家とちび妖怪 1
くすくすと笑い声がわたしの耳についてくる。わたしのことをバカにしているのだ、ということぐらいわかる。
くすくす、きゃきゃと可愛らしいけれど苛立ちを生むその笑い声をわたしは黙って聞き流す。しかし。着物を着ようとして帯に手を伸ばしたら、ない。どこ、どこに消えたの? 慌てて探す。顔をあげると、机の上に置いてある。悪戯された。もう、腹が立つ!
「むきぃー!」
わたしは声をあげて怒鳴った。
すると、くすくすも、きゃきゃもぴたりと止む。
わたしがむすっとしていると、しばらく静かだが、どこからかくすくす、きゃきゃと笑い声が広がってくる。ああ、もう、ああもう。腹が立つ。
腹立しいことこのうえない!
どうせわたしは、失敗ばかり奥さんですよ、だ!
今朝は大失敗をしてしまった。お布団があまりにもあたたかで、いつまでもいつまでもここにくるまっていたいと思ってしまったのだ。
そうして目覚めたとき、横にいるはずの李介様がいなくて、窓から太陽の日が差している。
こ、これは、いけない!
わたしの絶望と混乱がさて誰にわかるだろうか? 慌てて起き上がり、着物を着てお布団を押入れにいれようとして、急ぎすぎて両手が塞がり、このままでは開けられないので行儀悪く片足で蹴ったとき
「朝ごはんができ」
李介様の声が背に聞こえた。
あわわわ。
ちらりと視線を見せると、確実にわたしの粗相を見られた。
細い目をさらに細めて、真剣な顔をして
「あまり、行儀の悪いことはしないように」
その一言とともに去られた。
わたしは、そのままその場に崩れてしまった。ああああ。見られたくないものを李介様に見られてしまった。泣きそうである。
くすくすと笑い声が聞こえてくる。
――みられてやんのー
――わらわれてるー
うるさい声である。
わたしはううと唸りながらお布団を抱えて、押入れにいれようとしてまた襖が閉まっていることに気が付いた。
悪戯された!
むきぃーと唸りながら、今度はもう見られないだろうとまた片足で開けてしまった。
そのとき、である。
「あと、今日はおそば……」
なぜ、また来るのですか、李介様!
「ゆっくり支度してください」
ああ。もう!
それだけ言って去る御姿を見てわたしは自分の迂闊さと情けなさに唸り声をあげた。おのれ!
朝食とき、わたしは自分がやらかしてしまったので大変小さく、縮み上がり、出来立てのおいしいごはんを食べた。見ているだけで辛くなる。つやつやの白いご飯は輝く石のようで、噛めば噛むほどに甘味が増し、味噌汁は程よい辛さでわかめとお豆腐が踊る。まかれた卵はさくりと柔らかく、ふっくらとした味わいで、砂糖をいれたのかほどよく甘い。鮭は皮はかりかりで、中身はふんわり。脂ののった皮の裏面の柔らかな脂がとってもおいしいこと。
これ、全部、李介様が作ったんだけどね。
わ、わたしが作ったものよりも数倍、いや千倍もおいしいではないか。
李介様は無言でもぐもぐ食べてらっしゃる。ちらりともこちらを見ない。
惨めでおなかがいっぱいになりそうだが、それだけでは空腹に耐えられないのでわたしはひたすらに食べる。おいしい。李介様のごはん、おいしい。悔しい。ああ、たくわんはきれいに切れて仲良し兄弟たちは一人、また一人とひとの口のなかに旅立つ、兄妹を見送っている。ぽりぽり、さくさくだ。
「ごちそうさまです」
李介様が手をあわせて、食器を片付けようとする。
片付けぐらいわたしだって出来る。しなくちゃ。
がっと残りのごはんを口のなかに駆け込んで、味噌汁をすすって、喉につまりそうになるのをぽんぽんと胸を叩いて、ごっくん。
御魚もぱくり、たくわんと、卵焼きもささーと口に流し込む。
「うっ……! むぐぅ。お、おかたづけはわたしがしますね! しますよっ。う、ごぼ」
「大丈夫ですか。そんなに急いで食べるからっ」
喉に石を詰め込んだような息苦しさにわたしがばたばたしていると李介様が背中をぽんぽんと叩いてくれた。
慌ててお茶を飲み欲して、はぁーと一息。
「片付けは私がしますね」
「あ、あ、わたし、わたしが」
「今動いたら今度はこけそうだ」
反論できない。
李介様がさっさと食器をもっていくのに、わたしは置いていかれてしまった。
――ぷー
――くすくす
――ばかだ
――まぬけだ
笑い声がまた耳に響いてくる。
わたしは、キッと部屋の隅っこを睨みつける。すると、小さなそいつらはびくりっと震えるが、ぷぷぷっと押し殺した声で笑っている。
小鬼である。
驚くことはない、普通の家のどこにだっているやつらだ。緑や青といった色をしたそいつらは人の掌くらいのサイズで、角をはやして、腰に布だけ。本当に人が考える典型的な鬼だ。名は家鳴。家について板などをきしませる。害はないが、こいつらは大変な人好きの悪戯好きなうえ噂も大好きだ。その家鳴と一緒に黒い綿――こいつは黒薄。埃を生み出す妖怪である。家のなかに埃や汚れが自然と生まれるのはこいつらのせいだ。そのうえ、小さな柴犬のような姿の天井嘗めとブチ猫のような姿の垢嘗めまでいる。こいつらは天井などの垢を嘗めて、きれいにする。が、偶に嘗めすぎてシミを作ったりする間抜けものである。
――だって、おまえ、ばかじゃもん
彼らの代表格のようながんばり入道――こいつも小さい。手のひらサイズほどの布を纏った、かえるの顔。便所なんぞをのぞいて、冷たい風をおくる不届きものである。
――りすけのせわするって
――されてる
――くすくす
――まぬけだ
――おおまぬけ
また笑っている。
「お前らが目覚まし時計を止めなきゃちゃんと」
わたしが言い返すと、このちびっこお家妖怪集団はきょとんとした顔で顔を見合わせて、ふるふると首を横に振った。
――ちがうもん
――あれ、りすけだもん
――目がめさたとき、りすけ、とめてたもん
はう。
なんていうことだ。
李介様が犯人だなんて! いや、ちがう、これは、目覚ましなんぞなくても起きろというわたしへの試練なのか? 無言の強制? うう。そんなことされたらわたし、起きれない。けれどよい妻とは目覚まし時計なんてなくても目覚めるものなのか? お布団のあのあたたかい誘惑から自力でどう目覚めればよいのだ?
わたしは思わず頭を抱えた。
――おまえ、おれらみえる?
――みえるのか、みえるのか?
ぞろぞろと寄ってきて、囲まれた。
このままこいつらに攻撃をされたらひとたまりもない。
「見えるわよ。普通は見えないの?」
わたしが聞き返すと、またお家妖怪たちは顔を見合わせた。
――ふつうはみえない
――わからない
――さわれない
つらつらと彼らが語るのに、うむぅとわたしは唸った。だったら、見えないふりをしなくちゃいけない。
だって、それが普通の奥さん、だろうから。
無視だ。無視。こいつらのことは見えない、見えないで通そう。
――ねぇねぇ
――おーい
――むしすんなー
無視だ。無視。
――ばかー
――ぶすー
だれが、ばかだ。だれがブスだ。お前らぁ
――ちびー
ぷっちん。わたしのなかの我慢が限界を迎えた。誰がちびだ。わたしはちびじゃない。わたしはただ小柄なだけだ。これは日本人の平均的な大きさなのだ。
「すいません、台所に」
「うるさい、だまれ!」
はっ
わたしの声と重なったのは、ちょうど戸を開けた李介様。
目が合う。
互いに無言である。
やらかしてしまったわたしはあわあわと震えるのに、李介様は黙ったまま。あ、ああ。
ちがう、ちがうのだ。
李介様に怒鳴ったんじゃない。このちび妖怪集団があまりにもうるさくて、しつこくて、わたしの気にしていることを口にするから。
そっと、李介様が戸を閉める。
あ、あああああ。李介様ぁ!
わたしはその場に突っ伏した。
ど、どうしよう。李介様を怒鳴っちゃった。うるさいって言っちゃった。あ、あああ。
――ふるえてるー
――ひんしのさかなみたいだ
――ぷぷぷ
わたしを囲んでちび妖怪どもが笑っている。おのれ、貴様ぁ、お前らのせいでお前らのせいで。
「いいかげんにして! うるさいのよ、このばかばかばか! もうしつこいの、きらい!」
「あの」
戸が開く音とほぼ同時だった。
わたしが怒りに満ちた形相でちび妖怪どもを睨みつけたのは
そして戸から顔を出した李介様と目があった。
またしても沈黙。
あ、あわわわ。李介様!
ちが、ちがうんです。ばかっていうのも、うるさいのも、しつこのもこのちび妖怪どもであって李介様ではないのです。
李介様にこいつらちび妖怪どもは見えないから、なんて言えばいいのだろう? 埃? 太陽がまぶしい? ち、ちがう、これは、だめだ。なんて言い訳をしたらいいのだ?
「……いってきます」
李介様がそれだけ告げる。先ほどのわたしの失言に対しての咎めも、御怒りの言葉もない。
そっと、戸が閉まった。
わたしはそのまま畳に倒れた。
本当に、心の底から、折れた。ど、どうしよう。李介様になんていうことを口にしたのだろう。今すぐに追いかけいけば間に合う。けど言い訳は? ちび妖怪どものことはおいといても。ああ、ごめんなさいって言わなくちゃ。
わたしは慌てて立ち上がり、戸を勢い良く開けて走り出す。
李介様、待ってまってください。ちがうんですっ。
はしたないが足を出して廊下を駆けて玄関まで行く。ちょうど玄関が閉まった。まだ間に合う!
――えいや
あ。
足取り――一つ目のちび妖怪がわたしの足をとった。こいつは家にあがるとき、足をとってこけさせるという地味な妖怪である。
そいつにものの見事にわたしはこけさせられた。
頭から玄関の床に倒れた。
額も顔も痛い。
ぷ、ぷぷぷ。
くすくす。
笑い声がするのにわたしは起き上がり、玄関の戸を見たが……ああ、無常。李介様はもう行かれてしまった。
「う、うううっ! おのれ、おのれ、この妖怪どもがぁ!」
わたしは完全に怒り心頭である。
額の痛みも気にせず、玄関の横に置いてある箒を手にとる。しっかり握りしめて、笑っているちび妖怪たちを見下ろすと、思いっきり掃いた。
あーーー
わーーー
と声がするが情け無用である。こいつらは叩きだす! 箒で掃いて、掃いて、掃いて、ころころと転がるちび妖怪たちをまとめて雨窓を開けて庭に叩きだす。
みたか! このちびども!
はぁはぁと肩で息をするわたしは、そこで、なにか額から鼻先に冷たいものが流れていることに気が付いた。
はて。
そっと手で触れると、ぬるりとしているので見れば――血だ。
「あうっ!」
自分でも情けない声を零して、そのままずるずると床に座り込んだ。ああ、頭が痛いし、ずきずきする。
「ううっ」
眩暈がひどい。家のなかで行き倒れるしかない。わたしはそのまま仰向けに倒れて、天井を睨みつける。う、うう、李介様にひどいことを申してしまった。だめだ、力が出ない。ああ、人の体とは本当に面倒。
情けなさや悔しさに胃がちくちくと痛む。ぽろぽろと瞳から水が溢れる。まだ二日目なのに、わたしは心が折れてしまいそうだ。どうしよう、かみさま。
息が苦しい。
――いたい?
――くるしい?
――泣くなよ、へんてこ
などと周りにちび妖怪たちが集まって心配そうな目でわたしのことを見てきた。わたしは洟をすすり、こくんと頷く。
「いたいの、とっても」
ちび妖怪たちは顔を見合わせると、あわあわとどこかへと去っていった。
なんだろう、なにしてるんだろうとぼんやりと沈んでいく思考で気にかけても、いろんなものが頭のなかに転がってまとまらない。
李介様にとんでもないことをしてしまった。このままでは家からほっぽりだされてしまうかもしれない。すんすんと涙がこぼれていく。
ぺちぺちと頬を叩かれて、うっとおしいと手をふると、またぺちぺちされる。なんなんのだ。李介様に嫌われたかもしれなくて、落ち込むことに忙しいのに。このまま飢えて死んでやろうと思っているのに。
きっと顔をあげると、ぱっと目の前に花が咲いた。鮮やかな黄色、緑色、赤色……ぼんやりと見つめていると、金平糖が踊っている。
――これ
――たべる
「いいの?」
妖怪たちが頷くのに、わたしは手をのばして一口ぱくりと食べる。かたいそれを歯で噛むと、ぱりんと世界が壊れるような音がする。甘い。
ほっこりと口のなかに幸せが滲む。砂糖の味を噛み締めて、もうひとつ、もうひとつ、ともらえるだけ口のなかにいれて、舌で転がして、歯で噛む。
味わっていると、ぴたり、と額になにかがついた。見ると、ちび一反木綿が自分の布でわたしの血を拭ってくれている。ちび妖怪たちが一生懸命、両手で運んできた絆創膏や消毒液を差し出してわたしはじっと見つめる。
――つけろよ
――ばいきんこわいぞ
――けがいたい?
口々に心配されるのにわたしは、ゆっくりと体を起こす。
「ううん。へいき、ありがとう」
座ってわたしは、持ってきてくれたそれらを手に居間に行くと、鏡がないことに気が付いた。困った、と思うと、ちび妖怪たちが三体くらいよろよろとよろけながらどこからか手鏡をもってきてくれた。
それを受け取り、机に置いて額を見る。思ったよりも、きれいに切れている。それを消毒して、絆創膏をはって治療はおわり。
わたしがほっと一息ついていると、妖怪たちがじっと見つめてくる。
わたしもじろりと見る。
――おこってる?
――箒ではいちゃう?
――すてる?
――や、やめてくれよぉ、おいらたち、叩きだされたらもういくところないんだもん
――よい妖怪になるからぁ
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