奥さんの仕事一日目 1
冷たく、つんと澄ました空気のなかに、微かに甘い匂いがした。
寒さの対策に締め切った雨戸を開けると、少しだけ酸味のある甘さが鼻について、どこだろうと首を動かす。
庭の端にぷっくりと膨れた紅色の蕾が見えた。梅だ。
ああ、春だ。
目と舌の上で甘さを味わっていると、寒さに体が震えた。いけない、とわたしは急いで雨戸を開いてしっかりと硝子窓を閉める。こうすると照り付ける日差しで家のなかがあたたかくなる。
この家は和洋がちょうど中間的に割ったような家で、ときどきどうしてこんなところに洋風なものがあるのだろう? と疑問に思うが、たぶん両方のいいところだけを掴み上げて練りこんで作ろうと思ったのだろう。
家の節々に当時の設計者と、さらにはあれこれと手をくわえてきた人たちの葛藤やら悩みやらが見える。まんざら悪くはないとわたしは思いながら廊下を歩いて寝室の戸を開ける。お布団がひとつこんもりと盛っているのに近づくと手をのばして、ゆるゆると押し揺らす。
「おはようございます。起きてくださいまし」
「ん……」
布団から顔を出した旦那様にわたしは笑いかける。
「おはようございます。李介様」
「……おはようございます」
太くて低く、少しばかり寝ぼけた李介様のお返事にわたしはにこりと笑った。
閉じていた目が少しばかり眩しそうに開いてわたしのことを見る。闇の一番深いところをすくいあげたような瞳の色だ。
歳相応の張りを失った肌は、しかし男らしく精悍さが垣間見え、それによく研いだ墨のような黒髪は短く切り上げて、清潔さと凛々しさがある。
「朝ごはん、作りましたよ。食べてください」
「……はい」
掠れた声で返事をしながら李介様が起き上がる。座っていても小柄なわたしが見上げなくてはいけないくらい大きい。
ふぅと息を吐いた李介様が沈痛な面持ちで、大きな右手で額を抑える。
「どこか辛いのですか? お水もってきましょうか?」
「いえ。っう……頭が」
言いながらしんどそうに頭を押さえて、軽くふる李介様。ああ、ほら、ね。
「昨日たらふく酒を飲みましたからね、そのせいでしょうとも」
「酒を、ええ、そうですね、酒を飲みましたが……屋台で、私は」
「二日酔いには、ええっと、お薬がきくんですよね? 探しましょうか? あ、けど、朝ですよ。ごはんを食べてお仕事に行かないといけません」
李介様がわたしにもの言いたげな視線を向けてくる。わたしははて、なにかおかしいなことを口にしただろうかと首を傾げた。
「あなたは」
「あなたの妻じゃないですか? なにもおかしなことはございませんよ」
わたしがそう口にすると李介様の眉間の皺が深くなる。
「小日向さん……?」
わたしはその様子をじっと見つめて、つい悪戯心が芽生えてしまい、人差し指でその皺をつついてしまった。
「ふふ、怖い顔になってしまいますよ」
「……」
視線があう。
わたしのことを探ろうしている目に、わたしは笑いかける。
そんなわたしの耳に、ぴーっと薬缶のけたたましい音が聞こえてきた。あ、やだ。火にかけっぱなしにしていたんだった。
慌てて飛び立つ。
「お湯が沸騰しちゃう! 李介様、ほら、はやく起きて着替えてください。あ、待ってください。手伝ったほうがいいですか? 待っていてくださいね、一寸だけ! お湯ぅ~!」
わたしは着物の端を掴んでとたとたと廊下を走る。後ろで李介様の頭痛に苦しむ唸り声が聞こえてきた、気がした。ああ、やっちゃった。ごめんなさい、李介様! 心の中で必死にお詫びしながらわたしは、急いで台所に走った。
李介様が目覚めたときに、本当はあつあつの美味しい緑茶を飲んでもらおうと計画していたわたしの予定は見事に潰えた。薬缶があつくて持ち上げられないので火を消してしばしば待つ。その間に李介様の着替えのお手伝いをすればいいんだと思って寝室に戻ると、そこはすでもの抜けの殻になっていた。あら、まぁ。
どこだろうと二人には広い家のなかを探れば奥の部屋で着替えた李介様と遭遇した。
カーキ色の糊のきいたぱりっとした軍服に、片手には帽子。鍛え上げられた腕には達筆な文字で憲兵と書かれた腕章。白い手袋をされて凛々しい顔がますます精悍さを醸し出して伊達男ぷりを発揮している。
「おはようございます」
「はい。おはようございます」
手伝えなかった。
手伝うと伝えたのに、きっちりとお仕事の洋服をきていらっしゃる。寸分の隙もないのにわたしは恨みがましい視線を向けた。
片付けもきっちりしていらっしゃるようだ。なにも残っていない。
ぷくりと頬を膨らませると、李介様の視線が刺さる。
「……朝ごはんは出来ていますよ」
声をかけてみると、李介様が頷いた。
よし、ここでちゃんと妻としてお役に立てるはず。
意気込んだのはよいのだが、どうにもわたしには家事能力が欠如しているようだ。
魚は焦げてしまったし、あ、けど、それは表面だけ。中身は半焼きだった。
ごはんはべっちょりと水気が多い。おかゆにはなってないけれど、どうもおかゆぽい。
みそ汁は口に含んだら李介様が軽くむせこんだ。辛かったらしい。わたしは、こっそりと自分の味噌汁は端っこに置いた。
ダシ巻たまごだけはなんとか巻けたが、塩と砂糖を間違えたのは痛恨の失敗である。
そのうえ、たくわんがうまく切れていなくて一個つまむと、ずらぁーと全部がついてきてしまった。お前たちは、お手を繋いだ仲良し兄弟かという連なりである。
ああ、恥ずかしい。
頑張ったつもりであるが、どうもこうささやかな失敗が目立っている。それを李介様は無言で受け止めて食べている。
うう、情けない。
わたしは連なったたくわんをぽりぽりと一個、二個と口に含んで食べていく。もう仕方ないので仲良し兄弟をまとめて食べてしまうしかない。
「あの、お口に合わなければ、残してくださいね」
「いえ。……弁当もこんなかんじですか」
はて。
弁当と言われてわたしは目を瞬かせる。何を言われたのか理解できなかった。わたしがよくわからないという顔をしたので李介様は眉間に皺を寄せて難しい顔をされている。
たっぷり時間をかけて思考したわたしは悟った。お仕事には弁当をもっていくのか!
「え、あ、まっ、まってください。お弁当? あ、ど、どうしよう用意してなくて」
「結構です。学食がありますから」
「けど、いそげ……」
わたしはそこで沈黙した。
「ごめんなさい」
「大丈夫ですよ」
李介様の言葉の意味をわたしは受け止めきれず、伺いみる。なにがどう大丈夫なのだろうか。
わたしの失敗をなんとか平らげると李介様がお仕事に向かう時間になった。
玄関まで見送りに行くわたしは火つけ石をかんかんと鳴らす。これで災いを払いのけるのだ。ちゃんと台所にあったものをもってきたのだ。
李介様が少しばかり物珍しい顔をするのでわたしは小首を傾げた。
「あ、ああそうですね、夫婦とは口吸いをして見送るんですよね? どうぞ!」
わたしが笑って目を閉じて見上げる。
頭にぽんと手が落ちてきた。
はて。わたしが目を開けると、李介様の困惑している目と視線があった。ああまたなにかしら失敗したようだ。
「いってらしゃいませ」
手をふって見送れば、わたしはどっと疲れて肩を落とした。
夫婦というものはなんとも難しい。
一日、妻の役目をやろうとしてわたしは疲れ果ててしまった。
どうもわたしにはこの役割は中々に難しいらしく。
掃除をしようとして力加減を誤ってふすまを壊しかけてしまい、悲鳴をあげ、洗濯しようとしてうまく洗濯機が動かずに水浸しで慌てて絞って干せば、これもまたうまくいかず皺になってしまう。なんなのだ。わたしが懸命になればなるほどに嘲笑うように失敗する。部屋のあちこちでくすくすと笑う声が聞こえてきてわたしはなおのこと憂鬱となってしまった。笑いたければ笑えばいい。
せめて今朝の失敗を取り戻そうと夕飯は丁重に作った。然し、李介様はなかなか戻らない。
早く戻って来るとことを心待ちにしていたが、ついテーブルに突っ伏してしまった。今日はひどく疲れ果てた。
とろとろとあたたかい湯につかる夢を見ていると、肩を揺らされた。薄目を開ければ李介様の顔があった。
「あ、りすけさま、……おはようございます? え、や、ちがいますよね? やだ、お出迎えもせずに」
「寝ていたんですか」
困惑した声にわたしは頷く。
「はい。眠くて」
「そうですか」
ほっと安堵の声にわたしは目をぱちぱちさせる。
見れば部屋はどっぷりと闇色に染まっていて、もう遅い時間だとわかる。かなりの時間をわたしは夢の中で過ごしていたようだ。なんたる失敗か。
本当はほどよい時間に灯をつけて、明るい家のなかに李介様を出迎えようと考えていたのに。
また失敗してしまったことにわたしは両手で顔を覆いたくなった。
なんたることか。
出迎える以前に心配までさせてしまった。
李介が部屋の灯をつけて、ぱっと明るくなったのにわたしは驚いて、目をぱちぱちさせる。テーブルには用意したが、冷えてしまったごはん。憂鬱に頭を垂らしてしまう。
「えっと、李介様、ごはんの用意はしてるんですが冷たいし、お風呂も、まだ」
「構いませんよ」
やんわりと声をかけられてわたしは下唇を噛む。
「……けど、あ、すぐにあたためて、お着換えの手伝いをっ」
「疲れているなら、休んでいたほうが」
優しい声で気遣われる。
「いいえ。ぜんぜん、疲れてません。お昼寝……いえ、夕寝をしたので平気です」
言い返しながらわたしは、なんとも情けのない顔をしてしまった。
妻としての仕事をほぼ放棄してしまった。あまつさえ、仕事終わりの夫に起こされて、こんなことを口にしている。
わたしが世にも情けのない顔をしているのを李介様が見てどう思っているのかはわからないが、着替えの手伝いは許してくれるらしく、どうぞ、と声があがった。しょんぼりとしていたわたしは、ぱっと顔をあげて李介様を見る。
「よいのですか、ふふ、よかった。朝は出来なかったので、うんとがんばりますね」
「がんばって着替えるんですか?」
「む……帯をこう、ぐぅと引っ張りましょうか」
「苦しくて呻きますよ、それだと」
李介様が苦笑いする横でわたしは、とたとたと急ぎ足でついていきながら言い返す。ああ、いけない、妻というやつは夫の影を踏まず、である。もっと距離をとって歩くべきかしら? けど、李介様はわたしよりも大きい方だから、どんなにがんばってもすぐに離されてしまう。
部屋の前まできたのに、わたしは、あ、と気が付いた。
戸にかけた右手の、白い手袋が破けている。
そこから見える手の甲が赤くなっている。
「李介様、手」
「え?」
「赤いですよ、それに破けてますよ」
何気なく、手を伸ばした瞬間、ぱんと空気に弾ける音が響いた。
伸ばした右手の痛みにわたしは茫然とする
手を弾かれたと理解するのにたっぷり一分。
わたしと李介様は互いに無言を守った。
わたしはちらりと李介様を見る。李介様の糸のように細い目が、少し見開かれて失敗した子供みたいに困惑している。
痛む手をつい無意識に左手で撫でてしまった。それがいけなかった。
「……すいません、服は自分で着替えますから」
「あ、あの、けど」
開いた戸のなかに李介様が逃げていく。追いかけようとするが、その前にぴしゃりと閉められてしまった。
失敗した。
とんでもなく失敗してしまった。
李介様の触れてはいけないところに不用意にも、思いっきり触れてしまった、気がする。
逃げられてしまった。
たとえるならどら猫が魚をとるのを目撃したので捕まえようとして、うっかり音をたててしまったような心境だ。猫相手なら急いで追いかければいいのだけど、李介様相手にはそれもできない。
ひりひりと右手が痛む。
春の夜はまだ冷えていて、足先も、指先も痛い。
どうしようか。
寒いから居間に戻ろうか。逃げ込んだ部屋の戸を開けるのは簡単だけど、そんなことをしたら猫はもっと逃げていくのもわかる。
人間ってこういうところが本当に面倒だわ。
わたしはため息をついた。
ちらりと廊下の窓から外を伺い見ると、庭の樹がきれい。
この庭には梅があるなら桜は? 春になったら咲く花はあるのかしら。ぼんやりとそんなことを考えていると、戸が開く音がした。
「……どうして」
「あ、あの、庭を見ていて、それで」
自分が思っていたよりも、ずいぶんと時間が経過したようだ。それほどわたしは、放心していたらしい。
着替え終わった李介様の顔を見ていると、目からぽろりと涙が零れた。
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