台所の黒いやつ 3

 おかわりを携えて戻ったわたしに食事が再開される。ふと、李介さんがわたしのことを見た。

「食べないんですか?」

「おなかいっぱいです」

 わたしは苦笑いする。

 李介様といい、朧月様といい、大変よく食べる。その姿を見ているともっと一杯食べてほしい気持ちになる。

 不意にブーと音がした。

「来客のようですね」

「玄関いってきます!」

 わたしは慌てて立ち上がって玄関に走る。

 今日も失敗続きなので、こうしたちっちゃいことで李介様のお役に立って誉めていただかないと!

 玄関の硝子戸に人影が見える。そっと戸をあけると、黒い制服に帽子をかぶった――郵便局の方だ。

「あ、奥様」

 にこりと優しい笑みとともに封筒が差し出される。

「速達なので判子をいただけますか?」

「判子?」

 判子はわかるが、それがどこにあるのか――ああ、家のなかになにがあるのかをまだちゃんと把握していない己が情けない。

「あ、サインでも構いませんよ」

 郵便局員が胸ポケットからペンをとりだして差し出してくる。わたしはそれを受け取り、差し出された紙を見つめて途方にくれる。

 渡された紙の端、サインと書かれた小さな丸のところを見つめて、わたしは息を飲み、吐く。

 ペンが重い。

「あの」

 心配した声がされた。

「……え、と」

 わたしは震える声で言い訳をしようとして

「どうしたんですか」

 声にわたしは顔をあげる。李介様が心配そうに見つめてくる。わたしは世にも情けのない顔をしていたのだろう。李介様が心配そうな顔で早足に近づいてくれた。わたしを腕のなかに抱えてくれ、その手元にあるものを見て、郵便局員を見た。

「あの、サインを」

 促されたわたしが血の気のない顔で李介様を見つめる。李介様がわたしの手からペンをとってさらさらと素早く苗字を書く。見事な文字だ。以前この文字を見た。伊吹の……困ったときに学校の名前を書いてくれたあのペンのことを思い出す。

 あの文字は、李介様だったのね。

 感動しているわたしを置いて、李介様が手紙を受け取り、なかを確認している。

「あ、あの」

 わたしは恐る恐る声をかけた。

「文字、書けないんですか」

 わたしはぎくりとして俯いた。下唇を噛む。本当は告げたくなかったけれど、このままはいけない。だから諦念を孕んだ息と一緒に言葉を吐いた。

「読むことも、書くことも、できません」

「それは」

「習ってないんです。今まで必要なくて、それで、あ、けど、文字の、えっと、いろいろはわかっていて、形とか美しいのとか、けど、書けなくて……」

 落ち込むわたしに李介様の視線が痛い。

 何か言われる気配を察知したわたしは顔をあげて李介様を見つめる。

「ごはんのあと、お茶をいれなくちゃいけませんよね! いれてきますっ!」

 李介様の次なる言葉が怖くてわたしは逃げた。おおいに逃げた。ああ、この家にきて何度目の逃げだろう。わたしは成長しない。

 こんなことで本当にやっていけるのか? 不安がいっぱいすぎてくらくらしてきた。

 悶々したり、くらくらしながらお茶をいれて居間に戻ると李介様がいそいそとお仕度をしはじめているのにわたしはきょとんとした。

「どこか、行くんですか?」

「先ほどの速達、職場からです。遅番で出てくれ、ということなので、このまま仕事に出ます」

「はう」

 お茶いれたのに! お茶も飲まずにいかねばならないのですか。わたしはお茶がのった盆を両手に持ったまま急いで居間を出る李介様のあとを追いかける。せめてお茶を!

 李介様は居間から出る前に

「ユエ、お前もこい」

「私もか? 慌ただしいな。なに、また騒動か? あのなんとかという怪人が出るとかか? 奇妙奇天烈なものだ。わざわざ予告状を出して人を集めて蜂の巣をつつくように騒ぎ立て面白可笑しく秘密をばら撒いていくとは」

 おかわりをきれいに平らげて、つらつらと語りはじめる朧月様の言葉をわたしは怪訝な表情で聞いていた。

 いまいち詳細はわからないがなにか大事らしい、ということはバカなわたしでもぼんやりとわかる。

「ユエ! 急げ」

「やれやれ、茶ぐらい飲め、李介」

 居間を出て着替えに向かう李介様。それに朧月様が立ち上がり、おろおろしているわたしの持つ盆からお茶をとって飲み始める。ああ、それは、李介様の分です!

 わたしは一瞬迷って、李介様の後を追いかける。まって、まって、李介様!

 部屋に入ってお手伝いしようとしたのだが、すでに御着物を手にとって畳み始めている。慣れたもので、もう仕事着である。はやい。

「すいません、ばたばたしていて」

「あ、いえ」

「先ほど言ったように遅出ですので、今日は夕飯はいりませんから」

 はぁ。

 そうして李介様は颯爽と春一番の風のように素早く去っていく。わたしはその様子を茫然と見つめていた。

 遅番って、いつ、おかえりになるのかしら?

 わたしは、そんなことだって知らないのに。


 いらない、と言われてもちゃんと外で食べてくるとのかも聞いてない。わたしは途方に暮れて夕飯の支度とお風呂の準備をして、一人でぼんやりしていた。すぐに夕暮れとなって、甘い匂いがした。庭の梅は咲き頃を忘れず、艶やかだ。それが紺碧に生える。気の早い一番星の輝きと一緒に周囲の人々のさざめきと、空腹を刺激するにおい。ああ、お隣からは楽しそうな声とおいしそうな匂いがしてくる。よだれがもれるし、心の底からちくりと痛む。わたしも李介様とああなりたいな。

「李介様、いつ帰るのかしら」

 ――しらないの

 ――よる

 ――よるだよ

 ちび妖怪たちがわいわいがやがやと口にする。

 こいつらもいたのだ。

「あなたたちもごはんたべる? 金平糖」

 わたしが問いかけると、ちびたちがわあと喜んだ。現金なものである。

 わたしは台所に行くと金平糖を取り出した。ちび妖怪たちが急いでとっていく。けど、これって、あの朧月様のものだったけ? そのうち買い足しておかないとなぁ。

 ――りすけのこと、りすけさんだよ

 え

 ――さまづけなんてだれもよんだことないよ

 およ

 ――きらきらくれたおれい

 ――教える

 まさか、小日向は李介さんと呼んでいたのか。そうか。わたしはそんなことも知らないのか。先ほ文字が書けなかったことに李介様か驚いていた。出来ないことがわたしには多すぎる。出来なくても困らなかったけど、やはり。

 わたしは今小日向だけど、小日向自身ではないから、彼女の持っていた能力が使えるわけではないのだし。

 むむ。けれど、出来たら表面的なものだけでも近づくように努力しないと。

「李介さん、李介さん、李介……さん」

 何度も何度も口にして、呼んでみる。

 今度こそ、ちゃんと小日向らしく李介さんと呼んだら、李介さんは喜んでくれる、かな。あの人の笑った顔が見たい。うん、大丈夫。いっぱい失敗するわたしにたいしても寛容に受け止めてくれる人なんだから。

「よーし、まってろ。李介様……じゃない、李介さん、李介さん、ふふ」

 ちょっと楽しくなってきたわたしは玄関に行く。座布団をおいて、腰かける。これならいつ、李介さんが戻ってきても一番におかえりなさいって言える。机がないのでよりかかって寝てしまうということもない。完璧である。

 寒い。

 足先から冷えてきたのにわたしは両手をすりあわせる。ちび妖怪たちがうんょ、どっこいしょと掛け声とともに毛布を持ってきてくれた。わたしはそれを有難く受け取り、膝にかける。

「けど、不用意にしちゃだめよ? はたからみたらなにもないところで毛布だけが動いているように見えるから」

 わぁ、きゃあとちび妖怪たちが騒いで、毛布のうえにのってくる。一匹、一匹頭を撫でてやりながらわたしは欠伸を噛む。遅いな。李介さ……ん。

 おなかもすいた。

 うとうとと眠気が押し寄せてきた。ああ、だめ、だめ、絶対に寝ないの。

 座り続けるのも大変で、壁に寄りかかる。ああ、眠い。


「……さん、……さん!」

 強く呼ぶ声にわたしは薄っすらと目を開ける。

 李介様のお顔があるのにわたしはゆるゆると笑いかける。

「おかえりなさい、おふろと、ごはんの、ご用意、してますよ」

「……え」

 わたしはもぞもぞと目をこすって李介さんに笑いかけると小首を傾げた。なんでそんな、困ったような泣きそうな顔をされているのだろう? わたしは、なにかまた失敗しただろうか?

「あの、お迎えしようと思って、ごはんを作りました。いらないって言われたけど、おなかすいたら辛いから、おかえむしようとして、ごめんなさい寝ちゃって」

 わたしはまたしても失態をしたらしい。眠らないと思っていたのに寝てしまっていた。うう。なんたることか。わたしの膝のうえではすやすやと眠っているちび妖怪たちがいる。そいつらを一匹、一匹、指でつついてくすぐり起こしながらわたしは李介さんが放心したように黙っているのに困ってしまった。

「どうしたんですか。李介さん」

「どれくらい待っていたんですか」

「えっと、夕飯作ったあとだから……七時、くらい?」

「まさか、それからずっと、この時間まで、玄関で待っていたんですか。こんなに体を冷やして」

 怒られているが、わたしにだって言い分はある。

「だって、最近、おかえりなさいって言えてないじゃないですか。それに……遅番というものがわたしにはわかりません」

「……あ」

 わたしは唇を尖らせるのに李介様は盲点をつかれた顔をする。いやいや、様ではないぞ。さんだ。さん付けをするのだ。

「私は知らないことが多いのです。それは認めます。だから教えてください、李介さん」

「いや、それは、その……え」

「李介さん?」

「……ずっと、様だったのに」

「それは、旦那様のことを様で呼ぶのは当たり前です。けど、小日向は李介さんと呼ぶなら、わたしもそうします」

 わたしがそう口にすると、李介さんが口ごもり、息を吐いた。

「俺は、あなたのことを知ってるんですか」

 わたしは慎重に言葉を選ぶため、唇を舌で舐めて濡らした。

 その言葉がなにを示すのかをわたしは見ないふりをして流してしまう。知っているのと知らない、だったらあきらかに李介さんはわたしのことを知っている。ただし、それは、この人のいうほど深いものではない。ただただ表面をなぞっているだけ。きっと本人の記憶にはないのだろう。

 言葉の隙間にわたしはうまく己の分を通しているだけ。それくらい自覚はある。それがこの人にとっての裏切り……かもしれない不安はあるけど。けれどこの気持ちはちゃんと本物だ。

 わたしは真実を語る。

「知ってますよ、だって、わたしは、あなたの小日向ですもの」

 じっとわたしは李介さんを見る。

「ただ、過去の事を覚えてないのはわたしがあなたの小日向さんだから、けど、教えていだたければちゃんと小日向らしくします。あなたがそうあってほしい、と願う小日向に」

 開いた唇が迷って、閉じる。

 そんな風に恐れることも、迷うことも、戸惑うこともないのに、そういう約束をわたしと彼は交わしたのだ。

 あなたが失った、大切なものを取り戻す。わたしはその手伝いをする。願いを叶える。だからあなたもわたしの願いを叶える手伝いをする。対価交換だ。

「李介さん、あなたはどんな小日向が御望みですか? 今のわたしでは、願いに沿いませんか? わたしは、ただ李介さんのことをお慕いしている小日向です」

「……味噌汁が辛い」

「え」

「あなたの味噌汁はひどかった」

 小さくふくみ笑う顔にわたしはぽかんと口を開けたまま、真っ赤になる。

「あう、あう、あうっ……だって、だって」

「けど、だんだんとおいしくなった」

「お、おいしいですか!」

 わたしが問い返す。

「はい。おいしいです」

 ほっとしてわたしは俯いた。

「意地悪です」

「つい」

 李介さんの手が伸びてわたしのほっぺたをつつく。くすぐったさにわたしが慌てていると、指ではさまれた。ペンダコがかたく、わたしのほっぺたを刺激する。ちょっといたい。

「うにゅ」

「……」

「そんなにもちもちしたら、ほっぺたがのびちゃいます」

「どこまで伸びますかね」

「は、はう。御餅みたいに、びよーんと伸びたらどうしますか?」

「面白そうだ」

「李介さん! 意地悪っ! だめです。だめです。戻らなかったら困れますっ!」

「ぷ、ははは」

 李介さんが噴出したのにわたしはむすっと拗ねた顔で睨みつけた。この人、思ったよりも意地の悪い人だ。

「あなたに害がないことはわかりました」

「むぅ」

「辛い味噌汁を作るし、寝坊はするし、けど、一生懸命、尽くそうとしてくれていることも」

「……李介さんは意地悪」

 わたしは言い返した。

「目覚ましとめちゃうし、ごはんはおいしいし、ほっぺたつまむし」

 また李介さんが肩を震わせて笑っている。うう。

 わたしとしては切実である。寝坊をしちゃうし、ごはんはまだおいしく……できないことのほうが多いし。ほっぺたをそんなにつままれたら御餅みたいに伸びてしまう!

「兎に角、お仕事ご苦労さまです。おかえりなさい、李介さん」

「ただいま、小日向さん」

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