天津方舟

古根

誘蛾灯

 鈍い光が足元を照らしている。


 羽虫が羽ばたくような、低くかすかな振動が頭上から降りてくる。蛍光灯が据え付けられた古びた電柱。時折チカチカと瞬くそれが照らす狭い範囲の外はもう、真っ黒いベールのような宵闇に覆われている。私はその狭い範囲のなかで、足元にじっと注視しながら長いことバスを待っていた。蛍光灯の光のなかに、私と、私の隣に古びたバス停が佇んでいる。ぶん、という蛍光灯が洩らす音の他には音ひとつない静寂の中、足元に、ひび割れのあるアスファルトの上にぼんやりと影が二つ。


 あてどなく歩いてきたせいで、正直なところ、ここがどこだかも覚えがなかった。そもそも、いつからさまよっていたのだったろうか。よく覚えていない。今までも何度か時折こういうことがあって、気がつくとこうしてバスを待っていたり、電車を待っていたりする。大抵、なんとなく、そろそろ帰ろうかな、と思うぐらいの拍子に。


 ふと、左腕をかすかに持ち上げ、甲に視線を向けかけ、腕時計をしていなかったことに思い至ってやめた。バスはまだ来ない。そもそもいつ来るのか、バス停の表示も見ていないことを思い出し、傍らに視線を向けかけ、やはりやめる。今は何時なのだろう。――いつでもいいか。昔はともかく、今はもうそれほど必要なくなった考え方だったことを思い出す。昔っていつのことだったろう。


 ――思い出せない。


 夜半の空気はどこか香しいようだ。深く息を吸い込むと、昼間にはない乾燥したような大気の匂いと、かすかな排ガスの香りと、土と青草の匂いがする。胸が締め付けられるような。蛍光灯の向こうのまるでなにも見えない夜空を振り仰ぎながらゆっくりと息を吐き、また吸い込み、――何度かそうしているうちにやがてあれほど香しく感じた匂いもだんだんと感じなくなっていく。


 通りに風が吹き抜ける。にわかに葉擦れの音が立ち起こって暗闇のなかしばらく周囲を満たした後、風が止んでまた静かになった。


 なんとなく足元に視線を落とすと、アスファルトの上を小さな虫が這っていた。スズメガというのだろうか。全体的に茶色がかった体色に、その茶色の濃淡で形作られる地味な模様。どこからか飛んできたのだろうか。先程までは居なかったのに、――それに、翅がぼろぼろだから、もしかしたら風で飛ばされてきたのかもしれない。もう長くはなさそうだ。ゴマ粒のような黒い複眼。櫛状の触覚。スズメガは動きを止めた。


 *


 長いことじっとスズメガを見つめていると、やがて再び辺りに風が起こった。もうずっとぴくりとも動かなかったスズメガは、風が起こるだに急に翅をぶるぶると震わせだして、前足を持ち上げ、――飛び立った。


 あっ、と声が洩れる間にも、彼は風に載せられ、視界から消えてしまった。風はしばらく吹いていたが、いくらかするとそれも止んで、辺りは三度静かになった。私はスズメガの去っていった方から視線を外せず、風が止んでもなんとなくじっとそちらの暗闇を見つめ続けていた。けれどやがてそれにも飽きて、また足元に目を落とす。バスはまだ来ない。

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