chapter 4 『担任教師』
やってくれたな。私は唇を噛んだ。
私は、高校教師という職業に、何の思い入れもなかった。
職場じゃないし、誰も聞いていないから、言っちゃおうか。
月ごとのお給料が間違いなく入ってくれば、それでい、と思っている。それ以上を望むのは「ゼイタク」というものだ。
安っぽい教師ドラマの内容が現実にあるとカンチガイして赴任してくる新任教師がいる。そんなの、ドリームジャンボ宝くじに当たるかどうか、っていうくらいの確率じゃないか?
私らの一番の願いは、「問題を起こさないこと」。
教師というのは、「文科省の定める学習範囲を生徒に教えるマシーン」である。
そういう言い方をすると、他の教師の反感を買いそうだな。じゃ聞くが、文句付ける教師は「教科書を教えること以外に目に見えた、胸を張れる成果」があるのか?
下手すると、その最低限の「決められたカリキュラムを教えること」だって、できてるかどうかアヤシイもんだぞ。
おとなしく机に座ってるが、授業を聞いてないヤツもいるんだ。後ろ向いて堂々と私語してるヤツ。音消してポータブルゲームやってるヤツがいるのにも気付いている。教科書をカバーにしてマンガ読んでるなんて、もはや腹が立つという感覚さえ忘れた。
注意したってその時は 「ハーイ」 と言うけど、その場限り。気持ちの伴わないただの「音声」。優しく言い聞かせて分かるヤツなんてほとんどいない。逆に、こっちがナメられるのがオチだ。
だからといって、こちらがきつく出たら出たで、親だのPTAだのがうるさい。
授業したり、テスト問題考えたり、受験を控えた三年生を受け持っているだけでも手一杯なんだ。余計な時間外労働はごめんだ。教頭の説教や緊急職員会議とか、ホントカンベンだよ。
そういう時、自分でもアホだと思いつつも、時間が来たら「お先です!」って帰れるパートやアルバイトの仕事がうらやましくなる。
頼むから、皆無事に卒業してくれ。
オレのそんなささやかな願いさえ、さっき打ち砕かれた。
うちのクラスの牧野絵里香が、血相を変えて職員室に駆け込んできた。
おいおい、職員室へ入ってくる時は、ドアはもうちょっと静かに開けて、「失礼します」くらい言わないか——。
そう思って舌打ちしたが、次の瞬間、私は握っていたペンを落とした。
吉岡悠里が、大ケガをしたらしい。
騒ぎを抑えるため、職員室にいる教師が総動員された。
みんな、途中の用事を放り出して現場へと急行した。
廊下にはすでに、ものすごい人だかりができていた。
生徒たちをかき分け進む。気持ちばかりが焦る。
あまりの光景に、ハッと息を呑んだ。
血溜まりの中に横たわる吉岡。一足先に到着していた保健の先生が、必死の形相で応急の止血を試みていた。そばには血をたっぷり吸ったガーゼの山。
上の階に続く階段の踊り場で、やはりうちのクラスの沖山佐智という生徒が、茫然自失の状態で座り込んでいた。ほとんどまばたきもせず、目をカッと見開いていた。
この状況で私にできることは、生徒たちの混乱を鎮め、それぞれのクラスに帰すことしかない——。そう判断した私は、群がる生徒たちに必死で呼びかけた。
けたたましいサイレンの音が耳に飛び込んでくる。やっと救急車が来たようだ。
人波をかき分け、救急隊員が担架を持って駆け付けてきた。
とりあえずの止血がなされたことが確認されてから、吉岡は運び出された。沖山のほうは、シバタという男子生徒と牧野絵里香に両脇を支えられて、保健室へ連れられていった。
私は事故現場に残って、吉岡の血を雑巾で拭き取ることにした。
気分のいいものではないが、この際仕方がない。生徒には、さすがに言いつけられない仕事だ。
私はふと、背後に人の気配を感じた。
そこには、うちのクラスの女子が五人ほどいた。みんな手に雑巾やらバケツやらを持っている。彼女らは、無言で私を手伝い始めた。腰をかがめて床を拭う彼女らの目は、一様に赤く腫れていた。
ちょうどその時の私も、彼女らと同じ心境であった。
放課後、直ちに緊急職員会議が開かれた。
主な内容はふたつ。
ひとつめは、生徒や保護者の動揺を抑えるために、事態の解明を急ぐこと。
ふたつめは、明日にでもこの件に関する保護者説明会を開くこと。
説明会で矢面に立つのは、校長と教頭、学年主任の先生と、担任の私。
「……明日までに保護者を納得させられる話の内容を考えておいてくださいよ。今一番しっかりしてもらわないといけないのは、担任のあなたですからね!」
教頭は余計な問題を抱えた苛立ちを隠せない様子で、激しい口調で私にそう言い捨てたあと、そそくさと職員室を出て行った。
気が付けば、すっかり夜になっていた。
私はひとり職員室に残り、病院からの吉岡の容体に関する報告を待った。
その間に、沖山佐智の家に電話をして様子を聞いてみた。
「……家に帰ってくるなり部屋に閉じこもって、出てこないんです。あの子、私がドア越しに何を言っても、一言もしゃべらないんです。時々、すすり泣きのような声が途切れ途切れに聞こえてくるんですけど……
私、どうしたらいいんでしょうか? 母親として恥ずかし限りなんですけど、今のあの子にどう接したらいいのか、自信がないんです」
そのように話す沖山のお母さんに——
「下手に刺激せず。落ち着くまでしばらく様子を見ましょう」
そう伝えて、電話を切った。
夜の9時、ようやく吉岡を診察した小山田という医師から電話があった。
意識は回復し、輸血も問題なかったそうだ。骨折した足や出血した腕の傷に関しても、あと3日の入院治療のあとで自宅療養に切り替えてもいいくらいだ、という。
私は礼を言い、電話を切った。
とりあえずは喜ぶべきことではあるが、これから向き合っていかないといけない事後処理の数々を思うと、重荷が下りたわけではなかった。
急に、胃のあたりがシクシクと痛み出す。
私はその後もまだ家には帰らず、自分の机のライト以外は真っ暗な職員室で、明日の保護者説明会で話す内容を原稿にまとめていた。
どんなに言葉を尽くしても、ただただ空しい。
書きながら、そう思った。
分かり切っていたことではあるが、保護者説明会では煮え切らない、手探りの対応しかできなかった。吉岡も沖山も、事件に関して一切口を開いてくれないという現状では、事件の核心に迫ることはできない。
私は、事件の内容や経過など差し障りのない部分での事実公表を行いながらも、自分の胸の内に秘めていたある事実への呵責に、苛まれていた。
実は、私は吉岡がいじめを受けているかもしれない、ということに以前から薄々感付いていたんだ。笑ってくれ。『教師失格』と言われてもしょうがない。
あと半年でこいつら卒業なんだよ。
もうすぐ、指定校推薦とか一般推薦入試とか、始まんだよ。
ここで、自分から問題を投げかけて、どうなる?
だから、吉岡自身や、生徒の誰かが何か言ってきたら腰を上げよう——。
そう自分自身を納得させて、放置してきたんだよ。
誰も何も言ってこない日々が、続いたんだ。
しかし、最終的にはこういう形で、その結果が突き付けられた。
保護者席からは、通り一遍な報告に終始したことへの不満の声が、方々から上がった。説明会を終えた私は、うつむいてそそくさと会場をあとにした。
「おいっ、結局肝心なことは何一つ分かっとらんじゃないか! 何をしてるんだ、学校側は!」
保護者の罵声が、私の背中に突き刺さった。
あの事件から五日後。
憔悴しきった様子の吉岡の母親からかかってきた一本の電話に、私は愕然とした。
吉岡の、自殺未遂。
自分の中で、何かが壊れたように感じた。
事態の説明を受話器から聞き取りながらも、私の心は重く沈んでいった。
彼女は、自宅のバスルームで自殺を図った。
水をためた浴槽の中で、深く手首を切ったらしい。
不幸中の幸いと言うべきか、吉岡がベッドにいないことに彼女の兄が気付いたため、早い対応ができた。ケガによる出血で体が弱っていた矢先のことだったため、ICU (集中治療室) ではバイタルが極端に低下して生命が危ぶまれた場面もあったらしい。でも奇跡的に何とか一命を取り止めることはできた、というのがおおよその内容であった。
「あの子が今生きているというそのことだけでも感謝して、これからみんなで家族をやり直していこうと思います」
通話の最後に言った母親のその言葉の重みをかみしめながら、受話器を置いた。
私は、このことを教頭と校長に報告した。もちろん、職員室は上へ下への大騒ぎになった。
夕刻、緊急理事会が招集された。
私も、当然ながらその会議に同席を求められた。
まるで、針のむしろにいるかのような苦痛が私を責め苛む。
私は会議中ずっと、幽体離脱でもしたかのように、目の前で起こる議論をうつろな目で傍観していた。心の中に、ぽっかり穴が空いてしまった感じだった。
オヤジが田舎で民宿やってんだ。「継げ」って言われてたんだ、実は。
都会にいたくて、自分で教師の道を選んで断ったんだけど……帰って手伝うのも悪くないかなぁ。
私は、妻との二人暮らしだからどうにかなるだろう。残念だが、この歳まで子宝には恵まれていない。世の親の気持ちというものがよく分かってあげられないのだけが、教師をやってて残念に思う部分だ。
本来そんな場合ではないのだが、霞がかかったような頭でそんなことを考えた。そして今更、教師になりたくてなった頃の自分を思い出して、苦笑した。
結局、理事会は私の処遇に関して——
「起こった事態は深刻であるが、当事者から事情を聞いて事実関係を明確にできるまでは保留とし、後日判断材料が出そろったところで再度検討」ということになった。
クビはつながった。しかし、私は喜べなかった。
今回の件で、私は地位の安泰や月給以上の、大事なものを失おうとしているような気がしたからだ。
ああ、他の先生方はみんな帰ったか。
職員室の自分の机で、頭を抱えてずっと考えていた。気が付けばもう夜の9時。
妻が心配してケータイに電話してきたのがきっかけで、長い思考から我に返った。
吉岡悠里。彼女は真面目でおとなしいのだが、悪く言えば自分の殻に閉じこもっている、とも言えた。それだけでも、確かにじいめの標的になりやすい要素ではある。
彼女の教室での姿を、表情を思い返す。
私は、給料分のことはしよう、問題が極力起こらないように、という姿勢で教師をやってきた。
だが……認めるよ。私は間違っていた。
激しい後悔の念が、私を襲った。
生徒を教え伸ばすどころか、命すら守ってやれなくて……死ぬほど辛かったことを分かってやれなくて、一体何のための教師なのか!?
私は握りこぶしに力を込め、机に思いっきり叩きつけた。その時は肉から感じる痛さよりも、魂の傷口からあふれ出す痛みのほうがはるかに勝っていた。
しばらく、自殺という選択肢を取るほどまでに思いつめた、吉岡の辛さを思った。
そして、教師になりたての頃のように真っ白な心で考え抜いた結果、ひとつの決意が生まれた。
私は、吉岡を救うためなら最後まで無償の努力を惜しまない。
無事に卒業させるまでは、絶対に教師をやめない。
今後、彼女を守れずに失うようなことがあったなら……
その時こそ、私が教師を辞める時だ。
具体的にどうするか、自分の中ではまだ整理できずにいた。でも、私の決心はこれで固まった。
神など信じる人間ではなかったが、この時ばかりは祈ったよ。
どうか、吉岡を守ってください、と。子どものいない私にとって、その祈りはまるでわが子の無事を祈るかのような、不思議な体験であった。
それはまさに、「晴天の霹靂」だった。
吉岡の転落事件から十日ほど経ったある朝。
引きこもっていた、沖山佐智が学校にやってきた。
突然、勢いよく職員室のドアが開き、鋭い声が飛び込んできた。
「失礼します」
そこにいる教師全員が注目する中、彼女は私の前までやってきた。
そして、思いつめた表情で言った。
「先生に折り入ってお話したいことがあります。お時間を取っていただけますか?」
進路指導室で、会議机を挟んで二人向き合った。
相手ははるか年下の生徒のはずなのだが、目が怖かった。
うまく言えないが、あれはゴングが鳴った瞬間のボクサーの目と同じだ。
彼女の話し出す内容に、私は姿勢を正した。
これは、こちらも相応の覚悟がないと受け止められない、と感じたからだ。
全身全霊で臨まないと、斬られる。直感的に、そう思った。
沖山佐智という生徒は、今風の高校生の典型像、というイメージがあった。
無気力で、世の中や大人に対する隠しきれない反抗心をのぞかせてはいるが、表立った問題は起こさない賢さがある。校則や世の中のルールぎりぎりのところでうまく立ち回っている。
私は、学級委員とか生徒会とかいうのとは違う意味で、彼女が女子のリーダー的存在であるとにらんでいた。彼女からは、一種変わった「カリスマ性」のようなものが感じられたからだ。
そんな彼女が、必死になっている。
何かに必死になる、汗水たらして努力する、ということを先頭に立ってバカにしそうな彼女が。
こんなしっかりしたようなヤツでも、泣くんだな。
沖山は、彼女が知り得るすべての真相を語った。
吉岡の言い分を聞いてはいないのであるが、ことの全体像はつかめた。
「ゆるしてもらえないかもしれない。でも、今の私には、結果ゆるしてもらえるもらえないが重要じゃないんです……うまく言えないですけど、とにかく吉岡さんに申し訳ないと思っているこの気持ち、伝えたいんです!」
言葉の最後のほうは、絶叫に近い悲痛な声だった。そのまま彼女はガンと額を机に打ち付け、そのまま突っ伏して泣いてしまった。
「……お願いです、先生。吉岡さんに謝りに行くのに、ついてきてもらえないですか? 私ってダメなやつなんです。本当は心細いんです」
そこまで言ったあとの彼女の声は激しく震え、もはや言葉として聞き取れるものではなかった。
偽りのない、むき出しの心の叫びは、ストレートに私の胸に響いた。
私は感謝した。
私と沖山とに、魂の革命という奇跡が起こったことを。
もしここで彼女の願いを聞かなければ、教師どころかヒトとして失格だと思った。
私の心は、決まっていた。だが、沖山にただ付いていく、というのとは違う。私もまた、こんな事態になってしまうまで、いじめに気付いていながら何もせず見過ごしてしまったことを謝りたい。自分が自分を取り戻すためにも。
よし。面会をかなえるために、自分がやれることは精一杯やってみよう。
校内放送で、牧野絵里香と後藤薫を呼び出す。
これからの闘いのために、私は涙を拭って、顔を上げた。そして、泣き止まず顔を伏せたままの沖山に、どうしても伝えておきたいことがひとつあった。
それは、私がいじめに気付いていながらも見て見ぬフリをしてきたこと。そして、そのことを数日前クラス全員の前で謝ったこと。
「そう言えば、お前にはまだだったよな。すまん、この通りだ」
頭を下げる私を前にして、彼女はちょっとビックリした表情をしていた。
「あと、クラスのみんなからお前への伝言。一日も早くクラスに戻ってきてほしい。待ってるから、って」
それを聞いた沖山はまた泣き出した。
でも、今度のはどうやらうれし泣きのようだった。
「何をしにいらっしゃったのですか」
病院のロビーにいた私たちの前に現れるなり、清水という吉岡の主治医はそう鋭く言い放った。
病院に到着して沖山、牧野、後藤、そして私の四人は、吉岡に面会したい旨を受付に告げた。
しばらくしてやってきた女性医師は、まるで敵でも見るような厳しい視線を投げかけてきた。
「どうぞお引き取りください。患者の容体が悪化するだけです」
そう言ったが早いか、清水医師はスタスタと帰り始めるではないか! ある程度覚悟はしていたが、これほどまでにあっさり退けられるとは予想外だった。
「先生、待ってください!」
私は思わず叫んでいた。清水医師はビクッと反応し、私たちから十メートルほど離れたところで立ち止まった。
「吉岡がそれほどまでに状態が良くないということでしたら、仕方がありません。でも、どうか先生にもお分かりいただきたいことがあるんです」
清水医師は向き直って、私たちの前まで再び歩み寄ってきた。
「……それはぜひ聞かせてもらいたいものですね」
そう言って先生は、真っ直ぐ私の顔を見る。私は、連れて来た三人を指しながら必死で言った。
「担任として、私があなたに保証します。彼女らの反省は真摯な気持ちであり、本物なんです。だから……先生が会わせてもいいと判断した時で結構ですから、ぜひこの子たちに謝罪の機会を与えてやってください! そして私自身も……教師としての至らなさがあったことを、吉岡に謝りたいと思っています」
清水医師は何か考えている様子だったが、しばらくして口を開いた。
「なるほど、先生の言い分は確かに承りました。でも、問題はこの子たちです」
彼女は生徒たち三人の前にツカツカと歩み寄り、険しい表情で対峙した。
清水医師は三人に、厳しすぎるとも思える言葉を浴びせかけたが、沖山だけはひるまなかった。
「私、どうしても吉岡さんに謝りたいんです!」
そんな場合ではないのかもしれないが、偽りのない思いをしっかりと発言できている教え子の姿に、教師としてうれしさにも似た感情がじわじわと湧き上がった。
「今日はお疲れ様でした」
清水医師はそう声をかけてきた。今頃になって、彼女がモデル並みの美人だということにやっと気付いた。あ、このことは妻には 内緒に願いたい……
意外にも、結果として面会は実現した。すべてが終わって、病院をあとにするところだった。
あの三人は、泣きながら帰っていった。
結構カワイイところもあるやつらだ、と思った。この事件と正面から向き合おうと決心してから、私の生徒たちを見る目が変わってきたようだ。
吉岡の様子は痛々しかったが、でもまぁ、こういう結果に落ち着いてよかった。私も沖山たちと一緒に、自分の至らなさを詫びた。吉岡はちょっと苦笑しながらも「ううん、もう気にしないで。私こそみんなに心を開かずにいたこと、本当にごめんね」と言ってくれた。
その言葉は私の胸にしみた。
久しぶりにすがすがしい気分で学校に戻ろうとした時に、清水医師に呼び止められたのだ。
私たち二人は、病院の階段下にある自販機コーナーのベンチに座った。
「先生は幸せですね」
清水医師はニッコリ微笑んで、私にそう言った。
私は、コーヒーをすするのをやめて苦笑した。
以前の私だったら、「こんな月給に合わない労働と心労は初めてだ」と思ったことだろう。でも、妙に気分が良かった。満ち足りた、というのはきっとこういうことをいうのだろう。
「先生には、私からぜひともお伝えしておきたいことがあるのです」
清水医師は、急に真剣な表情でそう切り出した。
ただならぬ雰囲気を感じ取り、私も居ずまいを正した。
「あの子は、広汎性発達障害……そのカテゴリーの中の『アスペルガー症候群』に当たると診断いたしました」
その障害名は、大学の教育学部にいた時に、講義で聞いたことがある。だが恥ずかしながら、自分に直接関わってくる内容として捉えていなかったせいで、今ようやく思い出したようなザマだ。
「いわゆる、自閉症のタイプのひとつです。対人関係の障害や他者の気持ちの推理力の欠如、特定分野への強いこだわりなどが主な特徴です。知的障害や言語の遅れなどは見られないため、見過ごされて成長していってしまいやすいんですね。
結果、障害が本人にも他者にも理解されないまま悲劇に発展してしまうケースは、実は少なくないのです」
私はその言葉に、ストンと腑に落ちるものを感じた。
清水医師の言葉はさらに続く。
「しかも悠里ちゃんの場合、周囲の無理解やいじめの中で追い詰められて、『離人症』という二次障害にまで発展してしまいました。自分が自分でないように思ったり、人であれモノであれ、周囲の存在すべてが空虚に感じられる症状です」
私は、紙コップのコーヒーを揺らし、その水面を見つめた。
「吉岡がそういう障害を抱えていたってことについてですが……今思えば思い当たることは沢山ありますよ」
吉岡の学校生活での様子。いじめの事実。そして、あの階段転落事件。
清水医師には、私が知りうる限りのことはすべて、包み隠さずに伝えた。
「清水先生。私は吉岡に本当に申し訳ないことをしたと思っています。今だから言えることなんですが、転落事件は確かに自殺の引き金にはなったかもしれません。しかし、それまでの葛藤や苦痛が積もり積もってきた結果が、吉岡を追い詰めたのだ、と思うんです」
私は、吉岡が自殺未遂をしたと聞いた夜からの魂の葛藤を、清水医師に打ち明けた。さすがは、精神科の先生。親身になって耳を傾けてくれた。
まるで、私がカウンセリングを受けているかのような格好になったが……それでもうれしかった。心が安らいだ。
私の話を聴き終えた清水医師は、私に握手の手を差し伸べてきて、言った。
「悠里ちゃんのこと、これからもお願いできますか?」
彼女の言わんとしていることは分かった。
「もちろんです」
そう返事をして、差し出された手をしっかりと強く握った。
清水医師は、病院の門までついてきて、私を見送ってくれた。
「先生は、奇跡、というものを信じますか?」
いきなり問われた。
さぁ、どうだろう。どちらかというと、信じない部類に入ると思う。でも、最近ちょっと考え方が変わってきたかもしれない。
この私や沖山が本当に大事なものに気付いた、というのもまた奇跡だろうし。
清水医師はそんな私の思いを知ってか知らずか、クスッと笑った。
「田口ランディという作家さんの書いた『神様はいますか?』という本の中に、こういう一節がありましたの」
呼びかけた者にだけ、世界は応える。
呼びかけない限り、世界は沈黙している。
私から呼びかけない限り、奇跡は永遠に起こらない。
学校が夏休みに突入した頃、吉岡は退院した。
沖山はすべてを公に語り、その後吉岡の家族と沖山の家族の話し合いの場が設けられ、両者は和解に至った。
驚いたことに、クラスの生徒たちの嘆願を受けた理事会は、私の処分を見送る決定を下した。引き続き、彼女らの担任でいることができるようになったのだ。その時の気持ちを、どう表現したらいいか分からない。
朝、窓から仰いだ太陽の輝きが、今までと違って見えた。
一通り出席をとって、教室を見回す。
なんか、変わったな。
吉岡は二学期になって、学校生活に復帰していた。
傍目にも、吉岡と他のクラスメイトとの関係が良好だということが分かって、安堵している。
吉岡と沖山の輝いた顔がまぶしかった。
輝いた顔、なんて親バカならぬ「教師バカ」といったところか。
私はかねてから挑戦してみたかったことを、思い切ってやってみた。
「お前ら! 一緒に青春の汗をかこうじゃないか!」
………………
…………
………
…
岩田先生。あなたのアドバイスは、マチガイですか?
やるんじゃなかった、と思った次の瞬間、みなドッと笑った。
よかった。ウケたか。
あとで生徒たちに聞いてみたら、面白くって笑ったんじゃなくて、「あまりにくだらなかったから笑った」のだそうだ。
まぁ、そういうのもありか。
私は、田舎に帰って民宿継ぐのを延期した。
だって、コイツら無事見届けないといけないし。
何より、『奇跡を起こす』という楽しみが増えたからね。
授業を始めた。
私のあとに続いて英文を読む吉岡の横顔に、チラッと目をやる。
……卒業まで、よろしくな。
心の中で、彼女にそっと声をかけた。
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