エレベーター

 手。


 手が……今、目の前にある手は、私のもので、ええと、今……今、私は何をしていたんだっけ。光っているものが、目の前に、ディスプレイが。こぼれている。焦げ茶色の液体が……「っ……」冷たい感触。コーヒー? 震える手を見る。目の前のキーボードに置いていた手の机に触れている部分――手首と手のひらに、コーヒーがべったりとついていた。袖も濡れてしまっている。冷たい。氷が机の上に散乱していた。のろのろと手を持ち上げる。大惨事だ……。早く拭かないと。手が震えている。冷たくて、寒いから、こぼしてしまったアイスコーヒーが冷たくて――違う。


 違う。寒い、わけではない。


 背筋ががたがたと震えている。居ても立っても居られない。弾けるように立ち上がる。誰もいないオフィス。薄暗く、私の立っている周囲だけを照明が照らしている。低く唸るような空調の音だけが、たぶん意識を取り戻す前から、もうずっと周囲を満たしている。猫、そうだ、猫は――猫? 猫が、ええと。


 混乱している。床がぐらぐらと揺れているような気がする。ひどくめまいがしている。震えが治まらない。たまらず屈みこむ。動悸を抑えるために、我知らず息を殺してしまう。息苦しい。誰か。


 誰か、助けて。


 *


 誰もいない。私が歩いていくにつれ、カチリ、というかすかなスイッチの音とともに、照明が行く先を明るく照らしていく。誰もいない。行き当たったエレベーターホールで、エレベーターが訪れるのを待っていた。どれくらい待ったかもしれない。隙間なくぴたりと閉じられたドアの隙間が私を招き入れるのを、ただ祈るように見つめ続ける。


 *


 いつまで待ったかしれない。凍えるような思いの中、いつか、チン、と軽い音がエレベーターホールに響き、永遠に固く閉ざされ続けるものとさえ思われたドアが、じわりと開いた。黄色み掛かった照明が明るく中を照らし、エレベータは私が足を踏み入れるのをじっと待っている。


 我知らず、頽れるようにエレベータに足を踏み入れた。私が奥の壁に凭れるあたりで背後の扉が閉まる音が聞こえた。そのまま、ふわりと重力が強くなる。体重が増したような感覚。しばらく――数秒ほどの間、それは続き、それからまた元に戻った。


 いつしか背筋の震えは収まっていた。額を壁に預け続けていたが、振り向くようにして背中を預け、そのまま床にへたり込む。頭上の階数の表示は数を増していき、次第にこのビルの最上階の数を超えてしまった。なおエレベーターは止まらない。悪寒はまだ収まらなくて、膝を抱えるようにして身体に寄せ、腕の中に顔を潜り込ませるようにすると、少しぬくくなった。


 *


 筐体が空気を切る音。優しく私を包み込むような静寂。平穏。エレベータはいつまでも昇り続けていく。

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