第13話 私の眼鏡
真理がかけているあの瓶底眼鏡は、もともと私がかけていたものだ。
私があの瓶底眼鏡をかけ始めたのは、小学一年生の春だった。当時はまだ技術的な理由で、ひどい近視の人は分厚いレンズでなければ眼鏡が作れなかった。
小学校のクラスメイトからガリ勉と呼ばれていたときも、心機一転で髪を切ったときも、あの瓶底眼鏡はずっと私の顔の上に乗っていた。
――よく見たらあの眼鏡、デカすぎじゃない?
髪なんか切るんじゃなかった。
そんな考えを
「数美ちゃん。裏庭に洞窟があったから、一緒に探検しようよ!」
同じく小学生だった真理が遊びに来た。
当時の真理は、まだ今のような変な格好はしていなかった。眼鏡はかけていなかったし、白衣もアフロもなかった。人よりも少し好奇心が強いだけの、年相応の可愛らしい女の子だった。
真理は誤解されやすいけれど、当時からかなり気遣いのできる優しい子だった。そういうところも、真理と私は対照的だった。私は本当に身勝手な人間だった。いや、今でもそう、身勝手な人間だ。真理はいつも意識のベクトルを、自分という枠の外側に向けているけれど、私は意識のベクトルを自分の内側に向けている。
「わあ! 数美ちゃんの髪が短くなってる!」
髪を切った私を見て、真理は大げさなほど目を丸くした。
けれど、私は真理のことを無視していた。真理の無邪気なその振る舞いが、羨ましくて、妬ましかった。
「あれ? ねえ、数美ちゃん?」
私とノートの間に、真理は顔をぐいと入れた。真理の大きな目に、――視界に入るすべての情報を一つも見逃すものかと言わんばかりの大きな目に、私の滑稽なほど大きな瓶底眼鏡が映り込んでいる。
「……なんですか?」
私が不機嫌な様子を隠さずにしてそう聞くと、真理は眉毛を見事なハの字にして、
「数美ちゃん、どうしたの? 元気がなさそうだけど」
「……放っておいてください」
真理は困惑していた。当然だった。真理にそんな態度をしたのは、この時がはじめてだった。
それから、真理はたくさん声をかけてくれた。地方ごとの海の砂浜が入った小瓶のコレクションを見せたり、テレビでやってたトランプのマジックを披露したり、笑わせようとヒョットコの物まねをしたり。
「ねえ、数美ちゃん。元気出してよお。私に出来ることなら、なんでもやるから」
「真理には分かりませんよ」
しつこい絡みに折れて、たしか、そんなことを言ったのだ。
「真理は目が良いですから。私みたいにひどい近眼で、どんなときでも分厚い眼鏡をかけなくてはいけない苦労を、真理は分かりませんよ」
私の突き放すような言葉に、真理はこう返した。
「じゃあ、私も眼鏡をかけて生活したら、わかるようになる?」
「普通の眼鏡ではダメなんです。近眼だと、光を強く屈折させなくてはいけないので、レンズを太くしなくてはいけないんです。だから、牛乳瓶の底のような眼鏡になるんです。目の良い真理には、絶対にわからないです。真理の目が悪くなって、分厚い眼鏡をかけなければいけなくなるか、あるいはこの眼鏡をかけるか。そうしなければ真理にはわかりません」
真理は唇を噛んで、俯いていた。やがてぽつりと呟くようにして、「じゃあ、そうする」と言った。
「……え?」
「だったら、私は数美ちゃんのその眼鏡をかける。そうしたら、数美ちゃんと同じ、でしょ?」
真理の反応に私は動揺した。
「……別に、本気で言ったわけではありません。真理は目が良いんですから、眼鏡をかける必要なんてありません」
「度を抜いて、今の数美ちゃんと同じ太さのレンズにする。そして、それを私がかける。それで、数美ちゃんがどんな気持ちなのか知りたい」
真理はとても頑固な女だった。こうなったらテコでも譲らないし、やると決めたらすぐに行動に移すのだ。十分後には、真理は二人の母を納得させ、眼鏡屋に行く準備を済ましていた。
私も、後には引けなくなって、一緒に眼鏡屋に行った。そこで、私は眼鏡を新調し、そして真理は、私の瓶底眼鏡をかけることになった。
「どう? 似合ってる?」
ただの分厚いレンズを入れただけの、私の瓶底眼鏡をかけた真理がそこにいた。
「わー、すっごく重たい。数美ちゃんはずっとこれを顔に乗せてたんだね」
そのとき、私は裸眼だったから、視界はブラシでぼかした抽象画のように、ぼんやりとしていた。真理の顔にどんな表情が浮かんでいたのか、しっかりとは見ていない。
だけど、あのときの真理の表情が、どんなものだったのか。それはたとえ眼鏡がなくたって分かった。
風呂場の泥水を見て、どうして海にならないのかと考えていたあのときと同じ。
どうして私が悩んでいるのだろうかと、その原因を解明しようとしている、真剣でまっすぐな表情だ。
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