とある夫婦の化かしあい

藤嶺李介の後悔

 自分が愚かだから大切なものを失ったのだろうと藤嶺李介は頭の底では理解していた。


 死にたいと、心の片隅でぼんやりと泡沫の夢のように思っていた。または自分で自分のことをこれでもかというほどに殴るなり、なんなりしたいとも。そうした狂暴な気持ちを迷子の子供のように途方にくれた状態で受け止めていた。

 己の両手ではこの気持ちは抱えきれない。

 心の一番奥にある箱に落として、蓋をして、出来ることならば開けないように頑丈な鎖でがんじがらめに封印することしかできないでいた。

 その日、普段ならば断わる飲みの誘いに応じたのは、窒息しそうな憂鬱を抱えて、息するのも苦しいと思ったからだ。

 早く家へと帰ってももう出迎えてくれる人間はいないのだ。

 否。

 あの人がいても出迎えてくれることはなかった、と思う。

 いつから自分は暗い玄関を開けて、用意された食事をして、ときおり言葉を交わす、そんなことを繰り返していたのか。

 思えばいくつも原因はあって、それを考えるとあのときこうしていれば、ああしていればという後悔の念が押し寄せては、今さらだと諦念に変わる。

 あまり飲まない酒をすすめられるままに飲んでしまい、悪酔いした自覚はあったが、それでも意識がはっきりしているうちに店を出た。

 暗い路地にぽつんと灯を見て近づくと屋台だった。先客が一人いた。

 宵闇のせいではっきりと顔が見えないが、その客人が自分を見て、にやりと笑った。


「うん。お前さまにしよう。大丈夫、怖いことなんてなにもない。うんと優しい、いい夢にしよう。だから、ほら」

 囁かれるように呟かれた。

 ――名を

 頭に響く声がした。

 ――名を

 はっきりとした声で。

 ――名を。

 促されるままに自分は口にしていた。後悔と懺悔しかない名を。

 次の瞬間、彼女の笑みが視界いっぱいに広がった。

「わたしは、あなたのお嫁さんですよ。李介様」

 甘い声が楽しそうに告げた。

 そこで完全に意識が闇に飲まれた。


 思い出されるのは二枚の紙きれ。

 一枚には契約の内容を義務的につづったもの、もう一枚には丸い文字で自分を優しくなじる彼女の言葉が連なっていた。

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