第10話 信用はどぶにある

 前回のあらすじ

後輩であり純血でもあるウリハが六位の屋敷で見つけたのは、今まで六位に食われていった人たちを模した胸像だった。

彼らの表情は歓喜に染められたものへと改変され、一様に笑みを浮かべた石造を前にしたウリハは膝を突いてしまう。だが耐えきれなくなる寸前で場違いな言葉によって救われる。

それはウリハが先輩としていた約束。祭りにいこうというお誘いだった。

頬をゆるめたウリハだったが彼女は知っていた。自分を救ってくれた先輩が、隠し事をしているかもしれないことを。

―――――――――――――――――――――――――――――――――――――





 暗い部屋で無心に箸をうごかすユウヒは、機械的にものを口に運んでいる。目の前に座るナシロの存在すら、意識から抜けおちてしまっているようだった。


――パペットより人形みたいだ。


 視線はたべものを追っていない。口に入ってきたものを租借して、嚥下する。ただそれをくりかえす。


「……ユウヒさん、そこにもう食べ物はないよ」


 弁当箱は叩かれて音を立てるばかり。箸がつつくその場所にもう野菜はない。

 ぼんやりとあげられた目は、そんなことすら捉えていない。


「……先に寝るわ」


 ユウヒはそのまま布団にもぐっていってしまう。

 無意識なのか、弁当の容器には特定のたべものだけが残されている。

 肉や魚や米。食べたのは野菜くらいだろう。


――やわらかいもの、ぜんぶ残してる。


 いつもなら、ナシロに寝姿などみせることなど決してない。必ずナシロが寝てから眠りにつく。

 片付けもなにもかも、自分のことはすべてやる。ナシロに借りを作るのを嫌がるように。

 そのはずがいま見せる背中は、巣穴に篭って身を守る動物に似ていて、張りぼての警戒心だけで成り立っていた。

 触れれば崩れてしまいそうなその姿をみて、ナシロは手をとめる。

 口をついてでそうになった言葉を、噛み砕いて飲み込んだ。

 頭までかけられた布団は死体でも隠しているように膨れた微動だにしない。この真夏にそんなことをすれば苦しいはずだ。苦しみよりも遮りたいものがあるのだろう。


――もう、ユウヒさんは無理かもしれない。


 初めての殺し。それも刃物での殺害。きっと感触や匂いや末期の言葉がこびりついて、暗闇に隠れる彼女の中で反響している。

 それでもユウヒは、復讐をとめることはしないだろう。

 手に染み入った感触は簡単には抜けてくれない。引き摺られながら復讐をつづけて、一体どこまでいけるだろう。

 体に巡り蝕む毒は心を腐らせるかもしれない。肉体に麻痺を運ぶかもしれない。

 ユウヒは何も口には出さない。ナシロも発さず、重苦しい空気だけが蒸し暑い室内を埋め尽くした。

 カラになった容器を捨てて、部屋の隅に腰を下ろす。窓際のいつもの定位置。窓から侵入してきた生温かい風が肌を撫でながら通り過ぎていく。

 ナシロはユウヒから必要以上に離れた位置で、目一杯の距離をとって腰を下ろした。

 しめられた遮光カーテンがゆるやかに揺れて、隙間から細い月明かりが差し込んでいた。

 夜は静かで、だれの寝息も響かない。

 この静寂しかない一室では、布ずれの音すら騒音のように大きく響くことだろう。


「ユウヒさん、手を引く気はある?」


「…………いま、何て言ったの」


「復讐から手を引くこともできるよ」


 ちいさな背がぴくりと震えた。

 ユウヒは震えたきり不気味なほど身動ぎひとつしなくなった。


「誤解しないで。完全に手を引けってことじゃない。僕に血の提供をしてくれればいい。そうすれば」


「くだらないこと言ってないで」


 何かを飲み込むような音がしたあと、苛立ちを含んだ溜め息が落とされた。


「今日はもう寝る。明日には元に」


「くだらなくない。ユウヒさんは明日になっても戻ってないよ、絶対に」


「しつこいって、暗に言ってるのが、伝わらない?」


 隠しようもなく言葉には焼けつくほどの怒気が乗っていた。

 体を起こしたユウヒは、薄暗闇でも明確にわかるほど鋭い眼でナシロを睨みつける。視線には殺意すら込められていた。昼間、敵の配下に向けていたのと同質か、それよりもさらに上の激しい感情がナシロの身体を貫いた。


「伝わってるよ。それでも、ここで決めないと進めない」


 痛みすら錯覚させる視線に貫かれても、口をつぐむわけにはいかなかった。


「君は位階保有者を殺すんだろう。今の君じゃ、ギュンター・ゼクストの髪の毛一本だって切れないよ」


 あの純血二人なんて足元にも及ばないほど、位階というのは伊達ではない。

 派閥争いが強く仲間意識の薄い吸血鬼たちは、取りまとめる組織こそ存在するが、多くは独立した力を好む。位階一人を抑えるために国家が特別に街をひとつ献上するほどに、位階は絶対的なのだ。


「アンタには、わからないでしょうね!! 父さんも母さんも、妹だって殺されて、その仇が数時間前、目の前にいたのよ! アンタが止めなきゃ殺してた!!」


「僕にわかるはずない。でも自分でわかってるでしょ、無理だったって。殺せたはずがないって。わかってるから苦悩してる。眼を逸らしきることもできないで布団にこもって。気に入らないなら、一個提案してあげようか? ここでいま、君の血を呑み尽くしてあげる。君は僕のなかに入ってキッチリと復讐を遂げるんだ」


「……結局、それ? もう勝ち目がないから、血を飲んで終わりにしたいってわけ?」


 熱情が冷めていく。さっきとは打って変わったユウヒの声は冷めきっていて、やがて自嘲と憎しみのこもった眼が出来上がる。


「偉そうに、アンタに何も感じてないと思ったの? 六位が目の前にいてアンタが止めたことも、懲罰部隊の吸血鬼なんかと知り合いだったことも……うさんくさい理由で私の目的に付き合って――アンタ信用できないのよ。何ひとつ自分ことを話さないで」


 彼女は復讐をやめられるほど、弱くはない。

 そんなことわかっていて、手を引く気はないかと確認した。

 ナシロが腰を上げると、ユウヒは身を揺らした。


「だよね」


「は?」


 気丈に睨み続けるユウヒの横を素通りし、ナシロは部屋の奥へと身を進ませる。

 廊下との境にかけられたのれんをくぐるナシロの手には、鈍色の包丁が握られていた。


「…………」


 持ってきた刃物をユウヒに握らせる。

 握る手を、大きく上から包み込む。

 ユウヒの両手を包み込んで、片膝をついてナシロは同じ高さで視線を合わせた。


「ユウヒさんの生き方が好きだ」


 性格は真っ直ぐすぎて、折れやすい。しかし強すぎて折れることもできない。

 普通なら折れてしまうほどの重みを背負っても、彼女の強さがそれを許してなどくれない。

 不器用で、真っ直ぐで、完全に折れてしまうこともできなくて。

 つらい生き方だ。常に苦しみを背負う生き方だ。


――まるで、不器用な、物語の主人公みたいな生き方だ。


「僕は君の復讐を応援する。そのためなら、どんなことだって用意できるよ」


 包丁の柄をユウヒの肌に貼りつけるように力強く包む。手放そうともがく手を力ずくで押さえつけた。


「ちゃんと感じてね、僕も痛いんだ」


 自分の腕に包丁を突き立った感触をナシロは受け取る。その振動は包丁の柄を渡って、衰えることなくユウヒにも伝わっているはずだ。

 暗闇に照らされて、湧き出るように赤黒い液体が腕から垂れた。


「待っ」


 身体のなかでゴリゴリと刃先が骨を引っかく。

 吸血鬼だろうと痛みはある。顔をしかめても、重ねた視線を外すことだけはしたくない。

 嘘偽りが今だけはないからと、言い聞かせるように顔を近づけた。


「君を復讐に連れ込んだのは僕だ。いくらだって付き合ってあげる。都合がいいことに僕も吸血鬼だから」


 ユウヒが憎い相手すら傷つけたことに動揺してしまうのなら。


「僕よりも優れた練習相手はいないでしょ。共犯で、ユウヒさんにとって憎い相手。ほら、適任だ」


「アンタね!?」


「僕は悪者。常識も倫理観もルールも破りこそすれ、知ったことじゃない。組織が定めた決まりを破って聖呪器も道具屋も聖水だって用意してあげる。もう六位の住む屋敷への侵入ルートも見つけてあるんだ。あとは――君だけなんだよユウヒさん」


 ユウヒの震える手はなおも放そうとするが、力ずくで許さない。

 抵抗したことによって刃先がずれる。

 垂れていただけだった血が驚いたように噴き出した。


「やめるなら、いまだよ?」


 触れ合いそうな距離のまま、最後通牒を受け渡す。

 慰めにしては乱暴すぎる方法だってわかっている。もし友人であったなら、声を掛け、手を取り共に歩みだしたこともできただろう。

 もし恋仲であったなら、身を寄せ合い、身体を預けながら歩みだせただろう。


「僕らの仲は暖かいものじゃない。知ってるでしょ。僕への信用なんて、そんなものはドブにでも捨てればいい。ただ互いに利用すればいいだけさ」


「……これでわたしが、立ち直るとでもおもったわけ?」


「これしかないと思った」


――これでダメなら、ほんとうにダメだとも思った。


「…………」


 ユウヒの瞳に、なにかが降り積もっていく。火山灰のような。

 それは彼女の元来の性質に似た、ナニかだった。


「痛ッ!」


 震えの収まらないユウヒの手が、ナシロの腕に切っ先を沈ませる。


「ムカつく。アンタにすこしでも理解されたことが、心底ムカつく」


 自分の力以外によってひろげられた傷口に、ナシロは顔をしかめ呻きをあげた。


「ほら、血吸いなさいよ。さっさと治して、次やるんでしょ」


 ユウヒは剥ぎ取るように脱ぎ捨てた自身の服を壁に向かって投げ付ける。

 露出した首元も、あらわになった下着にかくされた胸元も、真っ白な腹部まで、汗に濡れる肌が堂々とさらされる。


「はは……いいよ、すぐやろう」


 好きでもない吸血の時間が始まった。

 彼らは共犯であり、憎む相手であり、利用するものであった。

 ムードも何もない。仲直りもしなければ、問題はなにも解決しない。

 変わらずユウヒの手は震えていたし、吐き気を止めるためか唇は噛み締められ、顔からは血の気が引き蒼白になっていた。

 簡単に克服できればこれほどまでに惑わない。

 ナシロは腕の痛みを必死で堪え、涙をかすかに膨らませながら、予定より深く突き立った包丁を抜きだしていく。

 暖かさも甘やかな空気も、そこには存在しない。それでも――。


「聖水が用意できるまであと三日。それまで、付き合ってもらうわよ」


 歪な形の、絆とも違う、信頼に似て非なる繋がりがほんの少しだけ顔をだす。


「あ、いやいや明日はムリ。ウリハさんとお祭りに行くから」


「……………………………………………………………………………………は?」


「痛いよ?」


 殴られた。

 殴って蹴って、たまに包丁を投げつけられて。いつの間にかそこには、先ほどまで布団に隠れていた少女の姿は見当たらなかった。

 ナシロを布団に蹴倒したユウヒと、またがられ、困ったように笑うナシロ。

 痛みから汗を垂らし逃げるナシロと、吐きそうな顔で毒づくユウヒ。

 少女が暗さを脱ぎ去って、額の汗を拭い、少年を踏みつけた。


「ユウヒさん下着姿の自覚もとうよ……」


「いまさらアンタに見られたところで屁でもないわッ!」


 その一時の賑やかな時間は、空が白くなるまでのあいだ、ひたすらに続いた。

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