(今、殺すしかない)


 わたしは思った。


 やったことがないなんてそんな言い訳は通用しない。誰だって初めての狩りの瞬間がやって来る。それを乗り越え、ようやく一人前になれるのだ。


 わたしはまだ誰でもない。ただの憧れだけを抱いた無名な若者でしかない。そしてそのような輩は腐るほどいて、これでもかと言うほどに価値が無かった。わたしはどうにかしてこの掃き溜めの中から脱出しなくてはならないのだ。そのためには手始めにあの透明な獣の首をもぎ取るしかない。


 もしここで獣を殺すことが出来なければ、これから先のわたしの人生は息を殺し誰かの顔色を窺うような惨めなものとなるだろう。想像しただけで寒気がする。そんなのは御免だ。


 透明な獣はこの夕暮れ時にわたしに接近されてもどうということはないと思っているようだった。その余裕が命取りになる。死ぬ直前には思いっきり後悔させてやるつもりだ。刃物で心臓を貫く。そしてくにゃりと四方に折れ曲がった手脚で地べたを這いずり回し、わたしはそのたてがみを野蛮に掴む。頭を地面にへばり付かせ、上から見下ろす。一体、どのような表情を見せるのか今から楽しみだ。


 獣は、常に逃げる。


 だがこの追跡が始まってからというもの、わたしの脳裏にはある疑問がよぎっていた。


 (本当にあいつは逃げる気があるのだろうか?)


 もちろんあるのだろう、そういうことになっている。だがしかし………。


 足取りを辿るうちそのような疑問がどんどん強くなっていった。


 獣の本心が何処にあるのか想像することはとても難しいことのように思える。


 あの獣はもしかしたら自分を殺してくれる相手を探していたのではないか? そのように思えることもあった。そう考えると色々と辻褄が合う。わたしの勘違いだろうか? 本当にただ何も考えずに逃げ回っていただけなのだろうか? 或いは脳に寄生虫のようなものを宿しており自我などといったものは存在せず時折、発作のよう駆け回っていただけなのだろうか?


 どちらにせよ実際やってみないことにはわからない。遠目で眺めて憶測を巡らせても意味はない。わかったふりが一番、危険なのだ。わかったふりをするくらいなら始めから何も考えていない方が遥かにましだ。


 透明な獣がいる。


 そしてそいつをわたしが殺す。それだけで良いではないか。何の問題がある? 事態を無理やり複雑にする必要はない。


 わたしは距離を詰めた。


 もう獣と会話が出来そうだった。


 透明な獣はまだ動かなかった。こちらをじっと見つめていた。どうやら最終局面を迎えているらしい。


 こいつが何を考えているのかよくわからない。もしかしたら、と一瞬、思う。もしかしたらこいつはわたしなんかよりずっと聡明で、ずっとずっと先を読んで行動をしていたのかもしれない。冷たい風がわたしの首筋をそっと撫でる。


 (だとしても)


 わたしは思う。わたしはやはり何も知らないふりして近付かなくてはならないのだろう。こいつは誘っているのかもしれない。上等だよ。それなら提示してもらおうではないか、わたしには予測不可能な未来ってやつを。それがもし本当に存在するのならば。







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