chapter 5 『亜由美の行く道』(前編)

 四月の、ある雨の日。

 見上げると、手が届きそうなくらい低くたれこめた黒雲。まだ午前11時だというのに、周囲は夕方だと言ってもいいほどの暗がりに支配されていた。

 降りしきる細かい雨で煙るようにぼやけた風景の中を、私は傘をさして歩く。

 昨日まではきれいに咲き誇っていた桜並木だったが、雨と強風で花びらがいたるところに散り、それが行き交う人の靴で踏まれ、泥にまみれていた。

 うつむき加減で歩きながら、私は先日飛び降り自殺をした、同僚でもあり友人でもあった美緒のことを考えていた。 



 彼女とは、仕事仲間だった。

 私は、「真由香」という芸名で売り出しているAV女優。

 本当の名前は、藤田亜由美、20歳。

 デビューして、二年目に突入する。

 私は、業界で言うところの「単体女優」。自分の名前だけでビデオが出せるし、男性向けグラビア誌の表紙や巻頭のカラーページを飾ったりもする。数回だが、深夜枠のテレビ番組にもゲストで出演したことがある。

 この仕事は、正直きつい。でも私なんかまだ恵まれている、そう思ってこの仕事を続けている。辞めて他の仕事をしようなんて発想ははなからできない。

 高額な収入が当たり前となった身では、性を売らない他の仕事では決してお金に満足できない。それが分かっているから、やれるところまでやろう、と漠然と思っている。無論、その先のことは考えていない。

 というか、考えないようにしている、と言ったほうが正しいかもしれない。



 AV女優になることで、それまでの人間関係はことごとく潰れた。

 そんな中、親しくなったのが美緒だった。

 当然、美緒というのは芸名。彼女も、私と同じAVメーカー専属の女優である。彼女と初めて出会ったのは、アダルトショップ向けのメーカーのポスター撮影だった。

 広く知られていることかどうか分からないが、同じ事務所に属していても、女優同士が顔を合わせることは共演とかするのでもない限りほとんどない。だから、専属女優全員の集合写真を撮った時、初めて見る顔がかなりあった。

 撮影の合間の昼食時間。スタジオの片隅で、美緒と一緒に現場で配られた幕の内弁当を食べた。 

「あ、真由香さんですよね? 初めましてぇ。すっごい活躍されている真由香さんはぁ、私の憧れなんですぅ」

 舌足らずなしゃべり方は好みの分かれるところだと思うが、私は何だか好感をもった。AVという世界の中で憧れられるというのもヘンな感じだったが、慕われるというのも悪い気はしない。

 私と彼女はケータイ番号とメルアドを交換し、オフの時にはたまに一緒になって遊び歩く仲になった。



 ある時美緒はショッピング帰りに立ち寄ったカフェで、私に愚痴や悩みを吐き出したことがあった。「仕事がほとんど来なくなった」というのである。このままじゃ風俗しかない、と泣き出した。

 同じ女優ではあるが、私と彼女の間には決定的な違いがあった。

 美緒は「企画女優」。作品のメインをはることはなく、名前を出されることもない。恐ろしく安いギャラで使われ、待遇もそれほどよくないと聞く。美緒には、私などには計り知れない苦労があるんだろう。

 デビュー二年目にしてさすがに絶頂期ほどの勢いこそないものの、まだ第一線に踏みとどまり自分単体のビデオを出せている私は、彼女の友達として何だか申し訳ない気分になった。

 親友というか、きちっとした友達がいなかった私だから、それが適切な情なのかどうかは分からなかった。でも、次の日にはマネージャーを通して企画部長にあるお願いをした。



 それから、二週間後。

 私と美緒は、新作で共演した。

 もともとは私単体の企画だったのだが、彼女も使ってくれと頼んだ。ウマが合うから私もやりやすい、と説明すると、制作スタッフも首を縦に振ってくれた。

 私はキャラ的に「清楚なお姉さんタイプ」で売っていて、美緒は「可愛い系のロリタイプ」だったこともあり、相談の上女教師と生徒という設定で「痴女モノ」の作品を撮った。

 久しぶりの高額ギャラの仕事に、彼女も——

「真由香さぁん、ありがとうございます! ホント感謝ですよ~」

 そう言って私の手を取って、飛び跳ねて喜んでくれた。悪い気はしなかった。何にせよ、人から感謝されるというのはいいものだ。その共演がきっかけで、美緒は監督やスタッフやからちょっと見直されたようで、相変わらず目立った役ではないものの、仕事は来るようになった。

 しかしある日、私の予想だにしない事態がついに起こってしまった。



「来ないで。ほっといてよ!」

 スタジオも兼ねたAVメーカーの本社ビルのメイクルームで女性誌を読んでいた私は、その声に驚いた。そう言えば、美緒の姿が見えないなぁとは思っていた。今日は撮る作品もスタジオも私とは別だったが、仕事のタイイングが一緒だったので、さっきまで一緒にいたのだ。

 あの声は、美緒の声だ。

 そう思った私は、廊下を飛び出して声のしたほうへ駆けた。



「美緒ちゃん。落ち着いて、こっちでゆっくり話をしようよ、ねっ?」

 声がした隣の会議室に駆け込むと、美緒のマネージャーの冬木さんが必死で彼女に話しかけていた。正確には、彼はまとまった数の企画女優を束ねるマネージャーなのだが。

 美緒は、一体どこ?

 そう思って冬木さんの真剣な視線の先を追うと、彼女は大きく開け放った窓の桟に腰かけていた。ここはビルの七階。少しでもバランスを崩したら、数十メートル下の地面へまっさかさまだ。

「止めないでよ! ちょっとでもこっちに近寄ってきたら、私、落ちてやるんだからね!」

 私は、足がすくんだ。

 あれは、私が知っている美緒じゃない。そう思えるほど、彼女は変貌していた。独特な舌足らずなしゃべり方はなりをひそめ、ハッキリした言葉遣いになっていることにも驚いたが、何よりもあの歪んだ表情。

 昔、悪魔の取り憑いた少女に神父が挑む映画があった。それを思い出すほどに、彼女からにじみ出るオーラは常軌を逸している。

「美緒ちゃん! 自殺なんてバカな真似はやめよ? こっち来なよ。私ら、トモダチじゃん?」

 とたんに、美緒の目は憎悪に吊り上がった。

「ハン!トモダチですってぇ!? 笑わせてくれるじゃない。あんた、本気でアタシのトモダチヅラしてたってわけ? お人よしにもほどがある、ってもんよ。

 本当はね、アタシあんたのこと大・大・大ッキライだったの! ちょっとおだてれば利用できるかと思って近づいたけど、あんたほど簡単なカモは初めてだったわよ」



 私は、鉄棒で殴られたかのような衝撃を受けた。

 彼女と過ごしたこの半年間は、一体何だったのだ。私が得た安らぎは、友情だと思っていたものは、すべてまがいものだったというのか?

「……仕事も来るようになったし、メデタシメデタシ、なはずだったんだけど」

 吊り上がっていた彼女の眉が急にハの字に垂れ下り、両目からボロボロと涙がこぼれた。

「何でかなぁ。虚しい。何もかもが虚しいよう。アタシ、どこで間違ったんだろ?」

 美緒は顎を上げ、顔をしわくちゃんして泣き出した。

 この世のものとは思えない、呪詛にも似た嗚咽が彼女の喉笛から漏れてくる。



 ……止めなきゃいけない。何か、声をかけなきゃいけない——。



 そう私が思えば思うほど、言葉を発することができなくなっていた。ぜんそくにかかったかのように、喉元に風が通ってヒューヒュー言うだけだった。

「母さん、ごめんね」

 ポツリとつぶやいた。それが彼女の最後の言葉だった。

 ユラリ、と彼女の上半身が反転し、頭から下へ、下へと吸い込まれていった。

 私は、窓に飛びついて下を見た。

「いやああああああああああ!」

 壊れたおもちゃのように曲がった彼女の肢体の周囲は、毒々しい赤色で染め上げられていった。



 あの光景が、今も目に焼き付いて離れない。

 考え事をしながら歩いているうちに、目的地である公民館に着いた。

 昨夜が、美緒の通夜だった。そして、今日は本葬。

 美緒が死んで初めて、芸名でない彼女の本名を知った。

 須藤聡美。私はその名を、心に刻み込んだ。

 入り口で記帳を済ませ、焼香の列に並ぶ。

 祭壇上には、ついこないだまで目にしていた美緒の屈託のない笑顔があった。

 あとで聞いた話だが、彼女は収入の大部分をホストに注ぎ込んでいたらしい。それでも足りない分は、借金までして貢いでいたようだ。

 すべては、彼を繋ぎ止めるために。

 死んだ彼女がこの世に残したものは、五百万の借金だけだった。



 喪主でもある美緒の両親は、身も世もなく泣いていた。

 図らずも、美緒の最期をに居合わせた者となった私は、「友人だった者ですが」と言って近付き、彼女の最期の言葉を伝えた。

 もしかしたら、自殺を止められなかった私は、責められるかもしれない。

 そういう危惧はあったが、やっぱり伝えずにはいられなかった。美緒の母親は、私の右手を両手で優しく握り、「あの子と最後まで友達でいてくださり、ありがとうございました」と言って頭を下げてくれた。



 帰り道。

 まだ降りやまない雨の中、私は撮影のあるスタジオへ向かうべく、駅へと歩を進めた。葬儀の後で、こんな気持ちのままカラミの撮影などできるのだろうか。

 できれば今日一日、誰にも干渉されずそっとしておいてほしいと思った。でも、以前から決まっていた撮影を飛ばす(ドタキャンする)のは、この業界で生き抜く上ではタブーだ。

 ……そう、私は真由香。この世界では名の知れた女優。

 プロはきちんと仕事をこなすもの。そう自分に言い聞かせた。



「ハイ、カーットカット!」

 監督の怒声が飛ぶ。

 照明さんと音声さんが後ろに下がった。

 私は、ベッドの上でバスローブを肩からひっかけ、裸体を隠した。

「池上、ちょっと来い」

 監督に呼ばれた男優さんは、首をうなだれて私のそばを離れていった。スタジオの隅で何やら話し込んでいる様子だったが、監督は突然、丸めた台本で彼の頭をしたたか殴った。

「もう撮影終了の期日は迫っていることくらい、お前も分かってるだろ? なのに、勃つのにどれだけ待たせんだよ! 今使えねぇんなら、代わりを呼ぶからよ。お前は帰れ」

 動揺からか、ぎこちない動作で何とかトランクスをはいた池上さんは、奥の更衣室へと消えていった。私は過去、二回池上さんとからんだ経験がある。撮影の合間にも何かと気遣ってくれて、おしゃべりも楽しい人だったので、心が痛んだ。



 ……池上さん、今日は一体どうしちゃったんだろ。

 


 AV男優は、その実際を知らない多くの男の人には、「うらやましい職業」に見えると思う。しかし、人が見ている前で、しかも映像が商品として評価の対象にさえなるというプレッシャーの中で、それでも性器を勃たせるということは、誰にでもできることではない。

 池上さんは、そのあたりはプロとしてきっちりしていて、決して撮影を遅らせるなどということのない人だったから、プライベートで何かあったのかと心配になった。

 でも実は、私自身も人の心配をしている場合ではなかったのだ。

 さっきから、奇妙な頭痛に悩まされていた。



「なるほど」

 目の前の女性医師はそう言うと、座っている椅子を回転させて事務机に向かい、私のカルテに何やら熱心に書き込み始めた。その背中を見やりながら、私は少々不安になった。

「あの……先生。私、やっぱりどこか悪いんでしょうか?」



 撮影中に頭痛を感じた二日後。

 妙に不安を感じた私は、思い切って大病院の精神科を訪れていた。

 頭痛だけならほっといたと思うが、食欲減退と不眠までもが私を襲った。しかも、考えることがすべてネガティブに陥っていく。今まで、こんなことなかった。

 清水、という名の医師は、再び私に向き直って口を開いた。

「……お友達の自殺を目の当たりにしてしまったことによるPTSD、つまり心的外傷後ストレス障害が、主な原因だと考えられます」

 私は、フーッとため息をついた。自分でも、そんな気がしていたのだ。



 ……私の中で、美緒がまだ生きている。



 彼女が解決できずに残した問題、そしてこの世界への恨みの情念も一緒に。  

「しかもあなたの場合、それがきっかけで軽度のうつ状態に近い症状も示しています。でも、早いうちに来てくださってよかったですわ」

 結果は、予想通り心に問題があったようだ。告げられた診断結果は深刻だが、この先生と会話していると、何だか安心感があるから不思議だ。

「不眠症状があるということなので、とりあえず軽い睡眠薬を処方しますね。それ以上のお薬が必要かどうかは、様子を見ましょう。一週間後に、必ずまたいらしてください」



 私はお礼を言って帰りかけたが、医師はまだ話があるようだったので椅子に座りなおした。

「その……今のお仕事は、本当にあなたのやりたいものなんですか? 正直に言いまして、万全な治療のためには、医師としては決して奨励できるお仕事ではないものですから」

 そう。それは自分自身でも謎なのだ。

 私は一体、どうしたいんだろう? それは、少しでも突き詰めて考えようとすると、心が拒否反応を起こす領域だった。

「……分からないです」

 軽い頭痛を感じ、額に指をあてがった。

「そうね。最終的にはあなたが決めること。これを機会にじっくりと考えるといいかしれませんね」

 清水先生はそう言って、何か書き付けたメモを渡してくれた。

 そこには、人の名前と電話番号が書かれていた。

「何か急に困ったことができたら、その子に連絡してみるといいわ。あなたと歳も同じだから、私より助けになれるかも。私のかわいい弟子だから、信頼してもらっていいわよ」

 私はお礼を言って、診察室を出た。

 何気に、紙に書かれた名前を読んだ。

 沖山佐智……か。



「こんにちは! 待ちました? 私のことはサチって読んでね。どうぞよろしく~」

 待ち合わせのカフェに現れたのは、妙にテンションの高い、それでいてどこか憎めない感じの人物だった。

 私は、差し迫って何かあったわけではないのだが、私と同年代でしかもあの清水先生が認める弟子という人物に興味を持った。美緒を失った今、トモダチというか……人のぬくもりが欲しかったのかな。とにかく、電話してみた。

 それで今日、こうして会うことになったのだ。

 三十分くらい他愛もない話をしたところで、佐智がテーブルに身を乗り出して提案してきた。

「ここからそう遠くないところの堤防なんだけど、すっごく見晴らしが良くて気持ちがいいの。天気もいいし、そこに場所変えない?」



 うん、確かに気持ちの良い場所だ。

 目の前には、優しい川の流れ。見上げれば、空は突き抜けるようなスカイブルー。

 所々に、可愛い綿のような雲。

 堤防の上の道からちょっと川に下った、なだらかな草の坂に二人で腰掛けた。



 私は初め、相手を見下していた。

 AV女優にまで流れ着いた女として、普通に生きている人間なんかに理解できないような辛酸を舐めてきたつもり。いくら心理学勉強してようが私と同じ歳の、しかも見るからにして大して苦労もしてなさそうなこの女に、私の何が分かるっていうの?

 そう斜に構えていた。友達はつくりたいけど、お説教はたくさんだ。

 でも、それは悔しいことに大きな勘違いだった。相手のほうが私より人間の器が大きいと認めるのに、それほど時間はかからなかった。

 佐智のひとつひとつの言葉が、私の胸の奥深いところにストン、と落ちていく。

 私はいつしか、心の中に言いたいこと、吐き出したいことが泉のように湧き上がるのを抑えることができなくなっていた。

 この日、私は誰にも話せず今まで抱えてきたことを、初めて人に話した。



 ~後編へ続く~

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