温泉

 濛々と立ち上る湯気が、梁から吊り下げられた電球の光をぼんやりと滲ませていた。電球が橙色に照らす柱の向こうは、ほとんど深淵とも言えるくらいに真っ黒の宵闇が満ちている。折角の露天風呂なのに、外の景色はすっかり見えなかった。まるでこの露天風呂が丸ごと闇の中にプカプカと浮かんでいるかのようにも思えてくる。旅館に着いた夕方には、まだ向かいの山々の稜線までくっきりと見えていたのに。


 息をついてみると、ついた息も、すぐに立ち込める湯気の中に紛れて消える。


 まぁ、これはこれで趣深い気もする……。


 水面には宵闇と電球の光がちらちらと揺らめきながら照り返していて、思わず無為に手のひらで湯を掬い上げたり波立たせたりしてしまう。水面に息を吹きかけると、細かい湯気が、まるで糸くずの生き物のように湯の表面を滑り、散り散りに散っていく。吹くのをやめると、すぐに戻ってくる。何度か息を吹いたり潜めたりしていると、その傍らで、外から吹き込んでくる夜風が、頬や半身を徐々に冷やしていく。


 いつしか肌寒くなってしまって、再び顎まで温泉に体を沈める。


*


 飲みかけのコーヒー牛乳の瓶を右手に、静まり返った夜半の静寂に耳を澄ませてみる。


 低く呻くような自販機の駆動音に、扇風機の風音。天井に据えられたそれがゆっくりと首を振りながら、時折柔らかい風をこちらに送ってきて、ホカホカとまだかすかに湯気の立ち上る体をひんやりと冷やしてくれる。いつの間にか澄が左肩に凭れるようにして眠っていて、熱いような体温が伝わってきて、かすかにシャンプーの香りが鼻腔をくすぐっている。


 透き通るように白い髪に、右手で掬い上げるように触れた。絹糸のような滑らかな手触りに、扇風機の風でさらさらと揺れるさまと相俟って、どこか水面が揺らめいているようにも見える。寝息に合わせてわずかに肩が上下して、そのたびに髪と同じ、白く長い睫毛がキラキラ輝いている。


 キラキラと……。


 ………。


*


 ふと、胸中に一抹の不安がよぎった。


 もしかすると、この澄は――。


 思わず固唾を飲んでしまう。


 ここにいる澄さえ、私の一部なのではなかろうか……?


 俄に、扇風機の音以外に物音ひとつない静寂が、シンと一層耳に刺さった。底冷えするような、震えだしそうな恐ろしい感覚が、胸中から徐々に全身の隅々まで行き渡り、体を芯から冷やしていく。暑いはずなのに、その一方で今や震え出しそうに寒い。私は足元へと視線を落とし、くすんだ色の絨毯を睨みつける。ややあって、全身の緊張が弛緩し、代わって一層ひどい怠さが体を包み込むようになる。いつしか静寂さえ遠のいている。


 私はぎゅっと目を瞑った。


 震える唇で呪文コマンドを唱える。


*


 暖簾が持ち上がり、浴衣姿の銀目が姿を見せた。


「おまたせニャ~」


「ぎ、んめ……」


 思わず漏れた声はひどく掠れていた。どれくらい経っただろう。いつの間にか眠ってしまっていたのだろうか。何十年かぶりぐらいに目を覚ましたかのような怠さが全身を包んでいる。銀目の声がひどく久しぶりに感じる。左手で澄が身じろぎをする。彼女も目を覚ましたようだ。


「あ、銀目ぇ遅いよ~」


「ニャ……、ずいぶん仲よさそうニャン……」


 銀目が私の右手側に腰かけて、澄に倣って右肩に凭れかかる。「な、なんなの……」私が戸惑って声を上げても返事はなく、その代わりに、フゥーンと満足そうな声が横から聞こえるのみ。

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天津方舟 古根 @Hollyhock_H

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