透明な獣
雨矢健太郎
①
透明な獣はその日もわたしの視界から遠ざかろうとしていた。必死だった。時折よろけて何かに身体の一部をぶつけたりしているようだった。
無駄なのに。
わたしは乾いた笑みを口元に浮かべた。
この世の中では当たり前なことが当たり前なようにしか起こらないのだ。わたしはゆっくりと歩きながら地面に落ちていた木の枝をスニーカーで踏み潰した。小動物の骨のような感触が靴底から伝わってきた。そして前方を見た。
透明な獣がいた。
のろのろともはや這うようにして逃げ回っていた。
追い詰められているのはあいつの方なのだ。その事実がわたしを安心させた。手鏡でも持って来れば良かった。自分が今どのような表情をしているのか確認してみたかったから。
目の前の信号はまだ赤だった。
青に変わるまで、行儀良く待ってわたしは再び歩き始めた。その気になれば赤でも横断、出来たがまあ良い。時間は十分にある。急がなくても夕陽が沈む頃には何もかも片付くだろう。
透明な獣はわたしが信号で佇んでいるのを不思議そうに眺めていた。信号という機能を理解していないのだ。わたしが歩を止め立ち尽くしている姿を見て安堵しているようにも見えた。自分にはよくわからない法則に基づいて追跡者が一時停止をしている。
わたしと透明な獣との距離はあまり問題ではなかった。時計の針だとかそういったことも一緒だ。わたしたちは普段、縛られている常識からかけ離れた場所でやり取りをしている。この世界で目に見えている部分など実はほんの些細な側面だということを思い出さなくてはならない。透明な獣を追う者はわたし以外にもたくさんいたようだが、その殆どが何か根本的な勘違いでもしているかようにただの目先の問題に振り回されてしまう。それではあいつの思うがままだ。
だが、わたしは違う。
わたしはそこまで愚かではない。
透明な獣はまだ余力を残しているに違いない。ふりなのだ。死にかけているふり。こんなところであっけなく殺されるのならばわたし以外の追跡者がとっくに仕留めていただろう。けれどお前は相変わらず生き延びて今こうしてわたしの目の前にいる。
安心しろ。
必ず殺してやる。
今までが奇跡だったのだ。そのような死に損ないの演技で追跡者を騙していられたことが。お前に明日の朝は訪れない。昨日とまるで差異の無いように思える今日というこの日にお前は死ぬ。
わたしは逃げて行く獣を少しも取り乱さずに見つめていた。やがて獣は一点となりわたしの視界から消えた。わたしはゆっくりと先へ進んだ。
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