chapter 4 『エリカ』

「はい、すずらん園です」

 できるだけ、元気な声を出して電話に出た。

 だって、一日の業務でもうヘトヘトなんだもん。頭の中は電話の対応をしながらも、いつ帰れるかなぁ、という思いでイッパイ。

 受話器を置きながら、ため息をひとつつく。

「桜井さーん、河部くん熱あるから明日休むんだって。連絡ボードに書いといてくれます?」

 ちょうど、職員室のホワイトボードのそばに立っていた同期の女性職員に声をかける。

「オッケー。河部君、熱のためお休み……っと。今の季節、冷え込むからねぇ~」

「明日の欠席」欄に、河部君の名前がマーカーで書き込まれる。

「河部君の休み、痛いねぇ。あさってまでに納品じゃなかった? ハンガー、四十箱分完成まで、まだかなりあるっしょ?」

「……職員でやるっきゃないね。その時は牧野さん、助けてちょ」

 桜井さんは、可愛くペロッと舌を出して、手を合わせて私を見つめる。

 負けたよ。この仕事してたら、持ちつ持たれつだからね。

 次の瞬間、まだ業務日誌つけてないことを思い出して、アチャーッと額に手を当てた。



 私の名前は、牧野絵里香。

 知的障がい者の通所授産施設に勤める職員である。

 勤務先について分かりやすく言うと、成人年齢(18歳以上)に達している障がいを持つ方々が、仕事をしに通ってくるところである。その方の障がいの内容や程度に応じて、できる作業をしていただく。私たち職員の肩書は、一応「指導員」となっている。

 ウチはどちらかというと小さな施設で、職員も施設長を含め六名しかいない。それ以外に事務員の方、通所者の送迎バスの運転手、給食を調理するおばちゃんが二人。非常勤で看護士さんもいるにはいるが、毎日は来ない。



 身体に障害のある方は、簡単な組み立て作業が仕事になる。

 さっき言ってたような「ハンガー」の組み立ても、そのひとつ。

 体には問題なくて、知的障がいがある方や自閉症の方は、製菓・製パンを行っている。ウチの主力製品はクッキーの詰め合わせと天然素材にこだわった食パンだ。

 自閉症の方に仕事をしていただくケースでは、しっかりとした専門知識がいる。そっちは、さっきの桜井さんが担当になって、率先して勉強してくれている。

 建物自体が小さいので、職員室と事務所は兼用だ。もちろん、職員ひとりひとりに専用のデスクなどない。事務机を四つ固めただけのところで、使う必要のある人が座る。

 施設長も他の職員もみなすでに帰ってしまっていたので、残っている私は堂々と机を占領できるわけである。



 ふと腕時計を見ると、もう夜の八時を過ぎている。

 桜井さんは、さっき帰って行った。

 ああ、また私が最後かぁ。もうちょっと、要領よくやらないとね……。

 よぉし、ゼッタイに9時までには帰るぞぉ! と決意を新たにする。

 はやる気持ちはあるが、業務日誌に手を抜くわけにはいかない。施設長のチェックは、結構キビシイのだ。

 あーあ、また9時のドラマには間に合わないや。半分は覚悟していたから、保険の録画予約はバッチリしてある。ま、日曜日にでもまとめて見るしかないか。



 昔、「3K」っていう言葉があったよねぇ。

 若者が嫌う仕事。「キケン・キタナイ・キツイ」だっけか。

 私のこの仕事は、ある意味そうだと言えなくもない。お給料は月16万。ま、初任給だからこんなものかもしれないけどね。

 身体障がいのある方の中には、トイレ介助や食事介助が必要な方だっている。通所者の皆さんに仕事をしていただくのが基本だけど、さっきの河部君のように健康上の理由から休まれることもよくある。組み立て作業などは、きちっとした会社から請け負っている仕事だから、納期は守らないといけない。

 よって戦力不足で間に合わなさそうな時は、通所者が定時で帰った後で、職員が必死でやらなきゃいけないのだ。



 ブーブー言いながらも、私はこの仕事を辞めるつもりは今のところない。

 しんどいけど、何だかんだ言って楽しいのだ。

 生まれてからこのかた、障がい者なんて生活に縁がなかった。

 学校に養護学級というのはあったが、私にとってはまるで別世界だった。

 中学校の時、ホームルームの時間を使って養護の先生が障がいについての授業をしてくれたような記憶があるけど、恥ずかしい話退屈だなぁと思ってヘラヘラしてたと思う。



 ……私は高校生の時、友達と一緒になって同じクラスの吉岡悠里、って子をイジメた経験があるんだ。後で分かったんだけどね、その子アスペルガー症候群、っていう先天的な精神疾患があったの。まぁ、それから色々反省したり、思うところがあってね、「ヒトを支える」仕事がしたいなぁって思ったんだ。

 私、そんなに勉強できるほうじゃないからさぁ、大学は視野に入れず福祉系の専門学校行ったわけ。そこを卒業して、今に至っている。

 そう言えば悠里、今は元気でやってるかなぁ。最近連絡取ってないけど。

 当時一緒にイジメをしてた二人の友人とは、しょっちゅう連絡を取り合っている。

 中でも、先頭に立ってイジメてた子とは、家が近いこともあって前の休みの時に遊んだほど、未だに仲良しだが……驚いたことに、大学の心理学部に入って「臨床心理士」とやらを目指している。そして、一人でも多くの人を助けたい、って息巻いている。

 ホント、人ってのは変われば変わるもんだ。



 静寂の中、職員室の電話が鳴った。

 ウソっ。ああ、なんか面倒事じゃありませんように!

 カミサマなんて普段信じてないくせに、こういう時だけ手をパンパン、と鳴らして念じる。

 私は気合を入れて、受話器を上げた。

 私ごときの低レベルな神への信仰は、粉々に砕かれる結果となった。




 私は、夜の街を走っていた。

 冬の斬りつけるような空気の中、吐く息が白く後ろに流れる。

 さっきの電話の内容は、私にとってショッキングなものだった。

 青木圭太君、というウチの施設の通所者の母親からだった。

 お母さんが気がついたら、彼が家にいないというのだ。

 彼は歩くことができない。もちろん、玄関にある車椅子とともに、彼の姿は消えた。

 母親が彼のケータイに電話すると、本人が出るには出たのだが、肝心の居場所を言わない。

「あの子、牧野先生に迎えに来てほしい、って言うんです。どこにいるかは、先生なら分かるはずだ、って言ってるんです」



 思い当たる節がある。

 青木君は、私に好意を持っている。

 彼は下半身マヒのため、常に電動式の車椅子で行動している。しゃべり方が多少たどたどしいものの、知的障がいは軽い。っていうか、接しているとほとんど分からないほどだ。

 一概には言えないと思うが、障がいを持っている人は感情をストレートに表すことが多い。だから、誰かに好意を抱いていればてきめんに分かる。

 休み時間は必ず私に寄ってくるし、メールアドレスを教えたらその日だけで20件のメールが彼から一方的に来た。さすがに、施設長と相談して青木君とルールを決めた。

 メールは一日二回まで。必ず、相手からの返信があってから次を送ること——。

 一度「付き合ってください」と言われたこともある。

 私は、どう言ってあげたら一番いいのか分からず、適当にお茶をにごした。



 確かに、障がいを持っている人たちのために、と思ってこの仕事を志しはした。でも、障がい者を恋愛対象として見る、ということなど考えてみたこともなかった。

 私は、たまに分からなくなる。

 間違ってないよね? 私、悪くないよね?最大限相手が傷付かないように断るしか、できることはないよね?

 常日頃から、福祉に携わる私たち職員は、「障がい者」という特殊な人種はいない、ただ生活上の「不便」を背負っている一般市民がいるだけ、と言っている。

 でもそれは、「仕事」や「生活」というカテゴリーでだけ。これが恋愛や結婚、となると……

 書物やテレビのドキュメンタリーなどで、障がいを持つ人と結婚した人や、障がい者同士で結婚した人の話を聞くことはあるけど、それだってまれだ。ほとんどのケースで、困難を抱えていると思う。

 だから、私は青木君を見つけても、何と声をかけてあげればいいか分からない。

 私、今まで一体何を勉強してきたんだろ。

 障がい、って何?

 ヒトの価値って何?

 好きって、愛するって何!



 施設の職員失格の烙印を押されそうな疑問が、頭の中で渦巻いた。

 思考の出口が見えなくて、泣きそうになる。

 ああ、私はまだまだダメだ。

 でも、私がこうしている間にも、青木君は思いつめた心の中にも救いを求めて、私を待っているはず。一体、どうすればいい?

 私はケータイを取り出し、ある人物の番号をメモリーから呼び出していた。




「ごめん。おまたせ~」

 ありがとう。こんな時間に助けてくれるなんて……恩に着るね」

 頭がいい上に、相変わらずファッションセンスまでバッチリだ。彼女には、そこいらのブティックの店員の助言など必要ないだろう。

 沖山佐智。さっき言った元いじめグループのリーダー格だ。あ、ちょい言い方が悪かったかな。今はM大の心理学部に籍を置く大学生。

 高校時代、塾帰りによく一緒に寄っていたドーナツショップの前で落ち合った。サチは、私を頭の先からつま先までジロジロ見て言う。

「エリカ、あんたそのまま出てきたの?」

 …………。

 やってしもた! あ、幼い頃関西で育ったから、たまに出るのよね、関西弁。

 返す言葉もない。

 髪結んでいる上に、イモジャージ姿。普段の作業では、動きやすいという実利面をとってほぼこの姿である。あまりにも気が動転していたので、私服に着替える神経も働かず、そのまま飛び出してきたのだ。

 今更自業自得なのだが、この格好はちょっとサブイ。

「ま、あんたらしいや。ところで彼の居場所、想像つくんだよね?」

「うん。藤ヶ丘公園。おそらくそこで間違いない、と思う」

 こないだ、施設行事の一環として、弁当持ってそこに出かけた。河川敷にある大きな公園で、テニスコートやちょっとしたアスレチック設備なんかもある。サチたちがよくジョギングする堤防の下だ。

 その時、彼が言ったのだ。

「もし、これるなら……エリカせんせいと、ふたりで、きたいなぁ」



 施設長には、さっき報告しておいた。

 この時間だ。他の職員に迷惑をかけるわけにもいかない。それ以前に、これは私自身が原因を作っている問題でもある。何としても、私らの手で連れ戻さねばならない。

 サチは流香ちゃんに連絡して、青木君が実際にその公園にいるかどうか確認するために、一足先に現地に向かわせたようだ。そう言えばあの子、けた違いに足速いからなぁ。

 しばらくして、折り返し彼女からサチのケータイに連絡が入った。青木君は間違いなく公園にいるという。



 公園に向かう道中、唐突にサチが尋ねてきた。

「エリカ、好きと愛してるの違いを説明できる?」

 なんだ、藪から棒に。えっと、ええと……?

 好き、ってのは「好き」よね。愛してるは、「もっともっと好き」?

 人を本気で好きになったことがない、彼氏もいない私の思考の限界か。もう降参。

「ブーッ、残念!」

 佐智は、容赦ない。何となくは分かる気もするんだけど、それは錯覚だな。

 多分、私は何にも分かっちゃいない。ましてや理路整然と説明なんて、できないよぅ。

「あんたも、青木君と同じレベルと見た」

 サチはクスッと笑った。

「リョーカイ。彼とは私が話すから、エリカは私から指示があるまでは黙ってて」

 私には、うなずくしか選択肢がない。

 青木君、ごめんね。ほんとなら、私自身が受け止めてあげないといけないことなのに。

 この時、人の力を借りなければ彼と向き合えない自分の非力を呪った。



 ちょうど、ジャングルジムの近く、月明かりに青木君の姿が浮かび上がっていた。

 まばらにしかない街灯の光が、車椅子の鉄部分に反射している。

 私たちは、彼の背後に立った。

「青木君」

 サチが静かに呼びかけた。

 彼は車椅子を反転させ、こちらへ向き直った。三人の吐息が、白い筋となって立ち昇る。

 彼の視線が、私からサチへ泳いだ。私がひとりで来なかったことへの落胆が見て取れたような気がした。

「……ひとりで、きて、ほしかった」

 ポツンとそう言った。そしてしばらくして、彼はまた言葉を続けた。

「エリカせんせい。やっぱり、ぼくのこと、きらい、ですか」

 暗闇のせいでよくは分からないが、きっと苦しい表情をしているに違いない。

 私は、青木君に責められて当然だ。

「ぼくが、あし、わるいから……しゃべりかたがこんなのだから……」

 たどたどしくも、必死に言葉を紡ぐ。

「ぼくが、しょうがいしゃ、だから、だめ、なんですか」


 

 ゼイゼイという彼の荒い息遣いだけが聞こえる。それっきり彼は黙った。

 私からの何らかの答えを、待っているに違いない。

 私は頭の中であれこれ考えた。「あなたのことは好きよ。でも付き合うとか、そういうのとは違うの。これからも一緒に、オトモダチとして支え合っていこうよ……」

 ああ、ダメダメ。それって、彼の好きっていう気持ちをあまりにも軽視した言い方かなぁ。そこのところ傷付けずにどうやって言う……?



「甘ったれないで」

 サチの大声が、闇を裂いた。

 私は、ダイナマイトを放り込まれたのと同じくらいぶったまげた。

 あわわ。

 まったく考えていなかったパターンなので、こうなってはもうただ成り行きを見守ることしか、私にできることはなかった。

 青木君の体はビクッと反応したが、その後うつむいて、何もしゃべらない。

 返事を待たずに、サチは再び彼に言葉を投げかける。

「あなたは、エリカ先生が好きだと言う。でもそれは、本当に好きということとは、違う」

 一言一言、サチはゆっくりかみしめるようにしぼり出す。

「男が女に好きです、って言う時にはね……相手の幸せをまず考える、ってことがあるべきなの。あなた、それを考えてエリカ先生に言ってるの?」

 沈黙。

「好きな女の一番望むことが何か、考えてあげるのが男だよ。好きな女を何があっても守れる覚悟があって初めて、その女に好きだって言える資格があるの」



 相変わらず、青木君は言葉を発さない。でも、私には分かる。

 彼は、今必死で考えているはずだ。相手の言うことが受け入れられない時や不愉快な時、彼はよく耳を塞いで叫び出すことがあるのだが、それがない。かなりキツいこと言われてるのにもかかわらず、だ。

「本当は分かっているんでしょ? エリカ先生の気持ちが。あなたは、好きっていう気持ちを一方的に押し付けているだけ。

 振り向いてもらえないんだったら、好きになってもらえるような自分になるまで努力しなさいよっ。本当に好きなんだったら、できるはずよ?

 障がい者だからとか、そんなことは関係ないわよっ! あなたの丸ごとそのままで勝負かけなさいよっ」



 客観的に見れば、これは完全に「説教」だ。

 ホントにこれが、心理学の応用かい!?

 でも、青木君は微動だにせず、おとなしく聞いている。

「黙ってないで何とか言いなさい。どんなことがあっても、命を懸けてもエリカ先生を守り抜く覚悟はあるの? エリカは私にとっても大事な友達なの。だから幸せになってほしいの」

 サチも必死に語りかけている。彼女はそこでいったん言葉を切り、大きく深呼吸した。

「だから、あなたがエリカを幸せにできなかったら、好きだと言って縛りつけてるだけだったら、私はあなたを絶対に許さない。逃げても、地の果てまで追いかける」

 オイオイ。そこまで言うか?

 ……でも、なぜか身にしみる。

 私も、彼と一緒に説教されているように感じた。

「さぁ、今度はあなたが答える番よ。それでも……それでもあなたはまだエリカ先生に好きだ、付き合ってくれって言える? 私がこの耳でしっかり聞き届けてあげる。どうなの!?」



 サチの問いかけは終わった。

 私には、骨身にしみた。

 しかし、青木君が分かってくれただろうか? その可能性を心配した時、私は寒気を覚えた。

 彼は車椅子を動かして、私たちとの距離を少しつめてきた。捉えにくかった彼の表情が、街灯の明かりでおぼろげに分かる。サチではなく私を見上げた青木君は、やっと口を開いた。

「エリカ、せんせい」

「はい」

 私は、どんな顔をしたらいいのか分からなかった。

「ごめんね」

 口を引きつらせながら、彼は少し辛そうに、でもきっぱりと言った。

「ぼくが、せんせいのこと、すきだっていうことに、かわりは、ないよ」

 堤防のすぐ上を走るスクーターのヘッドライトが、一瞬私たちに光の筋を投げかける。

 そしてそれは、闇へとすぐに消えていった。

「でも、いまは、いわないでおくね。みててよ、ぼく、しごとがんばるから。いまのじぶんより、もっとかっこいいじぶんに、なって」

 彼にとっては、これだけのことを伝えるだけでも一苦労なはずだ。

 それでも、彼は必死で言葉を続ける。

「そう、なれたら、そのときに、あらためて、すきっていうね」

 私は、涙を拭うのも忘れて、サチを見た。彼女は優しい笑みを浮かべて、首を縦に振る。

「よろしく……お願いします」

 そう言って私は、彼の手を握った。

 声が震えるのだけは、どうしても抑えることができなかった。




「しっかし、あの時は焦ったよ!まったく」

 ドーナツとコーヒーの載ったトレーを座席まで運ぶと、三人で向かい合って座った。

 あれから数日後。私は、あの時のお礼も兼ねて、サチに食事をおごっちゃうわけだ。もちろん、助っ人として文字通り「ご足労」してくれた流香ちゃんにも、声をかけた。

 予算の都合により、ミスドにケッテイ。だって、おごるの二人分なんだもん!

「ボロは着てても、ココロは錦~♪」

 と、サチに歌われてしまった。

 ……いつの時代の歌だよ、いったい。

「私さ、アンタの勉強してる心理学とか、臨床ナントカってのはよく分からないけどさぁ、あのときのあなたの対応は計算のうちだったの?」

 チョコドーナツにかじりつきながら聞いてみた。

 うん、やっぱり口の中でとろけるこの感じが、やめられないのよね。 



「ん? ゼンゼン」

 即答だった。

 私は思わず、かみ砕いたドーナツを噴きそうになった。

 流香ちゃんは、隣で手を叩いて笑っている。

「な、何よそれ! うまくいってなかったら、どうするつもりだったのよう!」

 サチはキザに人差し指を振って、チッチッと言った。

「エリカからあらかじめ聞いていた青木君の人となりのデータ、そして短時間だったけど交わした彼との最初の会話。そこから類推して、彼はある程度話の分かる下地がある人だと思ったの。だから、下手に機嫌取って優しくするより、ズバッと核心を突いて彼自身に考えさせてあげるのがいいかも、って」



 ……かも、ってかい。やっぱり、「賭け」だったんじゃないか! その辺を責めると——

「ゴメン、ゴメン。でも、あの場合はああ言うしかなかったのよ。私の直感でね、彼を見てたらそれほど分の悪い賭けには思えなくて。

 だから今回は、心理学もテクニックもへったくれもなし! 人として、青木君と向き合いましたっ。唯一気を付けたことと言えば、ゆっくりめに話した、っていうことだけ」

 人~と~して~と、鼻歌を挿入されてしまった。大昔の教師ドラマ・金八先生の主題歌? らしい。見かけは最先端を行く女子大生のクセに、やたらジジむさいことを知っている。

 でも、分かる分かる。サチの直感はバカにできないものがある。彼女が高校時代に女子のリーダー的存在であり続けることができたのも、そういう類の力があったればこそだ。

 彼女はまったく、人を操るのがうまい。



「でもね」

 サチは遠くを見るような目になった。

「今回のケースは、ほんとうにたまたまうまくいった、ってだけなのよ。普通の人だったらと考えてみて。小学生が女の子に好きだって言うのと、いっぱしの社会人が女性に結婚指輪渡して結婚してくださいって言うのとは、その精神性においてイコールではないでしょ?

 障がいを持つ人は、学校や施設、または親の保護下で囲われ守られているケースが多い。だから、人間的な成長がストップしたまま、つまり心や考え方が子どものままで大人になってしまう人も決して少なくはないの。知的障がいがある程度重くなってくると、恋愛に精神性どうのを求めること自体がナンセンスになってくるし、ムズカシイよね」

 サチって、難しい言い回しをサラッと言っちゃうからすごいや。でも、言ってる意味は分かる。

「もし青木君がこのケースに当たっていたら、あの場で解決することは何をしようが百パーセント無理だったでしょうね。つまり長期戦以外どうしようもなかった、ってこと。そう判断したら、私あんなこと言わなかったわ」



 コーヒーが冷めた。

 私は、そんなことはもうどうでもいいほど、サチの言葉を聞き漏らすまい、と集中した。

 隣の流香ちゃんも、神妙な面持ちで聞き入っている。

「私の大学のゼミでもね、結構話題に取り上げたりしてるのよ。障がい者にとっての性の問題とは、本当に頭の痛い領域なのよ。好きや愛するっていう精神レベルの話だけじゃなくって、実際の性欲の問題もそう。

 特に男の子は深刻。親ってね、案外その辺の事は盲目なのよね。性のはけ口に関して、障がい者にはあまり門戸が開かれていないのが現状」

 なるほど。それは分かるような気がする。

「……最近読んだ本では、障がい者専門の性風俗が生まれたり、セックスボランティア、というものを真剣に考える人も出てきたり。手探りで、何とかしようとする動きはあるよね。でもそれは、文字通り手探りなの。

 まだ問題は山積みな上に、実際何も解決してなんかいない。本質的な意味ではね」



「サチ姉、例えば大きな問題としてどういうものがあるの?」

 流香ちゃんが質問する。

「そうね。私が永遠のテーマだと思うのは……障がいを持つ方にも何とか人生の伴侶が見つかるようにするためにはどうしたらいいか、ってことかな。たとえ風俗を利用したりして性欲の解消はできてもね、『結局、女の子も仕事だから、お金を払ってるから相手をしてくれるだけなんだ。時間が来たら、ハイさようなら。カラダだけじゃなく、本当に人生を通して愛し愛される人が欲しいなぁ』ってホンネではそう思っている人は多いと思う。

 恋愛や結婚は、健常者でもうまくいかなかったりするし、格差問題からしたくても経済的に二の足を踏んでしまったりで『結婚しない、あるいはできない』人も少なくない。そういう状況の中を、障がいというハンデを背負いながらもどうクリアしていくのか?

 これは、人類の永遠の課題かもしれないわねぇ」

「ふーん。確かに事情は違ってもみんな同じ人間だものね。みんなが幸せになるように、考えていくことは大事だよね~」

 流香ちゃんも、納得顔だ。

 


 私は、つくづくサチが親友でよかったと思った。

 彼女とほぼ同じ長さの人生を生きながら、私は一体何を見、何を学んできたのか。

 今更悔やんでもしょうがない。過去は過去。

 私は、私のこれからを懸命に生きていくだけ。

 歳は同じだけれど、この人生のセンパイに頑張って追いつこう。

 青木君とも頑張っていこう。二人ともが、自分を誇れる人間になれるように。



「それはそうと、悠里は元気でやってる?」

 ふと、思い出して聞いてみた。誰よりも悠里に近いサチなら、きっと情報があると思って。

 空を泳いでいたサチの視線が戻ってきた。焦点が私の顔に定まる。

「うん。めっちゃ元気だよ」

 そう言い終わったサチの視線は、またどこか遠くに飛んでいった。 



 その目元は、何とも言えず優しい感じがした。






※作中に引用される歌に関して

 日本音楽著作権協会(出)許諾第0713328-701号

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