記憶

 人混みのなかに、見知った背中と尻尾が紛れていくのを見たような気がした。流しかけた視線を戻して目を凝らすと、もうその姿はなく、立ち並んだ屋台の灯りが往来を照らし出すばかりだった。


 日はだいぶ前に隠れてしまって、空は宵闇に覆われ始めている。夜空は参道の両脇に並ぶ屋台の明かりをぼんやり滲ませ、その光の向こうで木々が黒々と葉を繁らせている。時折通りに風が起こって、屋台の布の看板がばたばたと音を立てる。


 尻尾が消えたように見えたほうまで歩いていくと、ちょうどそのあたりで屋台の列が途切れていた。屋台の切れ目に向かい、参道から別れた石畳が点々と伸びている。石畳は少し歩くと木立ちの中に続いていて、その口に朱塗りの小さな鳥居が佇んでいた。


鳥居の前まで行くと、木立ちの中にまるで明かがないことがわかった。両脇に茂みと、石畳がぽつぽつ続いている道の先の方はもう闇に紛れて見通せない。銀目はこの先に歩いて行ったのだろうか。……もしかすると、黒猫娘だから夜目が利くのかも知れない。


両手で体を抱える。寒気のような不安が頭をもたげる。


 少し怖い。怖い……と感じたのも久しぶりで、怖いと思ってることに気づくのにもいくらか時間がかかった。背後を振り返ると、顔も見知らぬ人々が談笑しながら往来している。再び前を向くと、今度はなぜだか、小道の先で、銀目がひとりぼっちで私を待っているような気がした。急に居ても立ってもいられなくなって、往来のざわめきを背後に残し、鳥居の先に足を踏み入れる。


 *


 少し進むと自分の体さえ見えなくなった。はじめは後ろから祭りのざわめきが聞こえていたが、すぐにそれも途切れてしまった。それでもしばらく木々の葉擦れの音が続いていたものの、いつしかそれも聞こえなくなった。まるで音のない、耳鳴りが聞こえるほどの静けさの中で、心臓の音と、地面を擦る自分の靴音だけが世界のすべてになった。その場に頽れて蹲ってしまいそうになる。心細い、と最後に感じたのもいつのことだったろう。ひどく久しぶりに思える。


 *


 どれくらい歩いたか知れない、ふと暗闇の向こうに橙色の光が見えた。思わず駆け出して――「あっ!」しまった、と思う頃には体のバランスを崩していた。暗闇で平衡感覚も失っていたのかもしれない。とっさに突き出した手のひらが地面をとらえ、それでも防ぎきれずに地面に腕をしたたかに打ち付けた。痛い、痛みとともに、地面――の感触が少しおかしいことに気が付いた。土と石畳ではない、つるつるとして硬い感触。


 痛みをこらえながら体を起こす。あたりを伺うと、橙色の光が目に飛び込んできた。夕陽が差し込んできている。私が倒れた周囲が、まるでハサミで四角く切り取ったように夕陽に照らされていた。どこから差し込んできているのだろう――そう思いながら視線を周囲に向けると、薄暗かった辺りの様子が次第にはっきりと見えるようになってきた。


 大理石様の床。白い床の通路が前方に続き、それを挟むように様々なお店が並んでいる。ショッピングモールだろうか。夕日は天窓から差し込んできていた。夕日以外に明かりはなく、人が往来する様子もない。


 *


 誰もいない。


 いくつかのエスカレータを昇っていくと、やがてフードコートにたどり着いた。大きなホールにたくさんのテーブルと椅子とが並べられているけれど、やはり人影はない。中央のあたりにモール全体の地図と、不思議な形のモニュメントが据えられている。焼きそば、天丼、つけ麺、様々な看板のお店が周囲を囲い、そのどれも営業している様子はない。


 無人の飲食スペースを挟んで、ホールの反対側は一面ガラス張りで、燦々と夕日が降り注いでいた。薄暗いこちら側とはどこか対照的に、光が溢れている。ずっと向こう側にエスカレータが据えられているのが見えた。


 エスカレータを昇りきった先は、こじんまりとした休憩スペースになっていた。正面に自動ドアがあって、そこから外――屋上に出られるようだった。屋上にもたくさんのテーブルと椅子が並べられていて――たぶん貸し切ってパーティーなどができるのだろう――一番向こうのテーブルに、こちらに背を向けるようにして銀目が座っていた。


 *


 少しべたつく潮風が髪を通り抜ける。屋上の手すりの先には海が広がっていた。


 隣まで来ても、銀目はこちらに気づいたそぶりさえ見せず、夕陽が水平線の向こうに沈んでいくのをじっと見つめていた。切れ長の目は吹きすさぶ潮風に少し眇められている。表情はない。宝石のような銀色の瞳に、今赤々と夕日が小さく映りこんでいる。風に散らばる銀目の黒髪が夕陽を透かして煌めき、どこか金糸のようにさえ見える。いつしか私は彼女の横顔に見とれていた。


 *


 そのままどれくらい経ったか知れない。ふと銀目はこちらを向いた。まるで隣の私に今しがた気がついたように彼女は目を見開き、それからどこか寂しそうに微笑んだ。

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