ。



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