第3話 旧校舎でお勉強


 旧校舎は新しい校舎から体育館を挟んだ山側にある。木造三階建ての旧校舎は、その廃れた外観から「学校の怪談」と呼ばれていて、基本的にだれも近づかない。

 そんな人の来ない旧校舎を、私と真理はこっそり勉強部屋として使わせてもらっている。他人からの目を気にしないでいられるこの環境が、私たちには居心地がよかった。


「それじゃあ、この間の試験の復習をしましょうか」


 二階のほこりっぽい教室で、カバンから参考書を取り出している真理に声をかける。


「最近、成績が伸びてきたので、この調子で続けていきましょう」

「はーい!」


 高三になってから、私はこの変わり者の従妹に勉強を教えている。

 四月の実力試験の後、真理が顔を真っ青にして頼み込んできた。今の成績では希望する大学にはいけない、と先生から指摘されたらしい。彼女は理科の成績は恐ろしいほど良いのだけれど、それ以外の科目は頭が痛くなるほど悪かった。


「それでは、まずは国語です。とりあえず、期末試験が近づいているので、その対策をしましょう。今のうちに真理は古文の基礎を身につけとかなくては」


 古文――その言葉が出た瞬間に、真理は露骨なほど顔をしかめた。


「……待って、最初は物理にしようよ」

「どうしてですか? 物理は私よりも成績がいいでしょう。できないところをできるようにするのが勉強ですよ」

「まずは頭の準備運動がいるよ。最初から古文だと、脳が肉離れ起こしちゃう」

「脳は筋肉ではありませんから心配いりません」


 私は教壇に立ち、白いチョークを手に取った。


「じゃあ、これから私が動詞の活用形のゴロ合わせを書きますから、真理はそれを覚えてください。復唱でもなんでもいいですから、とにかく覚えてもらわなくては、」

「あっ! ちょっと待って」


 真理が私の言葉を遮った。


「何ですか?」

「猫に気を取られて、花壇に水をあげるの忘れてた」

「どうでもいいです」


 私は真理の顔すら見みない。いちいち取り合っていたら日が暮れてしまう。


「さっさとやることだけやって終わりましょう。私も早く帰れる方がいいですし」


 カツカツと黒板にチョークを滑らせる。


「今だけは我慢してください。一度覚えてしまったら、後は強力な武器になるんですから。どっちみち覚えなくてはいけないのなら、早めにやっておくほうがお得です。そう思いませんか?」


 返事がない。


「効率的にやるべきなんです。本当にやりたいことがあるなら、こういうやらなきゃいけないことにダラダラと時間を割いていてはもったいないです。そうでしょう?」


 返事がない。


「ねえ、聞いてますか、真理?」


 振り返った。


 いない、


 真理がいない。


 机に置いてある参考書やペンなどはそのままだし、机の横には真理のカバンが掛けられているけれど、まるで神隠しに遭ったかのように椅子の上は空っぽになっている。


 はあ。ため息がこぼれる。真理はいつだってそう、思い立った瞬間に行動してしまう。動く前に考えるということをしない。


 私は教室を出た。真理の成績を上げると約束した以上、彼女のことを管理するのも私の役目だ。





「……だからって、なにも首輪を付けなくても」


 裏庭で猫と鬼ごっこしていたところを捕まえて旧校舎まで連れ戻し、彼女に首輪を付けると、真理はぽつりとつぶやいた。


「どこにあったの? これ」

「毎度毎度逃げられて困っていたので、用意しました。これから勉強中は必ず着用してもらいます」

「……逃げたんじゃないよ。植物ってデリケートなの。とくに今みたいに暑い時期はちゃんと面倒を見てあげないと」

「ねえ、真理」


 私は真理に向き合った。言い聞かせるように、


「この春先に、合格できるように勉強の面倒をみてくれと言ったのは真理じゃないですか。私はきちんと真理の成績が伸びるに計算をして計画を立てているのですから、きちんとこなしてもらわなくては困ります」

「……確かに言ったけど」


 じゃらじゃらと首輪についたくさりを真理は揺らす。


「だって、苦手なんだもん。なんで理系の学科に進むのに、文系の勉強をしなくてはいけないの? 数美もおかしいと思うでしょ?」

「文系の学問だって、掘り下げれは理科と繋がっています。地理の降水量とか、産物とかは科学的に説明できるじゃないですか」

「そうだけどさぁ」


 真理は机に顔を伏せた。首輪をつけた真理は、その髪型も相まってトイプードルのように見える。


「私は理科が好きなの。ねえ、この世界の仕組みを解明するってすっごく魅力的でしょ? それをどうしてジャマするのかな。今の受験の制度って間違ってるって思わない?」

「思いません。用語や公式を覚えさえしたら社会的に認めてもらえる。――そんなわかりやすい制度が他にありますか?」


 んー、と真理が唸った。ねたときの彼女の癖だ。

 ちょっと言い過ぎたと思って、こう付け加えた。


「真理が理科を好きだってことは私が一番知っています。でも、だからこそ頑張って欲しいんです。私も、真理が物理学者になるってことを、応援しているんですから。お互い、物理学者と数学者になろうって約束したでしょう」


 真理はしばらく拗ねたままいたけれど、渋々というようにペンをにぎった。


「……わかったよう」


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