chapter 2 『Rebirth』(後編)
次の日から、私の人生への再チャレンジが始まった。
高卒認定試験を受けることにしたよ。
今はとりあえず勉強しながら、やりたいことを探すんだ。
佐智が昼間大学に行っている間、私は本屋で買ってきた参考書と取っ組み合う。
私が道を踏み外したのは高校から。中学までは仮面優等生できたから、一応の基礎学力はある。
高校一年からの学習範囲を、片っ端からやる。
自力で分からないところは、佐智が帰ってきてから、まとめて聞く。
私のマンションは、お金にモノをいわせたせいか、ひとりで住むにはムダに広い。
子どもが二人くらいいる家庭が住んでもおかしくない間取りがある。
相談の結果、佐智が荷物をまとめてこっちに移ってきてくれることになり、奇妙な共同生活が始まったのであった。
高校のカリキュラムに乗っかっていないため、独学の勉強だけで体を動かさなくなるのはよくない、という佐智のもっともな提案から、毎日堤防をジョギングすることになった。まぁ、最初はブーブー言って抵抗したんだけどね。
私の鬼コーチは、なぜか中学生の女の子で、流香ちゃん。
佐智とは、どういう知り合いなんだよ? いったい。
え、何が鬼かって? 別に、厳しいわけでもしごかれるわけでもない。
むしろ、ユーモアがあって、優しく明るい子だ。
ただ、彼女走るのチョー速いんだよ。陸上部の中距離走のエースだと聞いている。
なんで、私の「体育面担当責任者」が、走るの専門のヤツじゃないといけないのさ? 佐智も流香ちゃんも口をそろえて「偶然だよ」って言うけど、そんな都合のいい偶然、意地悪すぎる。
私がゼイゼイいってへたり込むと——
「お姉ちゃん、しっかり!私なんか部活終わった後で付き合ってんだよ。ファイトファイト!」
……ちっくしょう。負けるもんか!
私、実力もないのに負けず嫌いなところがあるから、決してかなわないとは分かりつつも、張り合って走っちゃうんだよね。
その結果、それはそれで周囲の思惑通り、ってカンジで腹立つんだけども。
結局うまく操られて、日々真剣に運動してるのと変わらない格好になった。
夜は、佐智と机を並べて、それぞれの勉強をする。
何でも、『臨床心理士』とやらになるのが佐智の夢なのだそうだ。
たまにテキストをのぞき込むが、いかにも頭の痛くなりそうな内容だ。
頃合いを見計らって、私は彼女にコーヒーを淹れる。
そして、他愛もないことを話す。私は、それが例えおカネを払ってでも買えないモノであるという、ごく当たり前のことに最近気付いた。
そんな共同生活が始まってから、二年の歳月が流れた。
堤防には、相変わらずジョギングを続ける流香ちゃんと私の姿があった。
あれから猛勉強の末、見事高卒認定に合格。
本人は必死に否定しているが、佐智の「彼氏」と思われるシバタさんと同じA大の経営学部にめでたく入学することができた。
将来、花屋さんを目指すつもり。
あ、私は経営ね。花のことは今、欧州に留学しててフラワーアレンジメントをみっちり勉強中だという、これまた佐智の友達の後藤薫さんをスタッフに迎えて、タッグを組む予定にしている。
え、なんでまだジョギングなんかしてるのかって?
確かにね、もうしなくていいんだけど、何ていうのかなぁ……
習慣になっちゃったというか、走るのが楽しくなっちゃったんだよね。
これも、一種の洗脳と言えるかも。
土曜の昼下がり。昨日降った雨もすっかり上がり、雲のほとんどない青空が頭の上いっぱいに広がっている。梅雨明けももうすぐそこだ。
「メグミお姉ちゃん、持久力ついたよねぇ。ワタシが本気で走っても、遅れずについてくるんだもん、すごいや~」
私と流香ちゃんの二人は、遠くまで続く堤防の上をひた走る。
「うん、それもこれも、あんたが速すぎるおかげだよっ」
あまりしゃべりすぎると、息が上がるのが早くなりそうだと踏んだ私は、とりあえずへらず口叩くのをやめにした。
並走していた流香ちゃんが、急に声をかけてきた。
「メグミ姉ちゃん、あれって
ん? 私が流香ちゃんの指すほうに目をやると、川へ続くなだらかな草地の斜面に、二人の人物が座っていた。一人は、間違いなく歩美ちゃんだ。
歩美ちゃんというのは、この近くの小学校に通う二年生の女の子。彼女もここを散歩するのが大好きらしく、声をかけ合っているうちに親しくなった。
……それにしても、隣にいるのは誰だ? 見ない顔だな。
「あ、お姉ちゃんたちだ~」
堤防の坂の下から、こちらに気付いた歩美ちゃんが駆け寄ってくるのが見えた。
走ってくる歩美ちゃんがさっきまでいた場所に再び目をやると、そこに座っていたのは私と同年代と思われる女性だった。
私は一目で見抜いた。彼女と私が同類であることを。
愛に飢え、自分を汚した者特有の目をしている。
不思議と、そこに昔の私を見たような錯覚に陥った。
殴り倒されて、腫れた目でパトカーのサイレンを這いつくばりながら見た、あの時を思い出した。
……都心の空は、星があまり見えないな。
夜になった。
「
何の偶然か、あの時並んで座っていた二人は、漢字が違うだけで同じ「アユミ」同士だったのだ。
邪魔だとも迷惑だとも言われなかったし、彼女もその場を動く気はなかったようなので、私は亜由美の横に腰かけた。
お互いほとんど言葉も交わさず、時だけが静かに流れてゆく。
太陽と月が交代した。
蒼くて、まんまるい月。
「……アユミちゃんはいいなぁ」
ボソッと、そう言うのが聞こえた。
? ああ、あんたじゃなくて、あっちのほうの「歩美ちゃん」のことね。
何がいいもんかい。
あんたは知らないだろうけどね、歩美ちゃんには両親がいないんだよ。
養護施設から、小学校に通っている。
そこの職員さんは、歩美ちゃんが私たちと触れ合い始めてから少しずつ明るくなってきた、と言ってくれた。だから歩美ちゃんは、自分の精一杯を生きているだけ。そして、それに見合った結果を出しているだけ。
「隣の芝生は青い」って言うけど、それが他人様の人生を色眼鏡で見せちゃう。その人自身のことは見えなくしちゃって、ね。
「そう言うんならさ、いいなぁって思うものを目指せばいいじゃん」
私はそう言って、小石を川に向かって投げた。暗いので、どこまで届いたのか分からないが、ポチャーンという音だけは返ってきた。
「そんな簡単じゃないでしょ。どうすりゃいいのか、ゼンゼン分かんないし」
そう言った亜由美の顔と、暴れて自分の部屋をメチャメチャに破壊した私の顔とがだぶった。この子の声も、捨てられた子猫がどうしたらいいのか分かんなくて、ミヤーミヤー泣いてるのと同じだ。
「どーでもいーやって思って生きてるんでしょ? なら、同じそう思うんでもさ、どうでもいいやと思って何かやってみない?」
私は、無言で亜由美の肩に手を回した。
彼女は嫌がらなかった。
月光に照らされて寄り添い合った二人は、双子の姉妹のようでもあった。
その日から、亜由美も家に転がり込んできて、奇妙な共同生活のメンバーは三人になった。
聞けば亜由美はなんと、昨日までAV女優をしていたそうだ。彼女から語られる過去は壮絶なもので、私は涙なくしては聞くことができなかった。
私が佐智に救われたから、そして今度は私が誰かのためにと思っていたから、亜由美の助けになってあげられるのはうれしかった。これで、私にも妹分ができたというわけだ。あ、流香ちゃんはね……どっちかというと私の「センパイ」のようなもんだから。
佐智に会せたら、何だか二人は以前に会ってたことがあるみたいだった。
お互い相手を見てビックリしてたからね。ほんと、世間って狭いや。
涙と共に、夜は更けてゆく。
今日、亜由美の元カレが、この家をかぎつけて連れ戻しにやって来た。
ちょっと見たら、そいつがヤバい世界の男だということは、経験上すぐに分かった。佐智は命がけで、男を説得した。
相手に暴力を振るわれたせいで顔が腫れ、歯が折れた。
それでも、佐智はひるまなかった。
亜由美を二度と、闇に沈めないために——
すべてが一応の解決を見た、次の日の夜。
色々していると結構な時間になったので、私たち三人は布団を敷いて寝ていた。
部屋の明かりを落とすと、淡い月明かりが闇の中の私たちをおぼろげに浮かび上がらせる。
「佐智。私みたいなバカのために……ありがとう」
亜由美はなぜか改まった調子で、そう佐智に声をかけた。
それに触発されてか、反射的に私も積年の疑問を彼女にぶつけていた。
「そうだよ。私の時も、あなたは見ず知らずの他人だった私に、すっごく良くしてくれた。ホント感謝してる。ねぇ、あなたどうして人のためにここまでできるの?」
しばらく、返事がなかった。
壁時計の秒針を刻む音が、やけに大きく聞こえる。
「……私ね、昔人をイジメてたの。そんで、その子死なせかけたの。自殺しようとしたのね。あなたたちも知ってるでしょ? たまに帰省してくる私の親友の悠里」
そうだったのか。何度か、会ったことがある。
あんなに仲の良い二人が、昔そんな関係だったなんて——
私は何て返事したらいいか、分からなかった。
佐智は言葉を続ける。
「私、分かるの。人が汚れるとどうなってしまうか。人の命に関わるような事件があって初めて、私はようやく自分のバカさ加減が分かった。
他人のそういった犠牲があったからこそ、今の私がいられるの。その時、心に決めたんだ。私みたいに誰にも頼る人がいなくて、自分を見失っている人の助けになってあげたいって。
最初は、そのいじめてた悠里の苦しさを理解しよう、っていうところから始めたんだけどね。確かに、あなたたちに近づいたのは、臨床心理士を目指す私がどれだけ通用するのか、っていう動機があったのは今更否定しないよ。でも、これだけは分かって……メグミ」
佐智は、私のほうに顔を向けてきた。
「あなたと出会ったあの頃ね、悠里のお兄さんも私も、あなたの中にきっと同じものを見たのよ。心の叫び、を。それは、自殺を図るまで追い詰められた悠里を支えようとした、同じ経験を持つ者同士だから分かったの……」
私は、自分のカラダを獣(けもの)どもに粗末に投げ出していた昔の自分を思った。だからこそ今、私は自分の本当の願望が言えた。
「佐智。私も、あんたみたいになりたい」
心から、そう思った。
「私でも……きれいになれるかな。一度汚れちゃったけど、夢見れるかなぁ」
亜由美はそうつぶやいた。
佐智から、返事はなかった。
でもその代わりに、両端で寝ている私と亜由美の手をそっと握ってくれた。
佐智の体温が伝わってくる。
私らには、それがもう十分な答えだった。
ヒトは、ひとりでは生きられない。
かといって、他人まかせで人生は切り開けない。
確かに私は、佐智とその仲間に救われた。
けど、私自身が一歩踏み出さなければ、その救いに出会えなかっただろう。
佐智の手を握り返す。
ホントに、心の底から言うね。
アリガトウ。
窓から差し込む月光の見守る中、しばらく三人は手で繋がっていた。
体のことだけではない。もう三人は、心でしっかりと繋がっているのだ。
…今度、親との関係も何とかしなくっちゃ。このままじゃいけないし、何よりも私の気持ち、しっかり伝えなきゃね。将来の夢だってできたわけだし——
満ち足りた心の中で、そんなことを考えた。
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