chapter 7 『心のうた』

 知らない町を 歩いてみたい

 どこか遠くへ 行きたい



 歌い終わるとギーターを置いて、夕日を見つめた。

 我ながらいい場所を見つけたな、と思った。

 アパートから二十分ほど歩いたところにある大きな川のそば、堤防の道からちょっと下った草の坂。

 やっぱり、こうして草の香りと、ずっとトモダチだった空に囲まれて奏でるのが最高。近くで、高い建物もなく見晴らしがいいのはここくらいだし。



 私は、小さな頃から歌が、音楽が好きだった。

 父のギターが、幼い頃は子守歌代わりだった。さっき歌った『遠くへ行きたい』という歌も、父が教えてくれて覚えたものである。

 物心ついた頃には、音楽の魅力にとりつかれていた。私はアコースティック・ギターを本格的に練習するうようになっていた。

 なぜギターをしたいのか、自分に問うたことはない。父の遺志を継いだ、と言えば聞こえはいいが……やっぱり、私の音楽の原点、だからだろうか。

 迷いは一切なかった。でも、その父は今はもういない。このギターを残して、死んでしまった。



 そして高校卒業と同時に、私は父譲りのギター一本を引っ提げて、上京した。

「何寝言言ってんだい! お前の思うほど世間様は甘くないよ」

 決心を語った時、母に一蹴された。

 父亡き後、ひとりで私を育ててくれた母の言葉だけに、どれだけ素直にあきらめたほうがいいと思ったことか。高校を卒業しただけの、ちょっとギターのうまい田舎の小娘が上京したところで、一体何ができる? と言われれば、確かにその通りだ。

 でも、私の人生は一度っきり。大好きな音楽に情熱が傾けられるのも、若い今しかない、と思っている。

 最後まで母を説得できずに飛び出してきたが、いつかは必ず母に誇れる結果を出して、母の元へ帰る。それを励みに、私の東京生活は始まったのだ。



 バイトをして学費を稼ぎながら、音楽スクールに通った。

 この生活は、意志が強くないと本当にきつい。

 バイトで疲れて本命の音楽活動に支障をきたしたら、それこそ本末転倒。そう肝に銘じて自分に気合を入れる日が続く。帰ってからも練習したかったが、家賃三万五千円の安アパートでは、練習などとてもじゃないができない。

 だからいつしかこの河原は、私とギターも唯一の居場所となっていた。



 田舎出の小娘は、世の中の厳しさを知った。

 納得いかないことも、世にはあふれていた。

 自分に実力があるとは言わないが、実力だけでは勝ち上がっていけない世界でもあった。夢と希望、懸ける思いだけでは食べていけない現実が、次第に身にしみだしてきた。

 ギターにだけは、涙を落とすまいと頑張った。



 今日も、日が傾いた。

 私って。才能ないのかなぁ。

 運が足りないのかなぁ。それとも、音楽に懸ける思いがホンモノじゃないから、ヒトに伝わらないのかなぁ?

 そこで私は、とりとめもない思考に囚われていることに気付き、頭を切り替えた。

 …夕方になってやっと涼しくなってきたなぁ。日中は、じっとしてても汗ばむほどの陽気だったけど。気が付けば、もうすっかり夏なんだなぁ。

 そのままの単純な連想から、私はギターを抱え直し、『夏の思い出』という歌を弾き歌った。



 夏が来れば思い出す 遥かな尾瀬 遠い空



 不思議と、ギターに触れている時の私は、澄んだ気持ちになった。

 オレンジ色の空と心が重なる。

 空に、草に、川に、語り聞かせるように。



 ……まなこつぶれば懐かしい 遥かな尾瀬 遠い空



 最後のコードを弾いた時、背後でパチパチと拍手が鳴った。

「うま~い!プロの方ですか?」

「よかったら、もう少し聴かせていただけませんか?」

 振り返ると、若い女性が4人、立っていた。

 皆堤防でもジョギング中だったのか、そろってジャージ姿だった。

 この河原で弾き始めてから数週間になるが、そんな風に声をかけられたのは初めてだ。ともかくミュージシャンにとって、あなたの歌を聴きたい、と言われることは最高の喜びなのだ。

「ええ、喜んで」

 そう返事をした私は、ギターを構え直した。四人は、私の周りに腰かける。

 頭の中に入っている楽譜を記憶でなぞり、まずは歌から入った。その声に導かれるように、指先を弦に優しくあてがい、そして弾く。指先から伝わるしびれるような音の振動が、私を高ぶらせる。

 選んだ曲は、『亜麻色の髪の乙女』。

 次の瞬間、歌声とギターの音色は、私の中でひとつに溶け合った。

 境目が消えた。その果てには、歓喜だけがあった。



 ギャラリーになってくれた四人は、心から私の弾き歌いを楽しんでくれているようだった。

 まだ中学生っぽい子は、曲の合間に力いっぱい拍手をしてくれる。

 中に一人、芸能人やっててそうな、どっかで見たことあるような気がする女性がいた。有名人じゃないのかな? もしかしたら、私の気のせいかもしれないが。

 その人の頬を、涙が伝っていた。

 こんな私でも、人の心を動かす音を出すことができたのだろうか。

 三曲ぐらい披露した時、彼女らの中で「サチ」と呼ばれている人物が、いきなり私に言った。

「コンサートしてくれない? もちろんギャラは出します」

「サチ姉、一週間くらいしたら悠里姉ちゃんも帰省してくるし、グッドタイミングじゃん?」

「うんうん!関係者はみんな呼んじゃおっか。おお、こりゃ忙しくなってくるぞぉ!」

 ……何だか、あれよあれよという間に話がどんどん進んでいって、私そっちのけで異様に盛り上がってるんですけど!?

 戸惑いながらも、何だか心安らいでいる自分がいた。

 東京へ出てきて初めて、自分という一人の人間が、大切にされているような気がしていた。



 一週間後。

 いよいよ、私のコンサートの開始時刻が近付いてきた。

 場所は、「すずらん園」という施設。会場には、『篠原のぞみさん ギターコンサート』と書かれた手作りの大きな立て看板があり、妙に気恥ずかしかった。

 聴衆は、その施設に通う障がい者の皆さんと親御さん。そして、職員の方々。

 あの堤防で出会い、この一週間ですっかり仲良くなった仲間たちも、皆来てくれている。



 ギターを構え、会場を見渡す。

 私を見つめてくれる仲間たちひとりひとりに思いを馳せる。



 佐智さん、ありがとう。あなたのお蔭で、こんなにたくさんの人たちの前で音楽ができます。

 シバタさん。カッコイイのに、恋には不器用ですね。佐智さんもあんなにすごい人なのに、恋にはオクテ。そんなんだと、誰かに取られちゃいますよ?こういう場合、男性の方がしっかりしないとね。

 流香ちゃん。平日の昼なんだけど…あなたまさか、学校さぼってこっちに来たの?

 まぁ、今回は大目に見てあげましょう。私も、あなたに会えてうれしいから。

 メグミさん。言葉や態度はちょっときつい時があるけど、ホントは優しい人だって分かってるよ。

 そして、亜由美さん。私の歌に涙を流してくれた、最初のひと。

 うれしくってね、ホントはあなた以上に私が泣きたかったんだよ、あの時。



 さっきから気になっていたのだが、会ったことはないがみんなの話にはよく登場する『悠里』とかいう人物がまだ来ていないらしい。

 私は彼女に会いたくてたまらなかった。みんなが、「彼女がいなければ、この集まりは存在しなかった」と口々に言うから、それほどまでに彼女らの人生に影響を与えたその人に、強烈に興味が湧いた。

 話では、今朝一番で帰ってくるはずだと聞いたのだけど?

 とうぞう、時間になった。

 司会の岩田というちょっと変わった人物が、おもむろにマイクを持ってしゃべりだした。あ、今「ちょっと」って表現したけど……やっぱり「かなり」に変更。

「それではっ、始めさせていただきます! えっと、事情によりこの場に来れなかった方からも、応援のメッセージをいただいています。清水先生は、勤務の都合により参加できませんでしたが、よろしくとのことです。そして、小アユミちゃん」

 私は吹き出した。なるほど、「アユミ」が二人いるから、ちっちゃいほうは「小」が付くのか。

 そりゃ学校行ってる子は平日のこの時間に来れるわけがない。流香ちゃんは単なるズル休みだ。

「で……肝心の悠里さんですが、本当ならもう到着していい時間なんですが——」



 司会がそこまで言った時、入り口のドアがバタン、と開いて——

 主役の私が気後れしそうになるくらいの美人が入ってきた。

「悠里、遅かったじゃないの!待ってたんだからぁ」

 佐智さんは感極まって、彼女の首に両手を回して飛びつく。

「ごめんごめん。ちょっと道が混んでてねぇ」

 そのすぐあとに再びドアの開く音がして、悠里さんを迎えに車で駅に行っていた職員のエリカ先生が入ってきた。はぁーっと大きなため息をひとつついたあとー

「……これでも全力で来たのよ!渋滞って、ホントどうにもならないんだからぁ」

 何だか、プリプリと怒っている。

「さぁさぁ、メンツもそろったところで、さっそくコンサートの開始といきましょう!」

 司会のその一言で、会場はワァーッと盛り上がった。

 自分の紹介を司会から一通りしていただいたあと、私はギターを奏でた。



 『世界にひとつだけの花』

 『大きな古時計』

 『G線上のアリア』



 一曲ごとに、施設の作業場をきれいに片付けた手作りの会場には、大きな拍手が巻き起こる。

 私は、歌えることが、弾けることがただただうれしかった。

 聴いてくれる人がいる。私の音楽で何かを感じてくれる人がいる。

 父が幼い私を前に歌った頃の情景が、まぶたに甦った。

 私は、なぜ音楽をやるのか。

 今まで突っ走ってきて深く考えなかったけど、ようやく分かった。迷いが、吹っ切れた。

「……いよいよ、最後の一曲になりました」

 みんなの注目が集まる。

 私は、最後に歌うのはこの曲と決めていた。こんな素晴らしい仲間に出会えた感動を歌にした、カバーではない私のオリジナル曲。

 聴いてください、私の歌への気持ちを。




『あなたと行けるなら』



 私は歌おう

 あなたがそばで聞いてくれる限り

 私は叫ぼう

 見えないだけで愛はそこにあるよって



 打ち付ける雨

 覆う黒雲

 でも その上では

 いつも変わりない太陽が輝いていることを

 あなたは教えてくれた

 あなたは導いてくれた

 今こそ その愛に応えよう



 私は歌おう

 あなたの温もりがそばにある限り

 私は闘おう

 どんな時にでもあなたを守るために

 そして祈ろう

 あなたに幸せが来るように

 それだけが 私の願い




 数秒の静寂のあと、割れるような拍手が会場に巻き起こった。

 青木君、という車椅子の青年が、施設を代表して花束を渡してくれた。

 涙が出るほど、うれしかった。



 コンサートが終わった瞬間、悠里さんは私のもとに駆け寄ってきてくれた。

「遅れてごめんなさいね、のぞみさん。あなたの歌、心に残りました。とっても良かったです」

 そう言って、握手の手を差し伸べてきてくれた。

「楽しんでもらえて、こちらもうれしいです。本当にありがとう——」 

 私はその手をとり、彼女の瞳を見た。

 漆黒の、しかしその中に深い感情を湛えた吸い込まれるような瞳。

 刹那、私の体を電流のような痺れが駆け抜けた。



 何でだろう。

 私の生きてきた人生が、フラッシュバックのように脳裏に甦っては消えていく。

 出会ってきた人、風景、辛かったこと、悲しかったこと……

 すべてが渦を巻いて流れ行き、やがてひとつの塊になって消えていく。

 そしてその後に、果てしない闇だけが残る。

 最後に見えたイメージは、一筋の光だった。

 初めは小さかったその光は、やがて——

 闇に満たされた空間を、すべて照らしつくすほどの輝きとなった。



 幻視のようなものが体から去り、我に返る。

 私はハッとして、こぼれ落ちる涙をぬぐった。

 不思議と、その涙はぬぐってもぬぐっても止まらない。

 ひねった水道の蛇口が、元に戻らない感じに似ていた。

 そんな私の手を握ったまま、悠里さんはしばらくそばにいてくれた。

 母の胎内にいた頃のような心地よさを感じながら、目を閉じた。



 ……お母さん。

 今度帰ったら、いっぱいいっぱい大事にするからね。

 親孝行するから、待っててね。





 ※作中に引用されるいくつかの歌に関して

 日本音楽著作権協会(出)許諾第0713328-701号

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