第2話 吸血鬼と蕎麦を食う少女

 第一章 灰


「ナシロ先輩、お待たせしましたっ」


 校門に寄りかかり一人でまっていた少年のもとに小走りでひとりの少女がやってきた。

 息を弾ませスカートを揺らし、深く息を吐く口を手で覆い隠す。蒼みがかった黒髪が揺れ、よく見れば指の隙間からは二本の牙が覗いている。

 ややあって、彼女はすこし幼い笑みをうかべた。


「ほとんど待ってないよ。帰ろっか、ウリハさん」


「はいっ」


 夏休みの真ん中、登校日を終え、明日からまた長期休みにもどっていく。

 下校するほかの生徒から多少の視線をあつめながらも、一歳ちがいの少年少女は、並んで校門をはなれていった。

 夏の日差しはまだ強く、下校時間でも容赦なく太陽は輝き、ジリジリと肌を熱してくる。


「日焼けしちゃいそうです」


「ウリハさん、白いから」


 手で顔を扇ぎ焼けそうだとは言いつつも、少女――ウリハに対策している様子はなかった。

 袖もスカート丈も特別長いわけではなく、日焼け止めもおそらくは塗っていないだろう。

 人よりも少しだけ眩しく感じる日光に目をほそめながら、二人は横断歩道をわたり、車の行き交う大通りにでた。

 ここは夕暮市ゆうぐれし

 ある迷信を元に、輪中のように人工河川に囲まれた、比較的新しい市である。

 迷信は噂の域を出ず、作られた河川は当初の意味を発揮せず、市の外へつづく道は、東西南北から川をまたいで伸びる四本の路線のみ。不便さから一般住民から不満も出たがそれも昔の話。

 関東の外れ。都会ではないが、田舎でもない。

 町の中心にちかいこの場所ならば、ドミノのように短い間隔でならべられたコンビニや、影を落とす高い建物も多く目についた。


「先輩、聞いてます?」


「もちろん。明日から夏休み後半だって話だよね」


 足を止め、年下の友人がいぶかしげに顔を覗きこんでくる。

 考え事をしながらも聞いていたはなしの答えを淀みなく返したナシロは、続けて困ったように笑って首をかしげた。


「でも、どこか行こうにもウリハさん忙しいでしょ。今日もこれから――」


「そう、なんですけど……」


 明るかったウリハが一転、疲労を色濃く浮かべる。

 止まっていた足をうごかして、ふたつめの赤い横断歩道ですぐに止まった。


「こういうときばっかりは、自分が混血ハーフでよかったと思うよ。純血は大変そう」


「純血とか混血とか、はたから見れば危ない会話ですけどね」


 深いため息をついて後輩は肩を落とした。

 ウリハの動きにあわせて、持っているスクールバッグにつけられた人形がちいさく揺れる。その可愛らしい妖精のような人形は、数年前、共に行った夏祭りで取った景品だった。


「……それじゃあ先輩、私あっちです」


「気をつけてね」


 やる気なさげに行くまえから疲れきった様子のウリハは、横断歩道を手を振りながら渡っていく。曲がり角に入るまで、後ろ髪をひかれるようにずっと手を振りつづけていた。

 ウリハを見送りひとりになったナシロは下ろした手で軽く頬を叩き、日に肌を熱されながら青いマークのコンビニを目指した。

 自動ドアとやる気のない声に出迎えられ、室内と外のひどい温度差にめまいを覚えながらもカゴをひとつ。悩み、二つ手に取る。

 雑誌を立ち読みするおなじ制服の少年達にチラリと視線を向けられながらも素通りする。透明な扉を開け、飲み物を手にとっていく。

 緑茶、紅茶、水、炭酸、オレンジジュース。一気に増していくカゴの重みに耐えながら、次は食料品に目をとおす。これまた大量に、様々な種類の物を手にとった。周りからみれば、友人のあつまりに必要な買出しにでもみえたことだろう。

 見事に一杯になったふたつのカゴをカウンターに置き、若干店員にいやな顔をされながら会計を済ませると野口さんが三枚旅立っていく。

 重くのびる袋のなかで弁当箱がこすれ、掠れた悲鳴をあげていた。

 店外は何もかも億劫になるような暑さでセミもまだまだ現役だと鳴きわめいている。

 蜃気楼をつくるアスファルトのうえを行き、やがておんぼろなアパートが目に入る。

 抜けそうな錆びた階段をあがり、鍵を挿し込み玄関ドアをあけた。

 暗い室内にこもった熱気に出迎えられて深い息を吐いて重い荷物を玄関におく。

 短い廊下の向こう、八畳一間の部屋を隠すためかけられた薄い暖簾が、静かに揺れた。


「早かったわね、ご主人様?」


 皮肉がきいた出迎えの言葉は、少女の口から発せられた。


「勘弁してよ、ユウヒさん……」


 締め切られた遮光カーテンが作る暗い室内から華奢なシルエットが現れた。


「混血に眷属は作れないってば。それよりごはん、買ってきた」


「そう」


 素っ気なくいって、ユウヒと呼ばれた少女は戻っていってしまう。

 暗闇に沈む真っ黒な髪と、薄いティーシャツに短パンという夏らしいがやや無防備な服装。

 我が家で待っていた先客に驚くでもなく、ナシロも少女に続く。


「あっつい……。冷房つけなかったの?」


「室外機回ってたら変じゃない。唯一の住人が学校に行ってるのに」


「気にしすぎだと思うけど」


 汗を拭い、ユウヒは真面目な顔でそんなことをいう。よくみれば艶のある黒髪が汗で額に張り付いている。閉めきった部屋に扇風機の弱い音だけがにぶく響きわたっていた。

 外は優に三十度は超えている。この猛暑のなか、扇風機だけで戦うのはとてつもなく不快だったはずだ。考えすぎとも思うが、それだけにわかる。この少女が誰にもバレないように細心を期して過ごしていると。

 冷房をつけ、カーテンもあける。隠れていた日差しが室内に降りそそぐ。

 買ってきた商品をずらりとならべ、机を挟みユウヒの真向かい、室温で生温くなった座布団に腰をおろした。


「私こんなに食べないわよ」


 女の子座りからひざ立ちになったユウヒが、馬鹿なのかといいたげに半眼をつくる。


「僕も食べるよ?」


 怪訝な顔をされた。


「あんた、吸血鬼でしょ」


「首元隠さないでよ……。血は飲まないといけないけど、僕らだって普通に食べるよ」


 身を引かれ、襟元をあげられる。みえていた白い首元が隠された。

 警戒してるなら格好を改めようよ。そう言おうとして口をつぐむ。言ってはきみの姿をじろじろみていると報告するようなものだ。それ以前に、女性の格好に対して改めろといえるほど、ナシロは美的センスを持ちあわせていない。

 それに露出の多い服装と、そこから伸びる健康的に引き締まった手脚は引き立てあっていて、とても似合ってないとはいえなかった。


「コンビニご飯食べる吸血鬼ね。違和感しかないわ」


「美味しいよ? コンビニのご飯」


「…………勝手に取るわよ」


 そうじゃないだろと呆れた顔をして、少女はコンビニ飯博覧会のような机の上に視線をはしらせる。


「別に交代で作ってもいいけど」


「冗談。アンタに作る気ないし、アンタの作ったもの食べる気も無い」


 文句をいいながらふと、ユウヒの視線がとまった。青いコンビニの目玉商品だ。


「からあげ好きなの?」


「別に。お蕎麦もらうわよ」


 何のつよがりなのか、むくれた顔で否定して、結局からあげをとる気配はない。

 やっと冷房が効きはじめたボロアパートの一室に、そばをすする気の抜けた音が染みいっていく。

 ユウヒがむっとした顔で食べつづけているせいで、蕎麦はひどくマズそうにみえた。

 微妙な距離感のなか無言で食事は進む。

 ギッと床板を鳴らしたナシロは皿と爪楊枝をもってくる。鳥の妖精の頭を開けて、からあげを皿にうつした。


「…………」


「ほら、えっと、からあげは保存が難しいから。全部たべないと。手伝ってくれる……?」


 ナシロを睨み、からあげに楊枝を突き刺し、咀嚼していくユウヒ。

 猛獣と食事を交わしているような気分になりながら、本題に切りかえた。


「ユウヒさんは、どこまで吸血鬼(ぼくら)のことを知ってるの?」


「基礎知識だけよ。言っても、純血と混血に違いがあるなら、微妙だけど。例えば」

 

 一度区切り、探る視線を向けてくる。


聖呪器プセマシリーズ。あとは、パペットとか」


 どちらも一般には知られていない用語の筆頭だ。

 純血に比べ混血に関する資料はすくないため、その違いの知識には自信が無いようだが、それでも簡単に調べられるような事柄ではい。明らかに一般人の情報量からは外れていた。


「凄い、詳しいね」


「嫌になるほど、調べる時間はあったのよ」


 純粋にナシロはおどろき感心する。

 それで興味が逸れたのか、ユウヒは自嘲を含んだ笑みを浮かべた。


「それより、あんたはどうなのよ。パペット使えるの」


「大丈夫、そこは純血も混血も一緒。食事どきじゃなかったら出すけど、大抵、女の子は怖がる見た目だから、あとで――」


「いいわよ。見せなさい」


「……えっと、自分の分身みたいなものだから、怖がられると傷付いたりして」


「戦力確認」


 儚いナシロの抵抗はぱっさり切り捨てられる。

 そのまま視線を合わせること数秒。


「――……、パペット」

 

 ナシロはその呼称を口にする。

 吸血鬼の分身。片割れ。総称としてパペット。

 日暮れの西日が差し、レースカーテン越しにオレンジ色に染まる室内で。

 力なく呼ばれても、問題なくソレは姿を現した。

 伸びたナシロの影のなか、まずはよっこいしょっと、もやしのような白い脚がほつれた畳に這い上がる。続いて脚、また脚、脚。計八本の白い脚。そこから繋がる胴体も現れた。

 影のなかから姿を見せたのは体毛はなく、眼も口もない碁石に似た白い蜘蛛だった。

 抽象化された蜘蛛のかたちで、大きさはランドセルほどもある。

 真っ白な蜘蛛は脚八本を器用に動かしてナシロの影から這い出てくる。


「ふーん」


「……それだけ?」


 人形に近くリアルな造りでないといっても、一抱えもある動く蜘蛛である。

 幼い頃から大抵の、特に女性は初見で気味悪がることが多かった。

 ユウヒはその大抵からは外れていたのか、冷めた眼でじっとパペットをみつめて何かを推し量っていた。


「口も目もない。見えてるの?」


「見えてるし、出せるけど」


 怖がるどころか、さらに要望を向けてきた。

 ナシロが声をかけると、顔がなく前後も不明だった蜘蛛の、まずは眼が開く。

 瞳孔も虹彩もなく、薄桃一色の眼球。それが顔の中央上部に三つ、横並びで現れた。三つ眼の白蜘蛛。

 蜘蛛といっても前胸部と腹部に分かれておらず、体は碁石の部分のみ。

 その碁石に直接生えた八本の脚と、次いで口。裂けた口元からは虫ではなく、獣に似たギザギザに生え揃った歯が覗いている。

 通常、蜘蛛の口にあるような、鎌状の鋏角は生えていなかった。

 がぁとパペットがひと鳴きしても、ユウヒがおどろくことはない。


「怖くないの?」


「使えるのならそれでいい」

 

 冷めた言葉は吸血鬼に関すること、だからなのか。 言葉には吸血鬼を拒絶する確固たる意思が込められていた。

 ナシロは立ち上がる。パペットを連れて。

 ユウヒの視線が追いかけてくるのを背に感じながら、ベランダに続く窓を滑らせる。

 生温かい風に撫でられながら、あとで静かにやる予定だったことを、いまやると決めた。

 何も聞かず見てくるユウヒの前で、パペットに命令を下した。


「三番目の子を出して」


 感覚があるのか眼の横の何もない場所を痒そうに擦っていた白蜘蛛が、声に合わせて身を震わせる。毛のないはずの体から、タンポポの綿毛に似た白いモヤが浮き上がる。


「僕のパペットは三種類の子蜘蛛を出せる」


 綿毛は床に降り立つと姿を変える。直径一ミリほどの百匹前後の子蜘蛛たち。

 それはあの雨の夜、ユウヒの前を横切って行った白い蜘蛛だった。


「僕らの目的を確認しよう、ユウヒさん」


 もぞもぞと動き始める子蜘蛛を従え、ナシロはユウヒに問いかける。

 ユウヒは固く、表情を引き締めた。


「殺したいのよ。あいつを。私はそれだけ」


「うん。僕も殺したい。あの純血。位階保有者を。――混血の力を示したい」


 子蜘蛛はベランダへと歩いていく。長く子蜘蛛は紡糸する。

 風にたゆたう糸は、凧の原理で子蜘蛛の軽い体を空にはなった。


「探してきて、『道具屋』を」


 ナシロの命令。強く風が吹き、風に乗り子蜘蛛たちは飛び立っていく。


「そろそろ始めようユウヒさん」


「わかってるわよ。吸血鬼」


 決して名前で呼ぼうとしない。強く距離を感じる冷たい声音だ。

 復讐の下地。

 ナシロは微笑み、手を差し出す。

 ユウヒはその手を取らない。引き締めた表情をして、力強くひとりで立ち上がる。

 鐘代夕日(かねしろゆうひ)。雨のなかであった少女。

 差し込む夕暮れの光。風で翻るレースのカーテン。

 差す夕焼け色は少女の瞳と同じ色をしていた。

 温かく熱い光に包まれて、二人はここから、動き始める。

 復讐を目指して。


 #       #


 帰り道でナシロとわかれたウリハは燕尾服を纏う男に先導され、赤い絨毯の敷かれた廊下を歩いていた。

表情は、さきほどまでナシロに見せていた明るく幼いものと、一線を画している。

 ビスクドールのように整った無機質にはなにも浮かんでいない。

 一定の間隔で足音もなく歩いた突きあたりに、扉があらわれる。男が恭しく扉をあけると、なかでは気品のある顔立ちの男が食事をしていた。

 クロスの敷かれた長いテーブル。その上に並ぶ数枚の皿。ソーセージ。スープ。パン。順序無く一度に並べられていた。

 ひとり席につく男は、ウリハをみつけると口元を拭う。

 ドイツ系吸血鬼。第一種純血、ギュンター・ゼクスト。それが食事をする男の名だった。

 ウリハは最低限、礼を失しない程度に頭を下げた。


「またお使いかな」


「はい。それと連絡事項です」


 白みがかった金髪に混じる紅色の髪束と彫りの深い顔の造詣は、当たり前だが日本人離れしている。だが容姿からは想像しづらいほど、男が発した日本語は流暢に整っていた。

 ウリハはいつものように、もう何度も繰り返した警告を伝言する。


「組織から再度、警告が出ております。一般人を無闇に狩るのはおやめください」


「ああ、次からは気をつけよう」


 男はすんなりと頷く。いつものことだ。

 この男は頷き、認め、やめることはない。

 気に入った人間をみつけると、食事として狩り出してしまう。

 吸血鬼には組織がある。そこから定期的に必要な量の血液も供される。

 だがそれでは満足しないのだ。

 とある理由からこの男の地位はとてつもなく高い。本拠はドイツだが、この国でも一定以上の発言力と、影響力を持っている。

 そのため組織としても強く出ることができず、再三に渡り警告を飛ばすことが唯一の手段だった。ただ、今回ウリハが来たのはその半ば形式上だけの警告を渡すため、だけではない。


「先日、組織に脅迫状が届きました」


「ほう……?」


 興味深げに眉が持ち上げられる。


「要点だけ纏めますと、位階保有者を害する、という内容です。ですので六位ゼクストさまのお耳にも入れておくべきかと。ご入用であれば警備の人員を貸し出す準備も整っております」


「あぁ」


 一転。男の顔から熱が消えた。つまらないことを聞かせるなと。


「警備はいらない、むしろ危険だ。それに、私が狙われるのは当たり前だよ。十五席しかないのだから。そんな報告いちいち真に受けていたら、きりがない」


「……」


 ゼクストの言葉は正しい。

 位階保有者。万を越えると言われる吸血鬼の中で、たった十五人だけが座れる座席。

 つまらなそうに笑っているこのギュンター・ゼクストもまた、そのうちの一人。

 数字が小さくなるごとに強さが増していく位階で、上位第六位。


「失礼、君に言ってもしょうがないか」


「お気遣い、痛み入ります」


 実年齢に反し圧倒的に若い見た目で、ゼクストは優男然とした柔和な笑みを浮かべる。そして笑みを収めると燕尾服の男を呼びつけた。


「使者様がお帰りだ。車を用意して」


 ウリハが何かを言うまえに燕尾服の男は一礼し、部屋を出て行ってしまう。何か言いたげにしながらも、ウリハは「ありがとうございます」と音だけの言葉を返す。

 もう何度も使者として訪れた場所を、来た時と同じように男に先導されてあとにした。






「ふふっ」


 ゼクストは笑う。わずらわしい使者が帰った一室で。

 背後に控えていた二十代ほどの女もなれているのか疑問を覚えた様子はない。

 女は命令を受けずひとりでに部屋を退出し、もう一人の少女を連れて、もどってきた。

 運転を部下に指示した燕尾服の男もまた、部屋にもどる。これでゼクストを入れて部屋には四人。

 全員が第一種純血。混じり気のない純血の吸血鬼であった。


「聞いたかいディアーナ、さっそく動き出してくれたよッ!」


「はい」


 ゼクストは落ち着いた雰囲気から一転、満面の笑みで控えていた女性の名を呼ぶ。


「脅迫状。このタイミングだ間違いない、彼女からのディナーの誘いさ!」


「カネシロ・ユウヒでしたか」


「そうっ! あの美味しかった一家の最後の一人。――あぁ、考えただけで牙が疼くよ」


 頬に手を添え、ゼクストはうっとりと笑う。

 対照的に、ディアーナに連れてこられた若い少女だけが暗く、落ち込んでいた。

 見た目は十五、六歳ほどの少女。ゼクストは目聡く少女のようすに気付くと、優しく頭を撫でる。


「も、申し訳ありませんゼクストさま。私があの少女を取り逃がしていなければ、今頃ゼクストさまのお口にあの少女をお運びできたものを……」


「違うよアンネ。それは違う」


 本国からここに来てまだ日が浅い少女の考えを改めるように、ゆっくりとゼクストは言い含めていく。

 ゼクストは最後の一人、燕尾服の男に目を向ける。


「そうだぞアンネ。彼女を逃がした人影。あれもまた、ゼクスト様が好ましく思う味を持つ者かもしれない。思わぬ副産物だ。彼女が町から出ていないのも確認している」


「マルセルの言う通り。だから君が気に病むことじゃない。私はむしろ、逃げてくれたほうが嬉しいとさえ思っているんだ。彼女が逃げることでより一層、美味しくなってる。アンネが逃がしてくれたおかげで、今もどんどん美味しくなっているんだよ? ――それでもまだ気になるというのなら、もう一味くわえる、手伝いをしてくれないかい?」


 主と先輩。二人になぐさめられ、暗くしずんでいたアンネの瞳に光が宿る。

 ギュンターには予想がついていた。

 彼女を逃がしたのは恐らく、吸血鬼に類するものであること。さらに逃げた彼女がなにをするつもりなのか、何を必要とするのか。


「は、はい! わ、私に挽回のチャンスを下さい! 必ずお役に立って見せます!」


「うん。ならディアーナとマルセルの補佐につきなさい。良い働きを期待しておくね?」


「はいっ!」


 全員が朗らかに笑う。家族の団欒にも似た温かな光景のなかでディアーナとマルセル、先輩二人の手が肩に置かれ、アンネはそれぞれを見上げる。

 これからアンネがするべきなのは少女を探し、捕らえ、主に差し出す大仕事だ。


「お任せください、必ずや!」


 少女はふたつ、胸の前で握りこぶしをつくってみせる。そのやる気溢れる姿をみて、また全員が笑った。

 ごくりと、大きく喉を鳴る。

 いまもまだ育ち続けているであろうご馳走を想像し、ゼクストの淡い青色の瞳が妖しく、じっとりと揺れていた。

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