透明な獣は女を気の毒に思った。


 獣にはいつ如何なる時でも彼女を頭から乱暴に引きちぎることは可能だった。そしてそのことに彼女は気付いていなかった。あの傲慢な顔つきを見ればわかる。


 これまで何度も行なってきた光景がまた目の前で繰り返されるだけだ。何も感じる必要は無い。それはただの作業だろう。


 心の痛みを感じたのは最初だけだった。そしてそれは思っていたよりもずっと長続きすることはなくやがてただの日常と化した。


 透明な獣は振り返り、女を見つめた。


 あの女にはまだ未来がある。きっと他にやるべきことがあるだろう。今ここで息の根を止めることが正しいことなのかどうか判断がつかなかった。


 (何処かで諦め踵を返してはくれないだろうか)


 幾度もそう思った。


 帰る場所があるのなら、そこへ帰れば良い。


 だが瞳にあのような強烈な光を携えた者がけして諦めることなく自らを追い駆けて来ることは経験上わかっていた。言っても無駄なのだ。誰の忠告にも耳を貸そうとはしない。追い駆けて来る女の手元には反射し煌めく鋭利な刃があった。きっとあの刃でわたしを殺すつもりなのだろう。


 人間を、殺す。


 また殺さなくてはならないのか。


 別にそれをしたいわけではなかった。ただ自分を殺しに来る者がいるから厄介ごとを振り払うようそうしているだけだ。積極的にそれに関与しているわけではなかった。いつだって愚かで、いつだってしつこい連中。いつかはなんとかなるとでも思っているのだろうか? まるで問題は風向きだとでも言わんばかりに自分に都合の良い材料ばかりを並べ立て、またわたしを殺そうと追い駆けて来るのだった。


 きっとうまくいく。


 どうして連中は疑うことを知らないのだろう。もしかしたらこの世界は自分専用ではないのかもしれないと。自分の歩む道筋は大多数の人間によって既に踏み荒らされ、新しい道などではないということを。自分が罠へ誘い込まれているのではないかということを。


 今ならまだ間に合うかもしれないのにけして引き返そうとはしない。二度と復元されないほどに乱暴に食いちぎってやるのがせめてもの優しさなのかもしれない。


 一体、どれぐらいの人間を殺せば解放されるのだろうか? わざわざ殺されるためにこちらへと歩んでくる女。


 どうして数ある選択肢の中からそれを選び取ってしまったのか? 透明な獣を狩ろうなどと。


 わたしは振り返る。


 どうやらあの女は何もかもを確信したよう近付いて来るようだった。曲がり角を曲がり、甘い果実を食いちぎった。その汁をわざと路上へばら撒いてみせた。


 自分の都合の良いようにこの世界を解釈するならそれもいい。だがいつかは裏切られることになるだろう。それまでの間せめて無邪気に笑っていればいいさ。


 自分専用の世界で肺呼吸をする女。時折、振り返りその挙動を確認してみるがもはや痛々しくて直視することも躊躇ってしまう。


 わたしは足音を立てず歩いていた。


 人波を掻き分け、裏通りへと入り、また気まぐれで人波の中へと紛れ込んだ。やがて人気の無い場所へと差し掛かった。


 (そう言えばいつか誰かをこんな場所で殺したことがあったな)


 あまりに繰り返されてきた事柄ゆえそれについての喜怒哀楽が欠落してしまっていた。耳を澄ませばやはり背後から女のものと思われる足音が聞こえて来た。どちらにせよ逃げ場は無い。


 人を殺すには充分すぎる条件が揃っていた。


 空は晴れて雲一つ無かった。夕闇が少しずつ溶けて瞬きをする度に色彩の比率を変えていった。冷たい風が肢体を吹き抜ける。


 女だ。


 もうこんなところまで距離を縮めていたのか。


 わたしは一目散に駆け距離を取った。かなり離れた場所から振り返る。ぎりぎりで避けたと思っていたが腹部に痛みが走った。血が流れていた。女が刃物を振り翳したのだ。長い黒髪を顔の前に垂らし、その乱れを直そうともせず口元は微かに笑っているようにも見えた。


 わたしはあの女になら殺されても良いような気がしていた。








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透明な獣 雨矢健太郎 @tkmdajgtma

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