台所の黒いやつ 1

 目覚まし時計が鳴らない。まどろみのなかでぼんやりと最も恐ろしいことが頭を掠めた。ぱちりと目を開ける。雀の鳴き声がする。燦燦と入る太陽の日差し――今、何時? そろりと視線を時計を見ると、八時半。いや、もうすぐ九時になろうとしている。あらら。なんていい日差しと温度につい眠気が……

 ぎゃあああああああああああああああああああああああ!


 わたしの悲鳴が轟くと、廊下から慌てた足音がした。わたしは飛び起きてお布団に正座していると、がらりと戸が開いた。

 李介様だ。

「ど、どうしたんですか!」

「李介様ぁ、申し訳ござません。わたくし、またお寝坊をしました!」

 お布団のうえで深く、深く、ふかふかの、あたたかいお布団に額をこすりつける。ああ、眠ってしまい……じゃない。反省せねば。

「寝坊って……今日は第二の土曜日ですよ」

「ん?」

 わたしは顔を起こす。

「私の仕事は休みです」

「……あら」

 お休みなんてあるんだ。


 着物を着て居間にいくと、李介様が御着物姿でお茶をすすっている。

「朝っぱらからすいません」

「……いえ」

 わたしは李介様の横に腰かける。

「起こしてください」

「休みの日ですよ」

「けど、朝はごはんは食べますよ。あ、李介様の朝ごはんは?」

 わたし、またやらかしましたか? 昨日、やらかして、今後は気を付けようとしたのに。また!

「米が炊けていたので、それに味噌汁と漬物を」

 わたしがいなくてもちゃんとやってらっしゃる。

「残っているので食べますか」

「はい。ついできます。あ、あの、お米のかたさはいかがでしたか?」

「ちょうどよかったです。手慣れてきましたね。味噌汁もうまかったです」

 誉められた。ちょっと嬉しいのでわたしは少し唇が綻ぶ。

 ――おれらがおしえたんだぞ

 ――そうだ、そうだ

 ――水の量と

 ――予約設定っていうのもおれらがおしえたんだぞ

 ああ、わたしのよく聞ける耳がちび妖怪たちの声を拾い上げてしまう。

 そうである。

 わたしは炊飯器というやつが上手く使えないため、お米がどうにもうまく炊けないのだ。どうして釜で炊かない? 

 あれだったら、はじめチョロチョロ、なかパッパ、赤子泣いても蓋とるな! と知っているが、機械は困る。ちゃんと炊けているのか心配になってしまう。ボタンを押したあともついついじっと眺めてしまう。おまえ、ちゃんと炊けるの? 火もないのに? どうなっているの? しかし、昨日はじっと見ていると、お米のふっくらとした匂いがして舌に唾液がたまって困った。炊飯器というやつはなかなかにやりよる。

 それもその場にいなくても予約設定なるものもあるとは知らなかった。

 試してみたがちゃんと出来ていたようでよかった。

 味噌汁も夜のうちに材料を切って、さくさくと仕込んで朝にあたためておけばいいとちび妖怪たちがいうからそのままやってみたが、ちゃんと出来ていた。おいしいと言われた。言われたぞ。

 ちび妖怪どもにあれこれと言われ、古い家の心配そうな視線やら受けながら作ったかいがあった。

 しかしだ。

 寝坊してしまった。

 昨日、李介様に「目覚まし時計は絶対に止めないでくださいね、お願いですよ、後生ですから」とさんざん口にしたが、鳴らなかった。なぜ?

 きらきらのごはんをお茶碗についで、お味噌汁をあたためる。おつけものをとりだして、お米のうえにたくわんをふたつ。よし。

 あたたかな味噌汁をついで、そのままお行儀悪いか台所で立ったまま駆け込む。

「ねぇ、また目覚まし時計、あんたたち消したの?」

 ――ちがう

 ――おまえだろう

 ――設定わすれてやんの

 なんと!

 ああ、そうか、目覚まし時計には設定というものがあったんだ。ボタン一つでなにかあれこれとなるから大丈夫かと思ったが、時計はちょっと違うらしい。また教えてもらわなきゃ。

 李介様も休みだからいいかと放置していたそうである。ひどい。

 手早く朝ごはんを食べ終えて、食器を洗ったわたしは、棚の一番下にある金平糖の袋をとりだす。

 ちび妖怪たちがわぁと寄ってきて一匹、ひとつ、とっていく。よしよし。気を食べられた金平糖がそこそこ増えてしまったが、本当にこれ、何に使おうかしら。迷う。

 ひとつ、ものは試しに食べてみる。

 甘くない。

 かたいだけ。

 これは……捨てるしかないかしら?

 いろいろと悩みつつ袋を戻して居間にいくと李介様がいない。あれ? と見ていると、御庭で木刀の素振りをしてらっしゃる。

 上半身をはだけさせて、素振りをする姿はなんとも凛々しい。鍛え上げられた肉体。ああ、なんと逞しく男らしいことか! 惚れ惚れしてしまう。

 などと見惚れていてはいけない。

 こういうときは手縫いときお茶を用意せねばいけない、はず。

 わたしが慌てて立ち上がり、台所に行くと、あれっと違和感に気が付いた。誰かがいた気配がある? 違う。なにかおかしな気配だ。こう、気持ちが悪い感覚がする。

 なんだろう。これ

 ――うるさいのきた

 ――ぜったいきた

 ――いる、いるぞ

 妖怪たちがうるさく騒ぎ始めてるのにわたしは顔をしかめた。

 どうやら招かれていない客人がいるらしい。これは、由々しき事態だ。

 家を守るのは妻の努め。夫のためにもここはひとつ、がつんとやらねばならない。

「ねぇ、そいつ、どんなやつなの?」

 私が尋ねると妖怪たちが少し悩んだ顔をしたあと

 ――でかい

 ――うるさい

 ――くろぽい

 ――金平糖たべる

 ――いまは台所にいる

 でかいゴキブリか?

 箒で退治できるかしら?

 とりあえず台所にわたしは急いで走り出す。玄関に立ち寄って箒を片手にとると、隠し持っている紐を脇にまわして、しっかりと結ぶ。鬼退治ならぬゴキブリ退治である。勢いと速さが勝負である。

 気配を殺し、ゴキブリに悟られぬように忍び足で向かうが……どこにいるのかときょろきょろしているとちび妖怪たちが

 ――りすけのへやー

 ――へやー

 なぬ!

 よりにもよって李介様の部屋に移動したとは……わたしの箒捌きでものの見事に退治して、家から叩き出さねば……!

 慌ててまたわたしは廊下を走って李介様の部屋に向かう。途中、庭に面した通路を通ると、李介様が素振りの手をとめて、不思議そうにわたしのことを見ている。

 ああ、はやくお茶いれなくちゃ。

 わたしは、李介様を見て大慌てである。

 やることがいっぱいなのに、ああもう! 箒を持ったまま走り、襖を叩きあける。ゴキブリ撲滅! と箒を構えるが――いない?

 ――いないぞー

 ――あいつ

 なんて、ことだ。

 わたしのことを察知して逃げられた? おのれ!

 ――にげた

 ――つかまえるぞ

 ――台所だ

 ――罠をはったぞー

 ――かかったっ!

 よくやった! ちび妖怪たち!

 わたしは心の中で賞賛し、箒をもって先ほど駆け出したところを再び走り出す。まってろー!

 そんなわたしが庭に面した廊下を走っていくと不思議そうな視線を感じる。はっ! として視線を向けると李介様がきょとんとしている。お待ちくださいませね。すぐに、お茶をいれねば!

 台所に入ると、わたしはきょろきょろと周りを見回す。

 見ると床にきらきらした……金平糖?

 なぜ?

 それが連なっているのに見ていると、ごとんと音がした。え、っと顔をあげると金平糖をいれている棚に屈みこんでいる、黒ぽい――あれがゴキブリ?

「なんだこれだ! 甘くないぞ!」

 いきなり声をあげている。

 こいつだ!

 ――罠かかった

 ――かかった!

 ――やった

 無邪気な妖怪たちの声に、それの上へと落ちたのは鍋だ。それが思いっきり頭にあたって大変痛そうにしているのを見ると、物理的な攻撃は有効なようだ。わたしはそっと箒をふりあげる。

 よーし。

 えいやぁ!

「ゴキブリ退散!」

「ふはぁ!」

 またいらぬものを叩いてしまった……とかっこつけながらわたしは頭をおさえて呻いているゴキブリこと、不届きものが振り返った。

 キッと睨みつけてくる目は金色だ。月の色をしているのにわたしはぎょっとする。

 人じゃない。

「なにをする!」

 強い言葉の声にわたしは、ぎゅっと胸を抑える。

 とたんに彼の周りにまばゆく、青い文字が浮かぶ。わたしはそれを見て驚いて尻もちをついた。

 はっと息を飲む。

 言葉がわたしに迫ろうとしている。

 恐怖に拳を握りしめる。

「やめろ、ユエ!」

 凛とした声が割り込んで、わたしを助けてくれた。守る声に視線を向けると、台所の前に李介様が立っていた。

 険しい顔をして不届き者を一瞥すると、すたすたと大股で歩いてわたしのところまで来てくれた。

 ああ、李介様、なんて勇ましくて逞しい。

「大丈夫ですか」

 李介様に心配されてしまった。尻もちをついてちょっと痛いけど、ぜんぜん平気であるわたしは苦笑いする。

「ユエ!」

「私はなにもしていないぞ」

「お前がいきなり現れて家のなかを物色するだけで、十分害がある!」

「む! ここは私の家でもあるだろう!」

「気配を殺すな、姿を消していきなり現れるな!」

「何故だ! 移動はそちらのほうが俄然楽だぞ。神が楽をしてはいけないと決まりはないはずだ」

 二人が言い合いをはじめてしまったのにわたしは、李介様のお背中に隠れて睨みつける。

 神……この不届き者はそう口にした。

 確かに、この気配は……神格の気配だけども。

 それはどこからどう見ても人だ。成人男性の身なりをしているが、その衣服は上等の白布と、鮮やかな紺色を重ねたものだ。洋風仕立ての衣服に包まれた細身の肉体、悪戯猫のような品よくはねた髪は夜に近い深紺。片目には刀の鍔を使った眼帯をあてている。人のようだが、人ではない。これは神だ。

「兎に角、驚かせたんだから謝れ」

「何故だ! 私は箒で叩かれ、挙句に甘くない金平糖を食べさせられんだぞ」

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