chapter 6 『亜由美の行く道』(後編)

 私は、幼少期より周りから「可愛いね」と褒めそやされながら育った。

 それは小学校、中学校でも続いた。そんな中で、自分が容姿において得をしている、と自覚した。しかし、決して目立ちたがり屋でもなく、どちらかというと内向的な性格の私は、そのことでいい気になってわがままな振る舞いをしたりする、ということはなかった。



 高校時代のある日のこと。

 あるクラスメイトの男子に、告白された。

 だがなんとその男子は、私の一番の親友の女子が憧れてるんだと前から言っていた人物だった。

 さすがにその親友の顔が頭によぎって、返事を一瞬躊躇した。でも……実を言うと私自身もちょっといいな、と思っていたのだ。頼まれたらイヤとなかなか言えない優柔不断な性格も災いして、私はその場でオッケーの返事をしてしまった。

 その噂は、数日を待たずしてクラスのみんなに広まった。放課後、呼び出されて言われた親友のあの一言が、今でも忘れられない。

「あんたはねっ、顔がカワイイから告られたのよ、きっと。だってそうじゃない!? あんたから見かけを取ったら、一体何が残るっていうのよ。なぁ~んもないただのバカ女じゃない!」

 そして最後に絶交を言い渡すと、彼女は去って行った。

 教室に一人取り残された私は、呆然と立ち尽くした。

 その通りだ。私から可愛さを取ったら、何が残る? 確かに何もない。

 チヤホヤされて生きてきた私は、自分が自分だと誇れるものを何も築き上げてこなかった、という事実に直面した。



 彼と付き合い始めて二週間後。

 彼の部屋で、私はカラダを求められた。

 当時の私は、見かけに反して性には奥手だった。きっと変わり者だったと思う。

 周りの子はすでに体験済みみたいだったし、数人はすでに中学の時やったと言っていた。私はなぜかそういう方面には保守的で、十八歳になってからでいいや、ぐらいに思っていた。特にしたい、なんて思えなかったしね。

 男の子には申し訳ないが、キスより先の行為にはまだ抵抗があった。相手のことをもっとよく知り、愛を深めてこそのセックスだと当時は考えていた。

 断るのは苦手な私も、この時ばかりは拒んだ。彼は一言「分かったよ」と笑顔で言ってくれて、うれしかったのを覚えている。

 だが、その言葉はまったくうわべだけのものだったことを、後日思い知らされることになる。



 ある日の夕方、彼に呼び出された場所へと、何の疑問もなくのこのこ行った私に待っていたのは……

 凌辱だった。

 彼と、ガラの悪そうな会ったこともない男子が三人いた。

 着くなり、男子の一人のこぶしが飛んできた。

 何が起こったのか理解できぬまま、私は後方に吹っ飛ばされた。

 日頃から部活や運動などもしておらず、体力のなかった私はまったく抵抗できない。すぐそばに取り壊し寸前の誰もいない雑居ビルがあり、そこに連れ込まれた。

 制服をはだけられ、ありとあらゆる辱めを受けた。

 彼は、私を貫きながら吼えた。

「オレはな、オマエみたいなカワイイのとやりたかったから付き合おうとしたんだよ! なのにヤラせてくれないって何だよ、それ? 意味ないじゃんかよ。

 いいのは顔とカラダだけでよぉ、そんなにもったいぶってんじゃねーよ!」

 性を踏みにじられたという悲しみ以上に、その一言は私の精神を破壊した。

 ……私は、カワイイだけ。

 男たちは、それぞれ気の済むまで私の体の上を這いまわり、私の中で果てた。  



 私は、廃墟に一人取り残された。

 剥ぎ取られた下着と制服を拾い集め、胸にかき抱いた。

 犯されている時は頭が真っ白だったのに、今色んな思いが湧き上がってくる。

 自分の欲のために、親友を失った。

 親友を犠牲にしてまで得た彼の正体は、ケダモノだった。

 そして何より、私にはオンナの部分以外に何の取り柄もないことを思い知った。



 いつしか、夜になっていた。

 廃墟の窓から差し込む月明かりが、半裸の私を照らす。

 ……これが、小さい頃から可愛いとチヤホヤされてきた、愚かな娘の無残な末路。

 私は、火がついたように泣き叫んだ。

 真っ赤な炎がすべてを舐めつくすように激しく泣く一方で、心の奥に静かにゆらめく、青白い別の炎が存在することを感じた。

 私に顔とカラダしかないんだったら、それを武器に生きてやる。

 ある意味で、これがAV女優・亜由美が誕生した瞬間であった。

 痴態をケータイのカメラで撮られ、チクったら写真をバラまくと脅されていたが、腹をくくっていた私はそのボロボロの姿のまま警察に向かった。

 かたきは取れたが、虚しさを感じて高校を中退し、そして18歳になるのを待ってAV女優となり、今の私がある。




 とても長い告白を、佐智は静かに聞いてくれた。

 びっくりしたことに、話した私ではなく佐智のほうが泣き出した。

「ごめんなさい……私、かけてあげる言葉を見つけられないよう。一生懸命想像するんだけど、とてもじゃないけど亜由美の受けた心の痛みを理解してあげられない。悔しいよう!」

 驚いた。「分かるよ」とか言ってヘタに同情されるよりも何十倍も心に沁みた。

 私はそっと、彼女の肩を抱いた。

「……ありがと」

 私のために泣いてくれた、初めてのオトモダチ。

 傍目にはどっちが悩みを打ち明けたほうで、どっちが相談を受けているほうかをきっと間違って判断されるだろうな、こりゃ。

「ただね、これだけは言わせて。幸せになれない命なんてない。生きる価値のない命なんて、ない」

 佐智はそう言ったっきり、膝に顔を埋めた。

 そんな彼女に時間の許す限り寄り添い、体温を肌で感じ取った。

 まるで、佐智のぬくもりを絶対に忘れまいとするかのように。



 清水先生と佐智に出会えたことで、私はようやくAV女優を辞める決心をした。

 男優の池上さんも、私と一緒に美緒の自殺を目の当たりにした冬木マネージャーもやめてしまった。彼らが辞めても、代わりはいくらでもいる。そして、何事もなかったかのように業界は回り続ける。私自身も、何だか虚しくなった。

 幸か不幸か、ちょうどメーカーとの専属契約の更新時期に来ていたが、辞めるにもあと一本は出演しないといけないことになっていた。もし、それを断れば数百万の契約違反金を払わねばならない。

 実は、私は美緒のことを笑えない。私にも、貢いでいる男がいた。

 昔ホストをしていたが、今は女の子をだましてAVに出演させたり風俗に沈めたりして業者からマージンを取っている、いわゆる『女衒(ぜげん)』というヤツだ。

 蓄えのない私に、選択肢はない。それだけは、頑張って出なくちゃ。

 そして、あの男とも別れるんだ。

 佐智と一緒に、日の当たる場所でもう一度輝くんだ。



 身も心もボロボロになった私は、フラフラとあの堤防を目指して歩いていた。

 そう。こないだ佐智と過ごした、あの場所。

 堤防から川の方へちょっと下った坂に、腰を下ろす。

 草の香りが鼻腔をくすぐる。普段、職業柄人工的なにおいばっかりかぎすぎていたせいか、自分の思考とは関係なく涙が出てきた。



 引退作となる最後の作品を、昨日撮り終えた。

 過去の重荷を人に話すことで、恨みに凝り固まっていた私に、閉ざされていた世界が開けた。

 しかし、それによって今まで何とも思わなかった演技だけのセックスができなくなっていた。

 撮影中、私は体の上を虫が這いまわるような嫌悪感を必死に耐えた。性を売るということが、実は女としての自分の命を削って切り売りすることとイコールなんだと、初めて理解した。

 性を売るすべての女性がそうなのだということではない。少なくとも私にとってはそうだった、というだけのこと。

 最後まで笑顔の仮面を被り続けたが、心では血を流していた。

 撮影後、バスルームで私は体中に爪を立てて、ひたすら掻きむしった。

 爪が肉にめり込み、血が流れるのもおかまいなしに力を込めた。

 そして、女の部分にシャワーの水流を押し当て、憑かれたようにタオルで何度もゴシゴシこすった。まるで、そうすれば肉体の穢れを落とせるかのように。



 もはや、自分が世界で一番汚らわしい生き物のように思えてきた。

 普通の幸せをつかむ資格なんて、ない。

 ……でも、愛が欲しいよう。

 今一緒に住んでいる男は、私の金と体が目当てだ。別に、私のことを愛してくれているからではないと心の隅では理解している。今でこそ何であんな男を好きになったのかと思うが、心が破壊されて愛というものが分からなくなり、盲目になっていたからだろうと思う。

 最後の撮影で、女として残った僅かな尊厳さえ破壊され疲れ切った私は、清水先生や佐智に連絡する気力も意欲もなかった。なのに、無意識に目指してきたのがこの場所だったことに気付き、自嘲気味に笑った。



 しばらくして、何かの違和感を感じた。

 ふと、隣に目をやる。

 ……あんた、いったいいつから座ってたの?

 ゼンゼン気が付かなかった。

 そこには、小学校低学年くらいの女の子が座っていた。

 学校帰りなのか、赤いランドセルをしょっている。子どもなんて縁のない生活環境だったから、こんなに間近で接するのは久しぶりで、新鮮な感じだ。

 よく見ると、かわいい子じゃないの。子ども自分の私に、似てなくもない。



 その子は、じっと空を見ている。

 気付いた私が何も言わないでいるのもヘンだと思ったので、「こんにちは」と声をかけてみた。

「こんにちは」

 初めて二人は、顔を見合わせた。不思議と興味が湧き起り、聞いてみた。

「あなた、お名前は?」

「アユミ」

 初め冗談かと思った。でも、よく見るとランドセルの横に付いている名札に、『本城 歩美』とあるのに気付いた。何だか、すごい偶然。

 ……亜由美と、歩美。

 同じ名前でも、あなたと私の人生はめちゃくちゃ違うよね……って、何がどう違うんだろう?

 歩美ちゃんは、視線を空に戻していた。

 あなたの目には、何が映っているの?

 お空を通り越して、その先に何を見ているの?

 お姉ちゃんね、それ知りたいな。

 教えてほしいな。

 私は違う目でこの空を見たい、この子の見ているものと同じ景色を見たいと、切実に思った。



 しばらく歩美ちゃんと一緒に座っていると、村島メグミと名乗る子から声をかけられた。多分、私と同い年か、ちょと下くらいだろう。

 彼女は私と同じ雰囲気をまとった人物であったが、私と決定的に違う点がひとつだけあった。

 目が、死んでいない。この子は私のように自分を汚す道を歩いてきたのだろうが、今のこの子には生きる支えになっている何かがある。

 親近感を覚え、彼女と夜になるまで寄り添って過ごした。そして、流れでメグミに誘われるまま行った先のマンションには、何と佐智がいた。

 向こうも、私の意外な訪問にビックリしたようだ。

「あら、お帰りなさい」

 佐智はにっこりしてそう言った。エッ、お帰りって……?

 一瞬戸惑ったが、私も自然に笑顔になってこう返した。

「ただいまぁ!」

 その日から、私はそれまでのしがらみを捨てて、彼女たちとの共同生活を始めた。

 もう、AV業界にも、あの男のもとにも、戻らない。



 そんなある日の夜。

 玄関で、怒声が聞こえた。

「何よアンタ、どうやって入ってきたのよ!?」

「……オレの女が、ここに厄介になっているはずなんだ。隠したって無駄ってもんですよ」

 ああ、恐れていたことがとうとう起こってしまった。

 あの声は間違いなく浩樹だ。私と同棲していた男。まさか、ここまで嗅ぎつけて追いかけて来るとは! 逃げればどうにかなる、と思っていた私が甘かった。

 リビングにいた私と佐智は、玄関に飛んでいった。

 そこには床に倒れ、腹を蹴り上げられ体をくの字に曲げて苦悶の表情を浮かべているメグミの姿があった。玄関には、胃から逆流した吐瀉物が飛び散っていた。

「かわいそうだとは思いましたが、少々元気のいいお嬢さんだったので、やむを得ず相手させてもらいましたよ。悪く思わんでください」

 佐智は駆け寄ってメグミを抱き上げ、背中をさすった。

「……ったく、手間取らせやがって。オラ、帰るぞ亜由美。オレに逆らったっていいことなんかひとつもないことくらい、身に沁みて分かってるだろ?

 あ、あとそこのオネエサン。サツに電話したところで、世の中は理不尽に満ちているってことがよーく分かるだけだから、ムダだよ」

 あとのは、佐智に向けた言葉だった。浩樹のバックには、警察と癒着があると噂されるほどの広域暴力団の幹部クラスがいる。

 彼を訴えても、よりひどい目に遭うのは多分こっちだ。

「佐智、ごめんね。迷惑かけた。今までありがとう——」

 身を裂かれるより辛かった。異常な世界に自分で足を踏み入れたツケが回ってきたんだな。帰りたくはないけど、大事なトモダチを守るためなら仕方がない。

 一切の普通の幸せと決別する覚悟を決めた。

 みんな、バイバイ。



「……ちょっと待ちなさいよ」

 いきなりの大声にビックリした。

 声の主は、佐智だった。

 何の躊躇もなく、ツカツカと浩樹の前に歩み寄る。

「亜由美を連れて行かせはしません」

 浩樹の顔が歪んだ。何かが癪に障った時の表情だ。そうなった彼は、何をしでかすか分からない。

「ああ? 何だって?」

 言い終わる前に、浩樹は佐智の横面を力任せにはたいた。

 平手ではあったが、あまりの衝撃に彼女の体は玄関の壁に激突した。

「面白いじゃないか。言えるものなら、同じことをもう一回言ってみるんだな」

 佐智の目は、完全に据わっていた。

 ふらつきながらも、また浩樹の前にヌッと立つ。

「彼女と手を切ってください」

 佐智が廊下の奥に吹き飛ばされるのが、スローモーションで見えた。

 浩樹は、今度はゲンコツで彼女を殴りつけた。

 血とともに、佐智の歯が飛んだ。

 私はその地獄を正視できず、悲鳴を上げた。

「いやああああああ!お願いだから、もうやめてぇ……」

 殴った当の浩樹もかなりこぶしを痛めたらしく、しきりにさすっている。

「ちっくしょう、手間かけさせやがって!」

 私は、倒れ込んだ佐智に駆け寄った。しかし彼女は、私の手をパシンと払いのけて再びユラリと立ち上がった。顔は腫れ、口元からは血を流している。

 佐智のその姿は、今まで私が闇の世界で出会ってきた誰よりも恐ろしかった。

 それは、浩樹の恐ろしさなんかの比ではない。



「亜由美を、自由にしてあげてください」

 佐智の顔は、また浩樹のこぶしを受けた。

 もはや、もとの顔が分からない。

 体にほとんど力が入らなくなった彼女は、膝から床にくずおれた。

 それでもまだ、浩樹の足にすがりつく。

「あ、亜由美を……じ、自由に……」

 浩樹に、変化が起こった。

「ひいいいいいいい」

 彼は怯えていた。武器を持つわけでもなく、抵抗してくるわけでもない佐智を、恐れだしていた。明らかに、体が引けている。浩樹は焦りからか、めちゃくちゃに足を振った。振りほどかれ投げ出された佐智はなおも、浩樹にすがりつく。

「やめろぉ。やめてくれええええええ!」

 浩樹は、叫んだ。

「なんでだ。なんでだよぉ。お前、死ぬのが怖くないのか!? なんでそこまでできんだよ?」

 佐智は息も絶え絶えに、彼を睨みあげて答えた。

「……私の体をどうこうできても、心に対して何の力もないあなたを、恐れる必要がないからです」

 その一言を聞いた浩樹は、そのまま逃げ帰っていった。

 おそらく、彼の周囲には自分のことしか考えない人間ばかりだったんだろう。そして佐智のような、力だけではねじ伏せられないタイプの人間を相手に、どうしたらいいのか分からなくなったのだろう。



 嵐が去った。

 私はうなだれて謝った。

「佐智……本当にごめんなさい」

 そう言い終わらないうちに、佐智の平手打ちが飛んできた。

 バチン!乾いた音が、部屋にこだまする。

 次の瞬間、佐智は私を胸にグイと引き寄せて優しく抱き、むせび泣いた。

 今までの人生で、一番痛いビンタだったよ。

 でも、何だか温かかった。そしてうれしかった。

「何で、何で……私みたいな人間のためにここまでしてくれるの?」

 どうしても、それが聞きたかった。

 激情に駆られて泣いている佐智は、言いたいことを何とか言葉にした。 

「だって……だって、私たちはトモダチでしょ?」



 その瞬間。死んだ美緒のことを思い出した。

 彼女に、「トモダチじゃん?」って言ったら、バカにされたっけ。

 私は心の中で美緒に語りかけた。

 ……そっか。本当のトモダチって、こういうのを言うんだね。今やっと分かったよ。美緒、アンタにも伝えてあげたいな。

 不思議と、美緒が今の私たちを見ているような気がした。

 きっと、あの子も分かってくれたと思う。

 そこへメグミもやってきて、私たち三人は無言のまま寄り添い合って泣いた。

 ああ、ずっとこうしていたいな。いつまでも、いつまでも。

 笑った美緒の顔が見えたような気がした。

 ……バイバイ、美緒。これから私は一人で大丈夫だよ。

 お別れだね。アンタも元気でね——。



 もう、一生迷子になんかならない。

 すべてを恨み、敵に回して生きてきたあの亜由美はもう死んだのだ。

 初めして、新しい亜由美。

 私は、自分自身にそう挨拶した。 


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