chapter 7 『悠里の黙示録』~最終章~
かくれんぼしてて、誰もワタシを見つけてくれない。
暗い空き地の資材置き場の隅で、不安に駆られてモゾモゾした。
見つけるの、あきらめたのかなぁ。
それとも、ワタシが隠れていることなんて忘れて、みんなお家に帰っちゃったのかなぁ。
夕日が沈みかけた頃。
かくれんぼの終りも知らないで空き地で震えている、可哀想な女の子が見えた。
私は、ゆっくりと目を開けた。
……何だ、またあの夢か。
体が、鉛のように重い。どうやら、自分の意志で動かせるのは手だけみたいだ。あとは、首の向きを変えるくらいしか、できそうにない。
天井の蛍光灯の光が、まぶしい。
自分が誰かを思い出すまでに、しばらくかかった。そして、自分がなぜこんなところにいるかに考え至るまで、さらに数分を要した。
そうだ。私は学校で階段から突き落とされたんだ。ここは間違いなく病院。
私なんか、別に打ち所が悪くて死んじゃってもよかったのに。
そうだよ。私なんて、この世にいなくてもいい人間なんだよ。生きてる価値なんて、ないんだよ。いじめられたのだって突き落とされたのだって、私が世の中の邪魔者だからでしょ?
でなきゃ、こんな目に遭うはずがないじゃないの。
多分、その時の私は氷のような目をしていたと思う。
私の心を支配したのは、「無」だった。
生きて思考はしているが、感情の波らしきものは自分の中に一切なかった。何かを感じることを放棄していた、と言えるかもしれない。
一瞬だけ「世の中のすべてを破壊してやりたい。滅茶苦茶になってしまえばいい」っていう思いが、うねりとなってふつふつと湧き上がってきた。でも、それもすぐ泡となって消えていった。憤りのエネルギーよりも、絶望のほうが勝ったからだ。
私は、心を閉じた。自分を守るために。
そして、今後何者も私を攻撃できないように。
次の日の夜。
真夜中に目覚めた。寝汗をかなりかいていることに気付いた私は、手近にあったタオルで顔と胸の汗を拭った。
また、あの夢を見た。かくれんぼで、いつまでも見つけてもらえない女の子の夢。
物心付いた頃から、時々見るようになった。
その女の子は、多分私だ。
幼い頃、そんな経験をしたとかいうことは覚えていない。でも、あの子の姿はそっくりそのまま、今の私が置かれている状況と一緒だ。
でも、女の子のほうはまだ救いを求めている。
「ワタシはここにいるんだよう。誰か見つけてよう」って。
でも私は、違う。
救いなんか、ない。
もうどうでもいい。
この先私は長くは生きてないだろうな、とぼんやり考える。
死というものを考えるには、あまりにも深刻さがない。そう自分でも思った。
まるで、自分というものを外から客観的に眺めているような感覚であった。
自分の事なのに、すべてが他人事のようだった。
入院して、三日が経った。
昨日、大腿骨骨折の治療を受けた。主治医の小山田先生は言った。
「今日から、自宅療養に切り替わってオーケーだよ。一週間ちょっとは安静にしてもらわないといけないけど、その後は徐々に歩けるようになるよ。腕の傷の抜糸は一週間後だから、またおいで。それまでは訪問看護制度を使って、消毒とガーゼ交換はしてもらえるからね」
自分が良くなるとか、そんなことはどうだっていいと思っていた私は、ため息をついた。
先生の話を聞いている所へ、お兄ちゃんが車で迎えに来た。
私は介助してもらって、車椅子に移った。
「早く良くなるといいね」
小山田先生は、そう言って送り出してくれた。
お兄ちゃんに車椅子を押してもらいながら、ちょっとだけ先生にすまないと思った。せっかく私を助けようと必死で治療してくれたのに、私はその行為のすべてを無にしてしまうようなことを考え、実行に移そうとしていたからだ。
私は、死ぬことにした。
家に帰ってきてから二日目。
部屋の天井をじっと眺めながら、私は決して長いとは言えないこれまでの人生を振り返ってみる。
小さい頃から、私は母にあまりかまってもらえなかった。
父は仕事で年中忙しい人だった。
寂しくても、私はずっと我慢してきた。
自分でもなんでだろうと思うのだけど、私は友達付き合いが昔から下手だった。
そんな私は、本やテレビを友達にして育ってきたのだ。
小学校時代は、それでもまだ良かった
中学生になってから、私は急にいじめられるようになった。理由はまったく思い当たらない。
どうすればいいのか分からないまま、いじめられる日々が続いた。でも自分でも不思議なことに、私は傷付いて泣いたり、登校拒否になったりしなかった。先生や両親に相談しようとか、そういうことも全然考えなかったよ。
不幸中の幸いとうか、いじめは無視とか悪口とか仲間はずれとか、モノや体に手を出すレベルには至らなかったから、表立った問題になることもなく中学の三年間を終えた。
私はいじめに立ち向かわず、ただ耐えることを選択した。そして、行き詰った私の魂は「生きる」とは何かを考えだした。文学や哲学、精神科学など、生き方や思想の書物にその答えを求め、埋もれていった。
そして、高校生になった。新しい環境での一からのスタートだから、心機一転して頑張ることもできたんだけど、私はそうはしなかった。
自分というものを、見限っていたのだ。
相変わらず、自分に興味のあることだけに没頭する毎日だった。気が付けば、いつも一人。
授業を受け、休み時間には読書をし、放課後は図書室へ寄ってから家に帰る。
私は自嘲的に自分を納得させた。「これでいいんだ」と。
その頃からだろうか。
私の精神は、自我というものを離れてフワフワ漂うようになった。
自分が、自分でない。
人の気持ちが、分からない。
自分が何を求め、他者が自分に何を求めているのか、分からない。
世界が、私を何のために生み出したのか、分からない。
分からない。
分からない……
高校三年になって、またいじめが始まった。
またか、と思っただけで、大して感慨を持たなかった。
今度のは、中学時代のいじめとは比べものにならないくらい、ひどかった。
でも、不思議と無感覚でいられた。
いじめてくるクラスメイトたちが、人間に見えない。
いや、それ以前に私が私自身なのかどうかも分からなくなってきた。
今思えば、私は自分が傷付かないようにするのと引き換えに、もっと大事なものを失っていたのではないだろうか?
自分の願いをかなえるために悪魔に魂を売った、という筋書きの本を思い出した。
突然、私の頭の中に火花が散った。
思考は粉々に砕けた。
砕けた心の破片が、グサグサと私の体のあちこちに突き刺さったかのような感覚に襲われた。
……湧き上がってくるこの気持ちは何?
この焦燥感は、一体何!
私の体が、電流でも駆け抜けたかのように大きく震え、背中がのけぞった。
胃液が逆流し、のどの奥が酸で刺激される。
もう、限界だった。
私という人格の枠はすでに失われ、精神のスープはあふれ出し、私のすべてを恐ろしいスピードでむしばんでいった。
手術したての足や七針縫った腕を保護することなんて、もはや頭になかった。
ベッドからずり落ちた私は、最後に残った力を振り絞って床を這いずり、バスルームを目指した。そこには確か、カミソリがあったはずだ。
私は何とか裸になって、バスルームに入った。
別に脱ぐ必要はなかったのだが、「お風呂には裸で入る」という条件反射がそうさせたのだろうか。それに気付いた時、私は苦笑した。そして、これが私の笑う最後なんだ、と思った。
やっとの思いでバスタブに入る。そして水道の栓をひねって、水を溜める。
徐々に上がってくる水位を見ながら、私は覚悟を決めた。
カミソリを手首にあてがう。
サヨナラ、お父さん、お母さん、お兄ちゃん。ごめんね。
バイバイ、みんな。
自分が死ぬこと自体は何とも思わないが、家族の顔を思い浮かべたら涙があふれてきた。
しかし、結局それさえ私の決心を覆すには至らなかった。
私はたいしたためらいもなく、カミソリを持った手に力を込める。鈍い刺激が全身を包んだあと、すべてが闇に包まれていく。
苦しみも悲しみもない代わりに、幸せも喜びもない世界に旅立った。
私は、朽ち果てた。
女の子が、泣いている。
夕暮れの暗がりで、うずくまって嗚咽を漏らしている。
あきらめなよ、誰もあんたなんて見つけてくれない、ってば。
……あれ。私またあの夢を見たのか。
ってことは、死ななかったのか。
私は、覚醒した。
二度と見ることはないと思っていたこの世界に戻されたのだ。
命が助かってからの私は、少しずつだが変わっていった。
生きることって、それほど捨てたものじゃないって思えてきたのだ。
こんな目に遭って、私は急激に人の温かさが身にしみだしてきたみたいだ。
清水という、小山田先生に代わって私の主治医になった医師に、ある日言われた。
私は、『アスペルガー症候群』なのだと。
そっか。色々心理テストさせられたのは、このためか。
その結果に、妙に納得する自分がいた。
その日から、私は自分の抱える特徴と不便について勉強し、認識を深めていった。
「明日から、いよいよ二学期だね」
大きな川を横に臨む堤防の道の真ん中。佐智はそう言って、私たちの頭上に広がる夕焼け空に向かって大きく背伸びした。西に沈みかけている太陽が、空の半分をオレンジ色に染め上げ、残りの半分に藍色の闇が覆いかぶさっていた。
足の骨折も全快して、私はつい最近こうして外を歩き回れるようになった。友達と仲良く一緒に過ごす、なんてことは私にとって実に久しぶりの体験だ。戸惑いながらも、何だかうれしかった。佐智、シバタ、そして流香ちゃん。この三人が、入れ替わり立ち替わり、私の散歩相手をしてくれている。都合が合った時にはみんなが一緒に遊べることもあり、その時のにぎやかさと言ったら…。もう圧倒されるよ。
佐智の提案で、まだ入院中の由紀おばあちゃんの庭を守ろう、というプロジェクトが進んでいることは聞いて知っていた。そこで、歩けるようになった私も早速ガーデニングの手伝いに加えてもらった。今はその帰りで、佐智と二人で散歩も兼ねて少々回り道をして帰っているところだ。
堤防から下の河原へ続くなだらかな坂に、二人並んで腰を下ろした。
にじんで霞みゆく夕日の放つ光が、目に染みる。
「それはそうと、私は昨日来れなかったけど、シバタは来たんだってね。姫、彼に何か粗相はございませんでしたか?」
佐智がおどけた調子でそう聞いてきたので、ちょっと笑った。
「ううん、ゼンゼン問題なし。それどころか、とってもカッコイイこと言ってたよ」
「え、え、何て言ってたのぉ?」
佐智は興味津々に聞いてくる。
「確かね……『自分はこういう障害があるんだってこと、考えすぎないほうがいいと思うぞ。自分の悪いとこ自覚するのももちろん大事だろうけどさぁ、悪いほうに行き過ぎるとかえってそれを言い訳にしちゃう、っていうか……私はどうせこうだから、ってあきらめちゃうことだってあるかもしれないからなぁ。もうちょっと、肩の力を抜いていこうぜ!』って、ざっとこんな内容だったかな」
セリフの部分を、シバタ本人の口調を真似て言ってみたら、思いのほか佐智にウケた。彼女はゲラゲラ笑いながらも、感心していた。
「へぇ、アイツ思ったよりまともなこと言ってるじゃん。ちょっと見直したかな」
佐智は、エヘンとひとつ咳払いをしてから、急に真顔になって私をマジマジと見つめた。
「じゃ、私からも一言、いいかな?まぁ、半分は清水先生の受け売りになっちゃうんだけど——」
そう切り出した彼女は、訥々と言葉を紡いでいった。
……アスペルガー症候群とか、心の障害に関する色々なカテゴリーっていうのはね、近代になってからやっと生まれた概念なの。だから人類は長い間、そういうことを分類する必要もなく、病気呼ばわりすることもなく済んできたわけよね。まぁ、それだけ生きにくい窮屈な世界になってしまった、ってことなんだろうけどね。
だから悠里は、胸張って生きていいんだよ。
悠里はさぁ、今回のことでたまたまそういう障害を抱えているんだっていうことが分かっただけなの。もしかしたら、私だって何かの障害があるかもしれないよ? 今の精神医学では分かっていない、っていうだけで。
心の世界のことだけで言うとさぁ、それも『個性』として尊重されてもいいんじゃないかなぁ。
例えば自閉症の人だってそう。私たちとものの感じ方や考え方は違うけどさぁ、彼らは私たちに贈られたメッセンジャーなんだよ。一緒に生きることで、私たちみんながよりよく生きれるようなからくりになっているんだよ、
きっと。カミサマは、きっとそうしているはず。もしそんなのがいるとして、だけどね。
「胸張って生きていいんだよ」
彼女は私にそう言った。
その言葉が、私の胸の奥深いどこかをえぐった。
私の両目から、涙が滝のようにあふれ出た。
そして、私の心の中に住んでいるあのかくれんぼの女の子は——
「見ぃ~つけた」と言われて、笑っていた。
エヘヘ。
ワタシを忘れて、かくれんぼ終わっちゃったわけじゃなかったんだ。
よかったぁ。
本当に、よかった……
流れ落ちる涙もそのままに、私は言った。
「佐智。あなたは、私のトモダチ。ずっとずっと、いつまでもトモダチだよ」
私の言葉を聞いた彼女は、まるで雷にでも打たれたかのように固まった。
しかし次の瞬間、私の胸に飛び込んできて、声をあげて泣いた。
私もまた、彼女を抱きとめて、涙を流し続けた。
でもそれは、もはや悲しみや後悔の涙などではなかった。
生きることへの感謝の涙であり、歓喜の涙であった。
薄暮の中、もう秋が来たかのような涼しい風が、私たちの頬を撫で、髪を揺らす。
もう、私はこの愛を絶対に離さない。
……佐智、本当にアリガトウ。
流浪の旅人は、ようやく安住の地を見つけたのだ。
~第一部・完~
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