透明な獣が手負いぶっていることはわたしにはわかっていた。


 わたしはそこまで馬鹿ではない。そこまで自分の都合のいいように世の中が構成されているわけではないということぐらいわかっている。あの血痕はおそらく偽装なのだろう。


 わたしはそれまで手にしていた小枝を宙に放った。それは無造作に弧を描き、地面に叩き付けられるまでの間、何度か回った。


 わたしは思う。


 獣はわたしを誘い込もうとしているのだろうか? 自らが作り上げた罠へと。それはどのような罠だろう。獣の作成する罠。酷く浅はかな構造をしているかもしれない。罠の外観すら保ってはいないかもしれない。最低限、誰かを陥れるために必要な要素が備わっていない、穴を堀ってそれが剥き出しのままそこにあるとか。


 わたしは何もわからないふりをするべきだろう。


 自分が自分ではない誰かを演じているような気になってきた。それはとても楽しい遊戯だ。透明な獣をたとえ一時的であるにせよ喜ばせてあげるのだった。相手の期待通りに物事が進行していると思わせてあげるのだった。それは優しさの類いに分類されるだろう。いやその逆か? これから徹底的に痛め付けてやろうとしている存在に対し一瞬でも希望の光を与えてやることは残酷なことなのだろうか?


 曲がり角があった。


 もちろんある、今まで何度もあった。わたしたちの歩く道には至る所に曲がり角ってやつが設置されている。だがその先に足を踏み入れる直前で思った。


 (もしかしたらここでわたしを殺る気かもな………)


 自分が笑みを浮かべながら侵入し、その笑みが崩れる間も無くわたしの首筋に透明な獣が齧り付く。そのような映像が瞬時にわたしの脳裏によぎった。


 わたしには優れた直感能力がある。だから透明な獣を狩ることに決めたのだ。人には得手不得手ってやつがある。透明な獣などとは一生、関わらないで暮らしていける存在ならば、それも良い。だがわたしに備わっている能力がそれを許さなかった。自分の意思で今ここに立っているわけではない。わたしは何も考えずに歩いていた筈なのに気付けばここにいたのだ。今だってそうだ。わたしはある晴れた日に透明な獣を追い詰めるために歩いている、何か深刻な決断を下した覚えも無いのに。


 けして見えない曲がり角のその先を注視する。その日わたしは初めて長い間、足を止めた。角を曲がることにした。


 いない。


 なるほどな。


 これはわたしの生まれて初めての狩りだ。


 刃物を手にしゆっくりと獣を追い詰めていく。


 曲がり角の先の誰もいない空間でわたしは辺りを注意深く見渡した。僅かな痕跡も見逃しはしない。あいつは一体、何処へ行ったのだろう?


 空を見上げる。陽が暮れてしまう前には決着をつけたかった。







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