箸休め・とある夫から見た妻について

 藤嶺李介は大変、いや微妙に、かつ切実に、それでいてどうしていいのかわからないくらいに悩んでいた。

 まぁ、ようするに軽く困っていたのだ。

 自分の布団に妻がいる。丸まって眠っているのは、子猫のようにも見えるがつついたら爪を出してひっかいてきそうだ。すやすや眠る様子はとても幸せそうで何時間でも眺めていたい気持ちになる。

 李介は小さなため息をついた。


「李介しゃま、寒いです」

 文句を言われた、ここは自分の布団で、自分が寝る場所なのに。それでも李介は真面目かつ律儀に布団をかけてやる。

 そっと腕が自分を捕えてきた。

「はやく、はいってきてくださいませ」

「いえ、あの」

「ほら、はやく」

 そろそろとはいった布団のぬくもりに李介は目尻が緩むのがわかった。最近は、冷たい布団にばかり足をいれて、震えていた。日本男子として鍛え方がたりないと思っていたが、ぴったりと体に寄せられたぬくもりに眠気が押し寄せてきた。首をもたげると、彼女の微笑みがあった。

「……あなたは」

「め、ですよ」

 己の唇に、あたる指先の甘さに、くらり、とめまいがした。

「おやすみなさい」

「……おやすみなさい、小日向さん」

「はい。李介様」

 その言葉に誘われて、大人しく李介は眠りについた。

 が、しかし。

 体が寄せられる。どんどん寄ってくる。どうしていいのか困って後ろにさがるとさらに迫ってくる。もっともっとと貪欲な獣のようだ。とうとう背中に冷たい夜気を感じて李介は震える。

 困った。これは。

 こういうとき男らしく、抱きしめるなり押し返せばよいのだが、李介にそのような度胸はない。

 李介は押しに弱い。その自覚は本人にもある。

 外面を取り繕うことが得意――といえば人聞きは悪いが、彼はそうして世を渡ってきた。人に尽くすことが彼の人生をかけた天命に等しいもので、父を亡くし、泣きながら神と交わした言葉のあとにしたためた名に誓ったように、一度たりともブレることはなかった。

 人は幼い夢と笑うかもしれないが、それでも李介はその夢を捨てることも、諦めることもできずに手元に残してずっと温めている。

 すでに三十を超えて、良い年となった彼にしてみれば呼吸するのと同じようになものだ。

 つまりだ。

 押し返せないのだ。

 ぐいぐいと妻がすり寄ってくると押し返せない挙句に場所を譲るから寒い思いをする。このままでは風邪をひくかもしれないが、それはまた男として鍛え方がなってないだけ、と彼は結論づけることだろう。

 すやすやと眠る妻の幼い顔の、無垢さと愛しさに胸が不意にきゅんとした。切ないと思った痛みがじわじわと胸のなかに広がってくる。これは起こすのも哀れすぎて出来ない。いや、決して妻に甘いのではなくて。

 悶々と言い訳をしながら李介は小さなため息をついた。

「弱ったな」

 つんつんと頬をつまむと、うにゃと小さな声をあげる。

「……」

 ついつい、意地悪くほっぺたを何度もつつくとうーんと小さな声をあげてくる。起こすかとはらはらしたがしっかりと眠っている。安眠体質らしい。そうなると楽しくもっと突いていく。うにゃうにゃとちいさな子猫みたいで、愛しくなってくる。今日は本当にあれこれと疲れてしまったが、こうしているだけで癒される。それを認めることが今の李介には出来ない。

「俺は」

 昨日の記憶がぼぼないが、それでも自分は珍しく梅桃に誘われて酒を飲んだ。梅桃が金がないと開き直るので奢って、ふらふらと千鳥足で帰宅したはず、それで



 ――旦那、もう一杯、飲みやせんか?

 ――うん、良い飲みっぷりだ

 ――つらかったんだろうね、くるしかったんだろうね、口にしてごらん、お前さまのほしいもの

 囁く声は心地よく、耳をくすぐって、つい甘えてしまったのは酒のせいなのか、それともその声の主のせいなのか

 触れると、その人の肌はしっとりしていた。唇が、花びらのように甘くて、柔らかくて、もっと触れていたいと思う人だった。

 ――お前さまにしよう

 ――山の美しい嶺に咲く、藤の花とはゆるりとした苗字だ。それにスモモの名に関わるか。甘い名だ

 ――甘い男

 ――ほしいもの、ねがいをなんでも口にしてごらん

 ――叶えてあげよう

 ――ただし

 ――甘い男、あっちの望みを叶えてくれなくちゃいやだよ、なぁにひとの身だ。無茶はいいやせんよ

 だったらそのまえに、あなたの名を知りたい

 ――あっちの? ふむ。貪欲な人だね、甘い男。よろしい、それをもって契約成立だ

 ――あっちの名は

 ――紙芝居師と、および。ああ、甘い男、お前さまが呼んでくれることはないかもしれないけどねぇ

 紙芝居師、そう口のなかで囁くとその人は笑った。愛し気に。手を重ねて、ゆっくりと唇が寄っていく。

 甘い。

 この世のものとは思えないほど、ひどく甘くて、優しくて、つつまれるような接吻だった。

 覚えているのはそれだけ。いいや、ちがう。その人の鮮やかな着物の色は黄で、そのなかを泳ぐ金魚たち。あとは、梟の目。――その人の顔を覆う、面は愛嬌はあるが、どこか自分との距離を覚えさせる。そっと手を伸ばしてとれば、ひらりと零れ落ちる宝石のような、瞳。

 薄い緑に近く、けれど見る角度によっては青くも、赤くも見える。輝く宝石。それがほしいと手を伸ばすと、指が絡んで握られた。どこにもいけない。どこにもいかさない、とばかりに。

 ――名を

 囁かれる。

 ――名を

 その人の名を口にしようとして出来なくて、かわりに答えたのは


 ぱちりと目を開けた李介は寒さに震えながら朝支度のために布団から這い出ようとして、動きを止めた。

 先ほど大切な夢を見た気がするが、肝心なところは曖昧にぼかされてしまった。けれどまだ覚えていることがある――交わした言葉の強さとその人の唇の甘やかさが浮かぶ。つい自分の唇に指を伸ばして触れるがかさかさとかたいばかりだ。ちらりと懐で眠っている妻を見つめる。指で触れると、夢の中の柔らかさを思い出した。

「……弱ったな」

 腕を伸ばして懐に寝る場所を与えてしまうと、そこに潜り込んで眠っている妻の人懐っこさと積極さに、それがいやではないと思う自分の弱さに頭をもたげた。

 彼女の唇は、あの人と同じくらいに甘いのだろうか。

 ふと浮かんだ不埒な考えを李介は打ち消す様に急いで布団から出て、井戸の冷たい水で顔を洗いに向かった。

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