エピローグ
「今回はよくやってくれました。常々、君には感謝しかないと思っていますよ、彰人君」
新しいパソコン越しに聞こえたメイスフィールドの声に、はっとした。自宅で幹部と通話している真っ最中だというのに、俺はまた、ぼうっとしていたらしい。
「は、はぁ。まあ、たやすいもんですよ」
「今日届いた君の報告書には、あの少女は絵を描くのが好きだったとある……今、欧米諸国の画家や養成スクールを調べ、彼女を探しているところですよ」
「そうですか。でも、たかだか子供時代にお絵かきが好きだったくらいで、大袈裟じゃないですか?」
やや間を置いて、メイスフィールドが答えた。
「彼女の性格傾向に照らし合わせても、彼女が目指すであろう職業は画家が妥当なところだと、昨日君が言ったのでしょう?」
「え?」
思わずぞっとした。冷や汗が流れた。いや……でもど忘れすることくらい、誰にでもある。俺は動揺を悟られないよう、つとめて明るい声を出した。
「ああ、そうでしたっけ? いやあ、こっちも仕事の依頼でてんてこ舞いですから。つい忘れちゃいましてね。申し訳ない」
「仕事に励むのはよいことです」
ですが、とメイスフィールドは物々しい声で言った。
「この前のように、彼の手を借りることになるような事態は、なるべく控えていただきたいものです」
「ああ……そう、ですね」
彼、とは、幹部の一人である眼鏡の男のことだった。主に、他のメンバーの補佐を行っている。元軍人の彼は、狙撃ももちろん得意だった。
「創始者様のご指示で、私が彼を同行させ、あなたの逃げ道を確保させていなければ、あなたは日本の警察に捕まっているところだったのですからね」
「それはありがたい、と、思ってますが……あの……どうして彼のことを俺に秘密にしていたんです? 俺たちは、秘密を抱えることを何よりも重い罪と考える組織ではないんですか?」
メイスフィールドはまた少し間を置いた。スピーカーの音からして、何か飲んで喉を潤しているらしかった。
「ひとつには、創始者様だけには秘密を抱えることが許されている、とだけ言っておきましょう。そしてもうひとつは、屁理屈に聞こえるかもしれませんが、我々は彼のことを決して秘密にしていたわけではないのです。あなたに伝えていなかったのは、あなたの探偵としての手腕があれば、彼の出番などないだろうと油断していたからに過ぎません」
俺は額に手をやった。ひどく頭が重たい気がした。
「もう……いいです。こちらこそなじるようなことを言って、すいませんでした」
「では、また」
通話はそこで切れた。
俺はパソコンを閉じると、台所に行き、ウイスキーの水割りを作った。ウイスキーの瓶を棚にしまおうとしたとき、結婚指輪が指からするりと抜けた。
「おっと」
拾い上げた拍子に、内側に彫られた英文が目に入る。気がつけば俺は、それをじっと見つめていた。
『just for you』。
ただ、あなたのために。
今や、単に忘れにくくて便利というだけの理由でパソコンのパスワードに設定しているだけの文だったが、俺にはおそらく昔、この言葉が、ひどく大事な意味を持っていた時代があったはずなのだ。読み上げるだけで幸せだった時代、そして、身を引き裂かれるような苦痛に苛まれた時代が。けれどももう、俺はそのことを思い出せない。何一つとして。
「……」
俺は指輪を元の指にはめた。
明日も、やらなければならない調査依頼が山ほどある。物思いにふけっている時間はない。世界には、まだ俺が解かなければならない事件が数多く残っているのだ。
グラスを持って台所を出ようとした時、ふと視線を感じて、振り返る。
振り向いた先には、半分開いた戸棚があり、その中には林檎がしまってあった。今日自分で買ってきたばかりの、特産地でとれた、旬のものだ。物陰でひっそりと息を潜める小動物のようなそれを手に取ると、皮のついたまま一口囓る。一口、また一口と食べ、そしてゴミ箱に捨てた。見目麗しい真っ赤な林檎は、泣きたくなるような酸っぱさ以外、全く味がしなかった。
5.毒吐き林檎と放浪探偵 名取 @sweepblack3
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