第4話



 家でシャワーを浴び、着替えると、またすぐに家を出た。

 親とはずっと話をしていない。一人暮らしする資金を稼ぐため、このところはずっとバイトばかりしている。両親はあの事件以来心を病んでしまって、しばらくまともに会話をしていない。父は熱心に仕事をしているが、休みの日もほとんど家にいないし、反対に母はずっと家にいて、外に出るのが怖いと言い続けている。週に一度はセラピストが来て、心のケアとかいうのを施しているが、効果のほどはわからない。シャワーを浴びた時、頭がひどく痛んだ。多分打ち所が悪かったのだろう。家から出る前、玄関から、居間にいるであろう母の方をほんの少しだけ見た。母は静かで物音ひとつ立てないので、生きているのか死んでいるのか、今となってはわからないくらいになってしまった。耳をすましても、聞こえてくるのはテレビの通販番組の、いやにうるさいオーバーリアクションと歓声だけだった。


 カラオケ店でのバイトが三時で終わったので、そのまま探偵の事務所に向かった。

 小雨が降っていたので、折りたたみの傘をさして歩いた。低気圧のせいか、耐えられないほどではなかったが、頭が鈍く痛んでいた。平日の午後のアーケード街は静かで、寒々しかった。

 事務所まで来て、ドアを開けて中に入ると、すかさず例の女の声がした。

「ハァイ。早かったのね」

 僕は面倒に思いながらそちらを見た。あれから少し時間が経っているにもかかわらず、林檎はまるで今朝買ってきたばかりのように、綺麗な状態のままだった。皮は悪魔のように赤く、覗く歯は輝かんばかりに白い。

「女はいつも綺麗でいたいものなの」

 聞いてもいないのに、林檎が気だるく言う。

「探偵はご不在。私の話を聞きたいなら、まさに今がその時よ」

 僕は何も答えずに、ソファに座った。リュックから炭酸飲料のペットボトルを取り出し、口をつけた。林檎は呆れたように長いため息をついた。

「私のこと、ただの林檎だと思って? あんたになんか想像もできないような、いろんなものを見て来たんだから。特に、あの探偵とは長い付き合いよ。あの人、本当にかわいそうな人なの」

「……」

「なんたって、あの人、奥さんと娘さんをいっぺんに殺されたのよ。嫉妬に狂った、奥さんのストーカーにね。ストーカーって怖いわよねぇ。自分の好きな人まで殺すって、それもう愛じゃないでしょ! って話よね。それとも、そういうのもひっくるめて愛って呼ぶのかしら?」

「……」

 靴を脱ぎ、ソファに寝そべった。昨夜の毛布がそばにあったので、それを頭までかぶった。眠ってしまえば、この耳障りな幻聴も消えるだろうと思った。しかし林檎は、僕の失礼な態度に憤慨したとばかりに、諦め悪く叫び続けている。

「嘘だと思うなら、直接聞いてみれば!? あんたが信じようが信じまいがね、今じゃこの私が、彼の唯一の家族よ! 孤独になったあの人はそれから私を連れて、しばらく外国を放浪した。あの人には悪いけど、あれはまったく素晴らしい日々だったわ……」

 恍惚とした様子で外国の素晴らしさを語るのを聞いているうちに、バイト上がりの僕は眠りに落ち、やがて、コーヒーとバターのいい香りで目が覚めた。近くのソファには例の赤髪の探偵が座っていて、カフェオレの入ったマグと、茶色い紙袋、そしていろいろな種類のパンがテーブルに並んでいた。

「昔、ヨーロッパのあちこちに旅行してたことがあってね。そのせいなのか、時々無性にパン屋さんのパンを食べたくなる。ずっとご飯だけだと、なんだか落ち着かないんだ。良平君もひとつ、どうだい」

「……」

 僕は会釈してロールパンをひとつ手に取り、一口分ちぎって食べた。

 そういう偶然もある。今時の日本人なら、海外旅行くらいする。

「で、何か思い出したかな。いとことのエピソードは」

「はあ……いくつかは」

「それはありがたい」

 ロールパンを今度はそのまま齧る。普通のパンだと思っていたが、かじってみると、中に赤いジャムが入っていた。

 

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