第9話 数学で表現できない感情

 合力真理の眼鏡は伊達だてである――その噂は、すぐに広がった。


 それでなくても校内で浮いていた真理だから、彼女のさらなる変人エピソードには誰もがおもしろがって食いついた。服装の好みが変なのは知っていたが、あの分厚い眼鏡までもがファッションだったなんて――翌日の理系棟の廊下はそんなうわさ話で持ちきりだった。


「ねえ真理。お願いですから、もう少し格好には気をつかってくれませんか?」


 旧校舎で真理にそう言ったとき、私の口調は少しだけ荒かった。

 真理はそのとき、仮眠から起きたところだった。彼女は暗記の後に、教室の後ろに寝袋を広げて十分ほどの仮眠を取るのが習慣だった。


「んー、いやだ」


 目をこすりながらトロンとした口調で真理は言った。


 今日一日、教室で過ごしていたのだから、真理だって自分の眼鏡のことが噂になっていることを当然気付いている。それなのに、まったく気にしていない様子で瓶底眼鏡をかけている。


「前から言ってますけど、私はその眼鏡をやめて欲しいんです」


 ぐぐぐ、と真理は伸びをした。


「いーやー。――ふぁああ、これがあればいろいろと便利なんだもん。目も保護されるし。なにより似合ってるし」

「似合ってません。全然似合ってませんよ」

「そんなことないよ」


 真理はまったくとりあってくれない。眠たそうに、ぼりぼりと頭をかく。


「私はこれがいいの。クラスの人が何か言ってても、私がこうしたいんだからこれで良いでしょ」

「今はそれでも良いかもしれませんけど、社会に出たら最低限の身だしなみをしなくてはいけないんです。どれだけ避けようと思っても、この社会で生きていくためには人との関わりは逃れられないんですから、きちんと自分のことを分かってもらおうとする努力だって必要なんです。いつまでも、変人だって笑われてばかりで、他人からの協力を受けられなかったら、真理が苦しむことになるんですよ」

「じゃあそれはまた社会に出るときに考えます。――ふああぁ」

「ダメです。今すぐにでもその眼鏡を外してください。どっちにしても、伊達眼鏡なんですから必要ないでしょう」


 真理が珍しく怪訝そうな顔をした。


「なに? しつこいな。私はこれが好きだからかけてるの。放っといてよ」

「いいえ、放っておきません。私は嫌なんです。従妹が変人って言われてる私の気持ちも少しは考えてください」 

「別に数美のことを言われてるわけじゃないんだから、気にしなかったらいいじゃない」


 かちんときた。

 どうして私の話を聞いてくれないのか。


「じゃあ、私はもう真理のことなんて知りません」


 思っている以上に冷たい言葉が口から出てきた。


「私がこれだけ言っても、聞いてくれないなら、もう何も言いません。勝手にやったら良いじゃないですか」

「え?」


 真理が顔を上げた。


「真理は、私の忠告なんて必要ないんでしょう。だったら、勝手にしたらいいんです」

「え、でも、」


 私は机の上の参考書を片付けながら、


「もうお終いです。こうやって真理に勉強を教えることも、夏祭りで一緒に実験をすることも、全部やめです。あとは一人でやってください」

「ちょ、ちょっと待ってよ」

「それでは」


 何かを言おうとする真理を無視して、私は教室を出た。



 塾へと向かって電車の中で、私はふいに我に返った。

 私は、なぜこんなにいらいらしているのだろう。

 真理は真理で、勝手に楽しくやっているのだから、それでいいはずなのに。私の言っていることは、別に真理のためでもなんでもない。単なるお節介だ。それは、一足す一が二になるくらい、ゼロを掛けたら答えが必ずゼロになるくらい、明白な事実だった。


「……」


 だけど、彼女のことを放っておこうとしても、なぜだか悔しくて、無性に泣き出したくなるこの気持ちは、きっと数学では表現できない。

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