夫婦の夜 2

 もじもじとわたしが俯いて、手をこすりあわせていると李介さんが視線を感じる。ちらりと顔をあげると、目があった。

「どうかしましたか?」

「あの、その」

「はい」

「わたし、字が書けません、読めません」

 思い切って自分の一番の弱味を晒すと、胸がどきどきして、ぎゅうと掴まれたみたいに苦しくなった。

 けれど李介さんにはもう知られてしまっているのだし、今さら黙っていても得になることは何一つない。

 こんなわたしのために李介さんはカレンダーに勤務について書き込むときも、文字だけを書くのではなくて、手間でも色を使い分けてくれたのだろう。

「その、あの、形は、なんとなくわかるんです。そういう形がどういう意味かとか。ただ、本とか読めと言われると、その言葉がうまく理解できなくて、文字の、形と形をあわせれば言葉として成立するのかということが、漢字とかかなとかひらがなとかいっぱいあって……だから、昼間も、お名前、かけませんでした」

 郵便を受け取ることもできなかった。ただ受け取るだけなら困らないが、文字を書く必要があるといわれたらわたしは途方にくれてしまう。今日は李介さんが助けてくれたけど。

「それは」

「わたし、学校にも行ってません。学がありません。いろんなことを知らなくて……先も神のこと。朧月様のことわからなくて聞きました、李介さんは、教えてくれて、けど、本当はこういう知識って幼子でも学び舎に通って当然知っているものなんですよね?」

「一応は、今は学校がありますが……それでも、すべての国民に平等に教える、ということは出来てはいないことは心得ています。とくに、女性は」

 沈痛な面持ちの李介さんにわたしは苦笑いした。

 どうして、そんなふうに自分がしてしまったことのようにこの人は自分のことを責めるのだろう。そっと手を伸ばして、李介さんの大きくて、がっしりとした手に自分から重ねる。

「だから、教えてください」

「……俺でいいんですか?」

「はい。李介さんがいいです」

 わたしは笑って答える。

「びしっ、ばしっとお願いします! わたしが、奥さんとしてお役に立てるように知識をください」

「……役に立てるように?」

 疑問形の問い方をされてしまったがわたしは真剣に頷く。

「はい。あの、お荷物を受け取るのとかに困らない程度に」

「……あなた自身はなにか学びたいというのはないんですか?」

 じっと李介さんがと行けるように見つめて、手を強く握りしめられた。頼ってほしいと言われているような、そんな包まれ方にわたしは

「しり、たいです。文字を書いたり、いっぱいできたら……あ、あう。けど、それで李介さんのお世話がおろそかになったりとかしたら」

「少し考えてみます。さすがに学校に通わせてあげられるとは約束はできませんが、それでも、あなたが学べるように」

「李介さん……!」

 この人は、本当に優しい人なんだと、わたしは視線を交わしてわかる。

 唇が緩んで笑っていると、ほっぺたをつままれた。あう。また、いきなりどうしてつまむのだろう。わたしがびっくりしていると

「あ、つい」

「つい! わたしのほっぺは、そんなにもつまみやすいですか」

「……わりと」

 ぼそりと言い返されてしまったが、これが李介さんの本心ぽいぞ!

 うう、そんなにもわたしのほっぺたはもちもちしているようにみえるのだろうか? それは、それで困るぞ。

 頬をつまんで、指で撫でられる。触り心地なんかを確かめられている気がする。その手がふと唇に近づいてきた。お弁当でもついていたのだろうかとぼんやりとしていると、唇を親指の腹で撫でられる。かたいその肌の感触にわたしはどきまぎしたまま、どうしていいのかわからなくて唇を少しだけ開いた。かぷっと噛み付く。きっとまた笑って……ん。口のなかに親指がはいって、前歯を撫でてくる

「うぐぅ」

「あ……すいません」

 ついへんな声が出てしまった。胸がどきどきして、苦しくて、もっとほしいような、怖いような気持ちになって

「わたしこそ、ああ、拭うものいりますよねっ」

 慌てて部屋の端っこにあるティシュをとって、李介さんの指先を拭う。一体、先ほどからわたしたちはなにをしていたのかと思うと大変、恥ずかしい。

 急いでわたしは夕飯の片付けをしてしまい、李介さんはお風呂へと向かう。台所に立つと、わたしは頬が熱くて、両手で顔を覆う。あああ~もうなんか恥ずかしい。李介さんめ! 井戸水の冷たさにひたった手で頬をぺちぺちしてもまだ熱い。なんだか知らない男の人と向き合ったみたいで、それでいて……いやじゃなかった。けど、あのままだと、どうなっていたのかも想像ができない。うう、わたしはそういう意味でも勉強不足だ。

 洗い終わった食器を置いて寝室に向かう。いつものようにお布団を広げていると

 ――おまえよこ

 ――あっちのは

 ――いつもつかわない

 ちび妖怪たちが興味津々の目を向けてくる。はて? 横っていうのはなんだろう。ちび妖怪たちが示す隣の部屋へと移動してわたしは小首を傾げる。なにか不思議なひっかかりを感じる。慎重に目を動かし、よく眺めて気が付いた。この部屋、洋風の化粧台がある。その前はこざっぱりと掃除されているが、うっすらと積もった埃が長く放置されていたのがわかる。微かに部屋に香る白粉と金木犀の甘い香りに喉を鳴らす。

 そういえば、ここに来てから、まだ李介さんのことでいっぱいすぎてちっとも部屋全体のお掃除ができてないし、把握も出来てないけれど、この部屋って

 ――おんなのへや

 ――ここ

 ――ねてた

 ちび妖怪たちの言葉にわたしは眉を寄せて、ためしに部屋の端っこにある箪笥をひっぱる。なにもはっていない。

 ちび妖怪たちが騒いでいる押入れの前にいき、そっと開けると、お布団がはいっていた。

 触れてみると、金木犀の匂いがした。

 ――これ

 と囁かれる声にわたしはゆるゆると水がしみ込むように理解する。

 小日向はこちらで寝ていたのか! なんということだろう。この夫婦、別室で寝起きしていたのか。いや、李介さんのお仕事の多忙さを考えたらそうかもしれない。けど、わたしがお布団にくるまっていてもなにもいわなかった……いや、なんだか困ったようなびっくりした顔をしていた、ような気もする。

 わたし、すごく大失敗をしたのに気が付かずにしていたのでは!

 ――りすけ、はしっこにいってる

 ――せなか、さむそう

「え」

 ――おまえとねるとき

 ――ぐいぐい端っこにされて

 ――背中、いつも、おふとんのそと

 あ、ああ~。

 わたしはため息と絶望の声を漏らしながらその場に崩れる。なんということだ。わたしは寝ているとき無意識に李介さんにすり寄っていたらしい。そして、李介さんはそれに押されるまま後ろに退行し……結果、お布団の外まで追い込んでいたのか。それは、わたしよりも目覚めさがはやいはずだ。

 ちび妖怪たちが面白そうなものを見る目でわたしのことを見つめてくる。

 わたしはしっ、しっとちび妖怪たちを追っ払い、押入れから布団をとりだす。ちょっと匂いを嗅ぐが、べつに湿気ているわけではないから……大丈夫。明日、ちゃんと干したらいいわ。お部屋に自分のお布団を敷いたあと、李介さんのお布団を敷いていると李介さんが顔を出してきた。

「もう寝ましょうか」

「あ、は、はい。あの、それで、李介さん」

 わたしは、もじもじと近づいていく

「ごめんなさい、わたし、お布団、別々のお部屋って思わなくて」

「え、あ、ああ。それは、はい、気にしないでください」

「ちゃんと今日は別のお布団とお部屋で寝ますからっ」

 わたしが勢いこんでいうと李介さんが少しだけ動きをとめて、目をぱちぱちさせる。なにか言いたそうな視線のあと

「そう、ですね。そのほうがあなたがいいなら」

 心なしか、少しばかり、がっかりされているような気もするけど、それはわたしの欲目というものだろう。

 わたしはお風呂をいただいたあと、自分のお布団のお部屋に行くとなかにはいる。冷たい。そして広い。両手両足をのばしてありあまる広さだ。そして甘い匂い。目を閉じると、静寂のなかで気配が感じられる。隣の部屋でも李介さんの息や動きの気配がする。目を閉じていると余計に敏感に感じる。

 ああ、いつもは優しいぬくもりがするのに今はないことが心寂しい。目をぱちりと開ける。心がすーすーして、居心地が悪い。

 お布団をそっと李介さんの気配がある横の部屋へと寄せる。ずる、ずる。そしてお布団のなかにはいる。けど、やっぱり寂しい。わたしはますますお布団を寄せていくと、とうとう戸に来てしまった。

 むくりと起き上がってわたしはのそのそと部屋の戸を開ける。ちらりと見ると、李介さんは文机に向かっている。わたしは四つん這いで進む。すると、わたしの不埒な気配を察して李介さんが振り返った。

「あ」

「うっ」

 わたしと視線が合う。

「なにをして」

「……さ、さみしくて、その、おふとんを、近づけても、いい、ですか? おふとん、横にしても」

「……ぷ」

 あ、笑われた。肩を震わせて笑っている。ううう。だって。だって。

「いいですよ、どうぞ」

「は、はい!」

 ぱっと笑ってわたしはお布団を寄せて、横になる。けれど李介さんは来ない。わたしはじっと李介さんを見ている。背中が遠い。まだかな、来てほしい。寂しい。と思っていると、李介さんがまた手をとめて振り返り、視線を向けてきた。

「どうしました」

「まだ、お布団、はいらないんですか?」

 わたしは聞き返した。

「いつもは、すぐにはいるのに?」

「それは……寝ましょうか」

 李介さんが手を止めて、お布団に来た。お布団に横になる李介さんをわたしはじっと見つめる。

 お布団が横にあっても、ちっとも寂しさが満たされない。

 わたしはお布団の端による。ぬくもりはないけど、鼻先に李介さんの匂いがする。文の匂いだ。紙とインクの香り。李介さんの布団にそっとわたしは片足だけいれてみる。あ、まだ寒い。ごそごぞと寄っていくと

「なにしてるんですか」

「ひゃう」

 見つかって、しまった。

 視線があう。

「あ、あの」

「はい」

「おふとんにはいっちゃいました」

「そう、ですね」

「さ、さみしくて、さ、さむくて」

「……っ」

 李介さんが口を開いて何か言おうとする前にわたしはかぶさるように言い返す。

「わたし、ぬくぬくですよ。あたたかいですよ。湯たんぽにしてくださいっ」

 勢いこんで自分の、たぶん魅力となるところを口にする。李介さんがそれにいいと思ってくれたら嬉しいけど。

 わたしが視線を向けると、うん、と返事がされた。

「ぬくぬく……がほしいです。いつも、あなたがぬくめてくれていたから、少し寒いです」

「はい。はい。ぬくぬくしましょう」

 わたしはいそいそとお布団のなかにはいると、すり寄る。あ、いけない。押し出してしまう可能性もあるかも。けれど、すり寄ってもびくともしない。見上げると、李介さんのお顔がある。腕の中にすっぽりと包まれる。

 わたしは安心して、嬉しくてすり寄る。かたい肉体の逞しさが気持ちいい。

「わたし、おふとんにいるとき、いつも、押し出してました、よね?」

「そうですね。けど、最近、よくあなたがすり寄ってくると、こうして胸の中に抱いて……俺の懐で気持ちよさそうに眠るから」

 李介さんはわたしが眠っている間にそんなことをしていたのか……恥ずかしいけど、少しだけ、嬉しい。

 ちゃんと、李介さんの腕の中にわたしの居場所は作られていたらしい。

 頭をそっと撫でられて、目を細めていると、頬を撫でられる。

「気持ちいいです」

「もっと、触ってもいいですか?」

「いいですよ。もっとしてください」

 頬から顎を撫でられる。くすぐったい。指先の、かたいところが肌をつつかれる。くすくすと笑って身を小さくよじる。ぎゅっと李介さんの胸に頬すりする。もっとですよ。もっと触れていいんですよ。目尻に指先があたる。

「りすけさん」

「はい」

「触るの好きなんですか?」

「……なんとなく、あなたの……感触は覚えがあります。ただどこで触れていたのか……どうしてでしょうね、記憶にないんです」

 わたしは唇を閉ざす。

「この、あたたかさと、ふわふわした、あまやかさを、俺は……つい最近、触れた気がするんです」

「夫婦ですもん」

 わたしは言い返す。

「夫婦だから覚えてるんでしょう」

 わたしのすっとぼけた言葉に李介さんが何か言いたげに口を開いて、閉ざしてしまった。

「そう、ですか。そうですね。寝ましょうか」

「はい」

 わたしは目を閉じて、李介さんの匂いを嗅ぐ。不思議。同じ石鹸で体をあらっているのに、李介さんは秋がはじるような、少しだけ苦みのある、深い匂いがする。

 李介さんの優しい匂いに包まれて心が落ち着く。

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