あさっての向こうに

賢者テラ

第一部

chapter 1 『悠里』


 真っ黒な世界に、一筋の光の線が走る。

 上下に、光が広がっていく。

 粒子が動いて、ひとつの像を結んだ。


 

 ……なんだ、お母さんか。



 せっかくピントの合った視界が、ガクガクブルブル。

 近くで、声がした。



「お母さん、気付かれたばかりなんだから、そんなに揺すっちゃいけませんよ」



 ふぅん。

 ってことは、私死ねなかったんだ。

 血だらけのバスタブに浮かぶ娘……

 そんなキツいものを身内に発見させることが、唯一最後に心痛めたことだったんだけど——

 死ねなかった今となっては、妙に恥ずかしい。

 見つけて私を運んだの、お兄ちゃんだっかも? とか本当にどうでもいいことを考えた。だって、裸だったんだもの。

 思春期の女子としては、気にする。



 私はお母さんに頼んで車椅子を押してもらい、病棟の外へ出た。

 消灯時間をとっくに過ぎているから、廊下には最低限の照明しかついてなくて、暗い。季節は梅雨に入ったばかりだけど、窓の外には雲がほとんどない藍色の夜空が広がっている。

 キレイ。

 なんか、できすぎてるね。

 マンガやドラマで見るようなご都合主義の展開も、現実にあるもんだなぁ。

 傷口を縫合された腕に目をやると、丁寧に巻かれた真っ白な包帯が、薄闇の中で鮮やかに見えた。

 ホント、やっちゃったことは重いことなんだけど——

 浮かんでくるのは、どうでもいいような思考ばかり。

 なんかポツン、ポツンと冷たいものが頭に落ちてくる。

 今日はもう眠いけど、明日には頭洗ったりできるかなぁ。

 


 あれだけ遊びまわっていたお母さんが、ずっと私のそばにいる。

 もういいってのに。

 半日は泣いてばかりで、ウンザリだった。

 だけど、なんていうのかなぁ。こんな状況で言うのもヘンなんだけど——

 お母さん、楽しそうに見える。

 今も、鼻歌なんて歌いながら私の横でリンゴなんかむいてるの。

 自分のこと以外に何かするお母さんを、久しぶりに見た。



 年に何回も会わないお父さんが、息を切らせて病室に駆けこんできた。

「飛んで来たよ」

 お父さんがそう言ったのがあまりにもピッタリで、笑っちゃった。

 見る度にかっこいいスーツでビシッと決めてて、クールなお父さんが……

 ネクタイ、歪んでるじゃん。寝癖直ってないよ。

 あれこれ、根掘り葉掘り聞かれるのかなぁって覚悟してたんだけど——

 何を言っていいのか分かんない、って感じでモジモジしている。

 しまいには、カバンから何か取り出すと、私に渡してきた。

 包みを開けてみると、何と『たまごっち』。

「……お父さん。ちょっと対象年齢ビミョーかもよ、コレ。それにいつの時代のおもちゃ?」

「そ、そうか? 父さん、これでも結構考えたんだぞ。気が紛れると思って——」

 私がいつまでも笑いやまない中、面会はおひらきになった。



 自分でもよく分かんないうちに、一週間が過ぎた。

 先生の判断で、私は精神病棟から一般病棟に移された。

 主治医の清水真希子先生は、ヘンな先生だ。

 モデル並みの長身で、知的雰囲気を漂わせた美人。

 白衣を着て、颯爽と歩く姿が決まっている。

 歳を聞いてみてビックリ。今年32になるんだって。

 24、5とか言われても納得しそう。

 私の話をフンフン、って聞くだけ。

 それだけ? って思った。この手の先生って、なんか小難しい説教したりするんじゃないの?

 昨日、ドラマ化されて今話題になっている少女マンガの最新刊を貸してくれた。

 やっぱり、ヘンだ。



 ここでも、トモダチができた。

 同室の、由紀おばあちゃん。

 優しいんだけどさぁ、難しい言葉の言い回しするの。私の分かんないような話題も、いっぱい知ってるの。おばあちゃん、日本の政治について熱く語るのが好きみたいで、いろんな政党の「マニフェスト」とかいうのを延々と聞かされちゃった。

 半分もついていけなかったけど、勉強すれば私でも分かるようになるのかなぁ。



 もう一人は、小学五年の流香ちゃん。

 陸上部の部活中に、足を大ケガしちゃったんだそうだ。

 今はベッドから動けないんだけど、あと数日したら車椅子で動けるようになるんだって。

 まぁ、しゃべるしゃべる。

 足のケガ以外は元気なんだから当たり前なんだけど、圧倒されたよ。

 私がたまごっちいじってるのを見て、「お姉ちゃん、こっちのほうが面白いんじゃない?」って言って、ポータブルゲーム機を貸してくれた。

 今私は、弁護士になって被告を追い詰める「裁判もの」のゲームを必死でやっている。一応お姉さんとしてはですね……流香ちゃんに負けていられないのである。



 今日は、ふたつサプライズがあった。

 高校の担任に連れられて、佐智・絵里香・薫の三人組が面会に来た。

 三人とも、顔をくしゃくしゃにして泣いていた。

「ごめんね、ごめんね」と、音飛びしたCDのように何度も繰り返す。

 確かにウザかったけどね、私が死のうと思った直接の原因はあんたらのイジメじゃないんだよね。

 細かいこと言うの面倒くさかったから「気にしないでいいよ」って言ってあげたら、ちょっと笑顔になった。人が泣きながら笑う、っていうのはなんかむずかゆいね。イヤな感じじゃない。

「学校に早く戻っておいでね。で、みんなでカラオケ行こうね——」

 そう最後に言って、みんなは帰って行った。



 ……あの、私カラオケ苦手なんですけど。



 担任と三人が帰って数時間後、日も傾きかけてきた頃。

 清水先生が誰かを連れてきた。同じクラスのシバタだ。それほど親しくしてたわけじゃないけど……

「検温と採血の準備をしてくるから、それまで話してなさい」

 そう言って、先生は私たち二人を残してスタスタ去って行った。



 ……ん? このシチュエーションは、何?



 シバタは、「よう。心配したんだぜ」って言って、ポケットに手を突っ込んだまま窓際の壁にもたれかかった。カッコつけてるけど、動きがカクカクしてるよ。大昔のテレビゲームのキャラみたいで、ちょっと笑った。

「元気そうじゃねぇか」

 バカ。あんたが面白くって笑ってるのよ。

「……これ、クラスを代表して持ってきたんだ」

 手渡されたのは、色紙。なんか、寄せ書きがびっしり。

「オレ、病院から家が近いし。だからさ——」

 ハイハイ。そういうことにしておきましょうね、シバタくん。

 夕日に照らされてオレンジ色に染まる彼の頬が、さらに濃くなったように思った。



「さっき、何してたの?」

 研修医の岩田先生が、採血しながら聞いてきた。

 清水先生が指導医らしく、最近仲良くなった。

 見かけも実際の趣味もオタクっぽいけど、とっても面白い人だ。

「……別に」

 大きなお世話と思ったので、そう答えておいた。

「悠里ちゃんの考えていることは…まるっとお見通しだっ!」

 結構前にはやった謎解きドラマ「トリック」の主人公のマネをした。

 バッカじゃないの、と思いながらも笑った。

「そういう岩田センセも、清水先生とはどうなってるのよ?」

 肘でこづいてみたら、案の定赤くなった。

 シバタにしろ岩田先生にしろ、ホント分かりやすい。



 私って……今回の事件があってから、よく笑うようになったのはなぜ?

 それまでは——




 体の傷が癒え、生きることにも前向きになれた私は、退院してもとの高校生活を送っていた。

 今日も、一日が終わった。

 部屋の明かりを消して、ベッドに潜り込んだ。

 布団から顔だけ出して窓の外を見ると、そこにはあの時と同じようにキレイな月。



 週一だった清水先生のカウンセリングは、すでに月一に減っていた。

 昨日「寂しい」って言ったら、喫茶店連れていってくれて、そこで今度カラオケ行く約束してくれた。

「私こう見えても、最新のヒットチャートの曲だって歌えるんだから」

 先生のあの言葉、ちょっと意外だったよ。

 でも、あと一週間もしないうちに卒業なんて……なんか早いな。

 明日は、美容師の資格を取ってやっとお店で働けるようになったお兄ちゃんの、お客さんになる予定。

「実験台にするなよ」って電話で言ってやったら、「全力を尽くします」だって。



 あれこれ考え事をしていた最中だった。思いがけず、死のうとした時の記憶が鮮やかに蘇った。



 あの時、私の心は空っぽだったんだよ。

 何か入れたくて入れたくて、たまらなかったんだよ。

 陸に上げられた魚が口をパクパクさせる気持ちが、よく分かったよ。

 うれしくない。かといって悲しくもない。

 楽しくない。でも生活に不満があるわけじゃない。

 人がみな、人でなく見えた。

 人のカタチをしたもの。

 人の立体映像、ホログラフ。



 自分が存在することは、分かる。だってこうして考えているもの。

 学校で習ったような……確か、デカルト?

 自分以外のものは、もしかして実体のない虚像?

 私が想像して作り上げている世界を見てるの?

 他人って、ほんとに私と同じように考え、イノチをもって動いているものなの?

 ある日、何だかわけ分かんなくなった。



 ジブントタニントノサカイメガ、ワカラナクナッタ。

 ジブンノココロト、マワリノセカイトノキョウカイセンヲ、ミウシナッタ。

 ミウシナッタジブンカラニゲル、タッタヒトツノホウホウ。  

 ワタシハ、ソレヲタメシタンダ。



 お母さんは、お母さん。

 清水先生は、清水センセイ。

 流香ちゃんは、流香チャン。

 お父さんもお兄ちゃんも、家族。

 シバタもサチもエリカもカオルも、トモダチ。



 何で、あんな目に遭わなきゃ分かんなかったんだろ。

 私が死のうが死ぬまいが、世界は初めっからこうだったのに。

 自分から、手を伸ばさなきゃいけなかった。

 世界は、私を待っていたのに——



 布団の中で、涙があふれてきた。

 悔しいよ。

 何で、あんなバカやんなきゃ、こんな大事なことが分かんなかったのかな。

 やっぱ悔しいよう。



 青い月が、あの時と変わらない姿で、彼女の部屋を照らす。

 時だけが、彼女の向き合う世界とは関係なしに、流れ続ける。



 ……でも、明日があるっていいな。

 明日は明日の風が吹く。なんか、古いドラマのセリフみたいな言い回し。

 あさってには、あさっての風が。

 そういう風に身を任せてみるのも、悪くないかなぁ。

 明日は、何があるんだろ。

 将来、何があるんだろ……



 光の粒子が、上下から狭まっていく。

 黒い粒子が、視界を満たす。

 テレビがプチン、と切れたみたいに、すべてが暗転する。




 おやすみ、母さん。

 おやすみ、みんな。




 また、明日。


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