奥さんの仕事一日目 2

「え、あ」

「痛いの。右手が、とっても」

 情けなく涙を零すわたしを李介様は心底困惑顔で見つめてくる。

 痛ければ人は泣くものだ。わたしの反応は何一つ間違っていない。今日一日必死にあれこれとしてきたわたしに最後のトドメをさしたのは誰でもないこの人だ。

「すいません。先のそんなにも強く」

「強くないけど、痛い、すごく」

 自分で握っていた右手を見つめていると、李介様の手が伸びてきた。

 一瞬、びくりと震えるわたしの手に李介様の手が戸惑って宙を彷徨う。わたしはおもいきって、その手を掴んだ。李介様の手のほうが震える番だった。

「冷たいですね」

「李介様の手も」

「先はすいません、一寸仕事で……いろいろありまして」

 李介様のかたい指先が私の柔らかい指を撫でてくる。わたしが指先を動かすと、かたい掌をつついていた。ぎこちなく、わたしたちは触れ合い、見つめあい、言葉を重ねる。

「いろいろ?」

「いろいろです」

 聞かれたくないことをわたしは察して俯いた。まだ涙が零れている。自分で片方の目を拭っていると、もう片方を李介様の指先が拭ってくれた。逞しく、かたい指先が驚くほどに優しく、わたしに触れてくる。

 屈みこんでくれて、ようやく顔が見える。

「もう、平気ですか」

「痛い、です! まだ!」

 わたしが噛み付くように言い返す。

 ぷっと李介様の口元が緩む。む。

「っ、どうしたら、いいですか」

「笑いましたね、いま」

「……少しだけ」

 口元がひくひくしている李介様にわたしは少しだけ機嫌をなおした。痛みはだいぶひいたが、指先が冷たい。

「じゃあ、李介様の手当をしてもいいですか?」

「私の、ですか?」

「手の甲、傷がありますよ」

「これは、たいしたこと」

「だめですよ。ばい菌がはいったら人は容易くあの世の仏様になって神様にこき使われてしまうんですからね。菩薩さまはああみえておそろしいのですから」

 ぐいっと李介様の手をとってわたしは廊下を早足に歩く。わたしがひっぱるとついて来てくれる。

 居間に戻るとわたしは、またしても困ってしまった。

「手当箱ってどこでしったけ?」

 あ、口にしたあと、わたしは慌てて李介様を見て首を横にふった。そんなことも知らぬとは妻として、どうなのだろうか。

 むむ。わたしは唸り声を漏らすと、李介様が口を開こうとするのに手を伸ばして止めた。

 唇をわたしの手で押さえられた李介様と視線があった。

 なにしているんだとお思いでしょうが、ここで李介様に助けられるとわたしが困るのです。そう視線で訴えたら通じたらしく李介様は口を閉じてくれたままだ。

「待って、待ってくださいね。ちょっと待ってくださいね」

 わたしは急いで小走りに廊下に出て、雨戸を開けるとつっかけをひっかけて庭に出て首を動かす。

「あった!」

 幸いすぐに目的のそれが見つかったわたしは屈みこんで、ひとつとるとふりかえる。わたしを廊下まで追いかけてきた李介様に笑いかける。

「すぐに手当しますね」

「なにをしてるんですか」

「なにって、ヨモギ、とり?」

「……ヨモギ」

「これを潰した汁は切り傷にいいんですよ。春先だからあってよかった……!」

 急いで台所へと走る。ここの台所は右手に裏庭に出られる戸がついた古い作りの土間なので、つっかけを履いて降りなくていけないのだ。この段差がなかなか高いのでわたしは毎回、座ってつっかけを履かなくてはいけない。

 戸の横に水組み、洗い場、一番奥にコンロ――これだけは最新のものらしく、ボタン一つで火が出るのでありがたい。さらにそのコンロの下には焼くためのグリルもついている。洗い場の上にはフライパンやらを置くための棚があるので収納場所がいっぱい。土間には小さなテーブルと丸椅子が二つ。テーブルの下を見ると、寒さ対策の小型のストーブもあるのでいろいろと至れり尽くせり。冷蔵庫は左手奥にちょこんと置かれている。

 わたしは洗い場の旧式の汲み取りを上から下へとさげる。何度も上下するとようやく水が出るという仕組みだ。

 いろいろと便利なものは多いけど、この家の台所で気に入っているのが、井戸の水をくみ上げるポンプ式の汲み取り。多少力はいるが、わたしの手にはよくなじむ。

 冷たい水がすぐに出てきたのにヨモギを水洗いをして、水を拭き取ると、あとはこれをすり鉢でさっさとすりつぶして出てきた汁を持っていたハンカチにひたして、はい、出来上がり。

 李介様が不思議そうにしているのにわたしは近づいて、右手をとって甲に巻く。

「はい。手を見せてください。出来ましたよ。これで擦り傷はよくなりますからね」

 まじまじと視線を向けられる。

「本当は葉っぱとかあれば絆創膏のかわりになるんですが、そこまでするほどでもないし、一日ほっておいたらなおりますよ」

「……いきなりなのでびっくりしました」

「なにがでしょうか?」

「庭に飛び出したら、今度は台所に飛び込んだ。ちなみに救急箱は冷蔵庫の横の棚の上です」

 説明されてわたしは黙りこくった。

 わたしの身長では届かないところにある。わたしはむぅとした顔で李介様を生意気にも睨んだ。

「そんなところに隠しては、見つけれません」

 決してそれは私がちびだからじゃない。棚が高すぎるのだ。猿のようによじのぼれとおっしゃるのか?

「私がとろうとしたのをあなたが飛び出すから」

「妻として、夫の怪我をなおすのは大事なことです」

 わたしは腰に手をあてて言い返す。

「あと、お出しください」

 手を差し出すと、李介様が小首を傾げたまま手を重ねてきた。わたしは眉を寄せて、李介様の手を両手で包む。

 大きい手だ。かたい指先に、ぺんだこがある。

 ん、まてまて。なにをしているのだろうとしばし悩んでしまう。わたしもそうだが李介様も何をしているんだろうという顔である。

「ああもうちがいます! 手袋! 繕いをしますから」

「あれは」

「繕いものは得意なんですよ! ほら、出してくださいませ、そのあとごはんを食べてください。ほらほら」

 わたしが背中を押すと、李介様が何か反論しようとするがその前にわたしは風呂を焚く仕事があるので、すたこらさっさと逃げた。

 どうも話し合うとぼろが出てしまいそうだ。

 風呂の支度をし終えて居間に戻ると、ちゃんと破けた手袋を李介様が持って来てくれていた。感心である。この人は押せ押せに弱いらしい。手袋を受け取って、すぐに夕飯だ。

「先に食べててくださいね。わたしは繕いものをしてから」

 ぐう。

 腹が鳴ってしまった。

 体は素直である。わたしは両手でおなかを抑えて、真っ赤になる。

「ぷ。ははは」

 笑われた。

 声を出して、本当に笑われてしまった。とうとう我慢できなかったと言いたげに、発作のように李介様が声をあげて笑うのにわたしはむぅと頬を膨らませる。

「笑わないでください」

「すいません。一緒に、食べましょう」

「むぅ」

 つんつんと李介様の指先がわたしの頬をつつく。噛んでやろうかしら、と思ったがまたおなかが鳴りそうなのでわたしは素直に食事をとることにした。

 冷えているからまずい、わけではない。今度のごはんは水が少なくてぱさぱさしている。魚はかりかりしすぎているし、味噌汁はまぁ妥協できる。わたしが食べながらうーんと唸っているのに李介様の視線を感じる。おっと、いけない。

 すました顔で夕飯を平らげたあと――ちゃんと残さず食べてくれるのはお優しいことだ。

 片付けを台所の流しにおいといてわたしはせっせっと繕い物をはじめた。

 幸いなことに今回は聞かなくても針と糸の場所はわかった。――試しに救急箱がある棚を見たら、その横にあったのだ。

 木製の細長い、御裁縫いれ。蓋はいくつもの丸い木が連なったもので、籠は留め金をのけると、ざらざらと音をたてて零れるように花開く作りをしている。それも二段式で、上に針と糸。下には予備のボタンがある。なんともかわいらしい箱から糸を取り出してさっさと縫ってしまう。この程度なら五分もかからない。

「はい。出来ましたよ」

 居間でわたしが作業をするのを物珍しげに見つめる李介様にわたしは声をかけた。差し出した手袋を、李介様は興味深そうに手にとっている。

「……ありがとうございます。きれいなもんですね」

「昔から繕うのは得意だったんです。よくものが破けてしまうから」

「ほぉ」

 縫い目を確認するように指でなぞっている様子にわたしは口元がゆるむのがわかった。

「寝る準備をしましょうか?」

「いえ。仕事を持ち帰っているので、先に休んでいてください」

「……けど」

 視線を向けても、どうもこの人の心が読めない。

 わたしは言い返す言葉も、縋る言葉もなく、頷いた。

 こういうとき、もどかしい。


 人というものについて思い悩んだせいで、つい眠りが浅かったらしい。

 いい匂いがして目が覚めた。

 なんだろう。この、空腹に響く匂いは。

 くんくんと鼻を鳴らして家の奥に行くと、李介様の書斎まできてしまった。そっと戸を開けて、あ――とわたしは声をあげた。

「え、あ、起きて!」

「李介様! それ!」

「あ……」

 裏切りだ。

 これはいただけない。

 深夜におうどんとは……わたしは、李介様の横に腰かける。

 黙ってジト目で睨む。

 わたしの夕飯はそこそこ食べて、深夜にうんどを作ってお食べになるとは!

「……た、たべますか」

「そんなことでわたしが許すと」

「たまごの黄身もつけます」

「……小皿をもってきます」

 許してしまった。

 空腹はいけない。


 小皿におうどんをいれてもらい、すすると、つるっとしておいしい。深夜に食べるというのがこんなにもおいしいとは思わなかった。

「お仕事途中ですか?」

 この部屋は本がいっぱいの本棚と文机がある。今、わたしと李介様は部屋にある段ボールを一つ横にして、そこで二人で向き合い、うどんを食べている。お皿と一緒に座布団をもって来てよかった。

 ちらりと見上げると、文机のうえにはいっぱい紙がある。

「答案ですよ。生徒の、これをつけたら寝ようと思って」

「そして、おなかがすいてうどんを作り、あまつさえわたしに見つかった、と」

「……」

 沈黙が雄弁な答えである。

 わたしは、ふふと笑ってしまった。わたしはおかげでおいしいうどんを食べてるからいいのだけども。ああ、あたたかくておいしい。胃に染み渡るあたたかさだ。

「あ、けど、先生、なんですか」

「そうですが」

 李介様が躊躇う顔をする。

「どんなせ……あ」

 わたしも自分が失敗したことに気が付いた。

 李介様と「小日向さん」は、どれくらい夫婦だったのだろう。その年月を知らずに、つい阿呆な質問をしてしまった。

 李介様と目があった。

 口を開こうとするのにわたしは慌てて言い返した。

「ごちそうさまです。卵が大変おいしゅうございました! 片付けをしてまいります。李介様もはやく寝屋にきてくださいね!」

「え、あ」

 もう食べてしまった鍋と皿を奪ってわたしはその場から逃亡した。

 あぶない、あぶない。

 台所の流しに向かうと、くすくすと笑い声が聞こえてきた。わたしは、むっと暗闇の端を睨みつけた。もう、一日中、ずっと笑っている。人が真剣だというのに! 失礼しちゃう。汲み取りに手をおいて水を勢いよく出す。

 ――そんなことしてもだめだぁよ

 ――だめだよぉ

 ――あいつはね

 ――とうねんぼくー

 舌たらずな声に対してわたしは無視をきめこんだ。


「……どうしているんですか?」

 うとうとしていたわたしの頭のうえから困惑した声が落ちてきた。はて、と思って薄目を開けると、李介様が立っていた。

 どうしてか困っている。わたしはまたなにか失敗してしまったのだろうか? けど、寝室にはいってお布団を敷いて、眠っているだけなのに? どうしていると言われたら妻は寝ないものなのだろうか? いやいや、そんなことはないはず。

 だってお布団は一つしかなくて、ここは寝室で。だから寝ていたのだけども。

「李介しゃま、寒いです」

 お布団をひっぺがされたままでは風邪をひいてしまう。わたしが震えていると李介様が慌てて、布団をかけてくれた。寒さが和らいで、わたしは、ほっとして、片腕をのばして李介様の腕をとる。どうして困った顔をしてお布団の外にいるのかがわたしにはわからない。こんなにも夜は寒いのに。

「はやく、はいってきてくださいませ」

「いえ、あの」

「ほら、はやく」

 わたしが引っ張ると李介様がお布団のなかにはいってきた。お布団一枚だと大変狭いが、くっついてしまえば問題はない。

 そうか、この夫婦はこうしてくっついて寝ていたのか。これはなかなかにあたたかい。冷えた李介様の体にぴっとりとくっつく。足先が冷えているので、わたしが足を絡めると小さく一度震えられた。

「……あなたは」

「め、ですよ」

 光のない宵闇のなか、わたしは言い返す。

 とろんと、溶けた卵の黄身みたいにやわらかい夜のなかでわたしは李介様と視線を交わす。

 唇に指をあてて黙らせる。

「おやすみなさい」

 わたしは囁くように告げ、ゆっくりと指を離して次の言葉を待った。

「……おやすみなさい、小日向さん」

「はい。おやすみなさい。李介様」

 二人で言葉を重ね合わせて、満足して、目を閉じる。


 この人はたぶんこう言いたかったのだ。

 ――あなたは妻ではない

 ――何者ですか

 と。

 どうやら、昨日の酒のことを曖昧にしかお覚えていないらしい。なんともかわいらしいこと。

 ただ酩酊ゆえに忘却していようとも、果たしてもらおう。

  いいや、果たしてもらわなくては困る。わたしとの契約を。

 それまでわたしはこの人の妻だ。

 嘘も偽りもありはしない。今、わたしは李介様の「小日向さん」だ。

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