第18話 理科と数学

 小津山の高台に着いたとき、そこに真理の姿はなかった。


 あるのは、ベンチの上に置かれたビデオカメラと、ストップウォッチと一冊のノート。そして、の双眼鏡。

 夏の夜風に吹かれ、花火の光を浴びて、それらはベンチの上に置かれている。


 ベンチに置かれたノートを手にとる。実験の概要が、びっしりと書かれている。小津市上空からの地図があり、小津湖から、この高台までの距離もきちんと計測できる。


 こんな実験のために、それでもやっぱり、彼女は真剣に取り組むのだ。


「数美っ」


 背後から声がした。

 はじけるようにして、私は振り返った。


 真理が立っていた。広場に出る階段の元で、真理が肩で息をしながら、立っていた。

 顔には相変わらず私の分厚い眼鏡をかけて、くたくたの白衣を着て、――だけど、髪の毛だけはきちんと二つに結んで。叱られて泣き出す三秒前の子供のような顔で、真理が立っていた。


「数美がいてくれなきゃ、困るの」


 白衣の裾を両手でぎゅっと握りしめ、真理がこちらを見ている。花火の光で、真理の白衣が次々と色を変える。ドンドン、と背中から聞こえる。音を肌で感じる。音が空気の振動であることを、身をもって知る。


「一人で実験しようと思ったけど、――でもやっぱり、数美がいないと嫌なの。数美がいてくれなきゃ、私は困るの」


 分厚いレンズに、花火が映り込む。


「他の人なんてどうでもいい。どうだっていいの。昔からそうだった。私が面白いって思うことをすると、皆はクスクス笑った。分からないことを質問したら、お前はバカだって先生も笑った。みんな、私のことを気味悪そうに見てた。でも数美は、――数美だけは、私のやることをバカにしなかった。私のことを普通に扱ってくれた。それだけで、私は良かったの」


 ずず、とはなをすする。


「私、小さい頃に家の風呂場に海を作ったことがあるの。数美、覚えてる?」


 覚えてる。忘れるわけがない。


「あのとき、どうして海が作れないのか悩んでいるとき、数美は海がどうして青いのかを教えてくれたでしょ。海が青いのは、水の中で青色以外の光が吸収されるからだって。光は、全て波でできているんだって。数美の話を聞いて、私はすごく感動したんだよ。世の中って、面白いことであふれてるって」


 確かに、そんな話をした。


「私は今でも、あのときのことを覚えてる。数美は昔からたくさん勉強してたから、とっても物知りだったでしょ。私が何か疑問に思ったとき、どうしてなんだろうって立ち止まったとき、数美はいつも私に教えてくれた。分からないときは、一緒になって考えてくれた。いつだって数美は私を引っ張ってくれた。だから、他の人にどう思われてもいいけど、数美がいなくいなくなっちゃうのは、本当に、困るの」


 真理が湿ったため息をついた。そしておもむろに近づいてきて、私の浴衣の裾を掴んだ。


「わがまま言ってごめんなさい。数美の言うこと聞かなくてごめんなさい。――でも、この眼鏡だけは、どうしても外したくないの。髪も服装も気をつけるから、これだけは……」

「ごめんなさい、真理」


 私は頭を下げた。


「私が、自分の勝手を真理に押しつけていたんです。――すみません」


 ゆっくりと息を吐く。


「私の方こそ、真理に手を引かれてここまで来たんです。小さい頃から、私は真理に憧れていました。考えすぎて、自分の思考にがんじがらめになって、身動きできず自分の世界に閉じこもっていた私を、真理はいつも外に連れ出してくれました。真理がいなければ、今の私はなかったんです。だから、真理のことも導きたいって、――そんなふうに、自分の勝手を押しつけていたんです。すみません」


 真理の顔を見る。


「真理は、今のままでいてください。私は、そうやって好きなことに一直線に突き進む真理が一番好きなんです」

「……じゃあ、この眼鏡もかけてて良いの?」

「もちろんです」


 真理の両目から、大粒の涙がこぼれた。


「かずみー」


 えぐえぐと、まるで子供のように真理が嗚咽おえつを漏らす。

 私は巾着きんちゃくの中からハンカチを取りだして、


「ほら、ひどい顔してますよ。これで拭いてください」


 たぶん、真理はずっと走っていたのだ。熱気で温度が高い祭り会場を、私を探すために。だから、真理の顔は、汗と涙と鼻水でどろどろになっていた。前髪はおでこに張り付き、分厚いレンズは曇っている。

 ずず、と真理がふたたびはなをすすり、ハンカチを手に取る。


「うん……」


 顔をぬぐうと、気持ちがいくらかすっきりしたようだった。真理が私の顔を指差す。


「数美だって、ひどい顔をしてるよ」

「え?」


 巾着から手鏡を取り出して、自分の顔を見る。真理の言う通りだ。私の顔も汗と涙で、どろどろだった。いつもはまっすぐに切りそろえている自慢の前髪も、今はもう全く美しくない。


 ――ひどい顔。


「ふふ、」


 自然と笑みがこぼれ出た。そんな私を見て、真理も吹き出す。


「あははっ」


 お互いに、顔を見合わせて笑った。おかしくて仕方がなかった。




「じゃあ始めよう、実験」


 真理の言葉で、私たちは実験に取りかかった。

 花火の開花と、音が聞こえる時間差をストップウォッチで計測する。


 たぶん、今の状況は、端から見たらものすごく奇妙な様子なんだろう。花火が打ちあがる夜空の下、賑わう会場から離れた山の高台に二人。浴衣と白衣を来たちぐはぐな女コンビが、ストップウォッチを片手に双眼鏡をのぞき込んでいる。


 花火だって、夜空で仰天しているはずだ。あの二人は何者だ、と。


 だけど、――だけど、異様に見えるかもしれない今の光景が、私にとっては心地が良かった。


 浴衣を着てうちわ片手に屋台を見て歩くよりも、ノートに計算式を書き込んでいる方が楽しいのだ。


 不意に、こんなことを思い出した。


 塾で大貫先生が話してた、理科と数学の関係の話。

 理科と数学は、見た目は違うし、物事に対するアプローチの仕方もぜんぜん違う。

 けれど、本質はどちらもとても似ていて、生まれてからずっと、互いに助け合い、刺激し合い、影響し合って成長してきた仲なのだということ。

 どちらにとっても、互いの存在がかけがえのないものなのだということ。



 いつまでも理科と数学のような関係でいられたらいいな――双眼鏡をのぞき込む真理の横顔を見つめて、私はそんなことを思う。



(終)

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

従姉妹と私は、理科と数学 鶴丸ひろ @hiro2600

作家にギフトを贈る

カクヨムサポーターズパスポートに登録すると、作家にギフトを贈れるようになります。

ギフトを贈って最初のサポーターになりませんか?

ギフトを贈ると限定コンテンツを閲覧できます。作家の創作活動を支援しましょう。

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ

同じコレクションの次の小説