第1話
「あらあら、まあまあ。ひどいお顔だこと!」
おぼろげな意識の中で聞こえたのは、醜い女の笑い声だった。僕は閉じていた目をうっすらと開けた。ぼやけた視界に映ったのは、なにか赤くて丸いものを持った男の姿だった。彼は、路地裏で傷だらけになって伏せっている僕を、光の差す方からじっと見つめている。
「なんてみすぼらしいのかしら。まるでドブネズミみたい」
女の甲高い、耳障りな笑い声が聞こえる。
「ほっといたら、そのまま死んじゃうんじゃなぁい?」
うるさいな。ほっといてくれよ。
出ない声で僕はそう吐き捨てたが、男は、つかつかとこちらにやって来たかと思うと、慣れた手つきで僕を担ぎ上げた。どうして、と聞きたかったが、疲弊した意識はそれ以上の覚醒を許さなかった。眠りの闇に沈んでいきながら僕はただ、女の声が喚き散らすのを聞いていた。
再び目覚めた時、僕は知らない部屋のソファに寝かせられていた。寒さを感じないと思ったら、毛布がかかっていた。腕時計を見ると、十二時すぎだった。路地裏で倒れてから、丸々3時間くらい気を失っていたらしい。
「君が、
声が聞こえて、その方を見ると、さっき僕を担ぎ上げたと思われる男が、両手にマグカップを持って立っていた。見たところ30代半ばといった風情で、彼の髪は、近くで見ると暗めの赤色をしていた。カップをひとつ僕の前のテーブルに置いたが、僕はそれに手をつけずに聞いた。
「あなたは?」
男はニッコリと微笑んだ。
「そんなに怯えなくても大丈夫だ。僕は
「探偵?」
「ああ。だから君は、僕の質問にいくつか答えてくれればそれでいい。もちろん、答えたくない質問には答えなくていいよ。いやぁそれにしても、殴り合いの喧嘩でもしたのかい? 僕がたまたま通りかからなかったら、君、やばかったんじゃない?」
「……」
迷いながら視線を泳がせていると、思わずぎょっとした。窓辺に置かれた一つの林檎が、笑みを浮かべながらこちらを見ていたのだ。果実には絶対にないはずの、ぎょろりとした二つのぬめった目玉と、白い歯をむき出しにして意地悪く笑う口に、冷たい汗が背中に伝った。思わず声を裏返して僕は尋ねた。
「あ、あの……!」
「ん? どうかしたかな?」
探偵は愛想よく、実にジェントルに微笑んでくれるものの、僕の不安感は微塵も拭われなかった。僕はわずかに震え声になりながら、窓辺のそれを指差した。
「その、あそこにある、林檎みたいなものって……?」
「?」
探偵は一度振り返って窓辺を見たが、すぐに苦笑まじりにこちらに向き直った。
「林檎みたいなものっていうか……林檎だけど?」
「ほ、本当にただの、ふ……普通のですか?」
「え……あ、ああ。そうだけど」
嘘をついているとか、冗談を言っているとか、そんな顔ではなかった。至極まともな、まっすぐな目でそう言われると、返す言葉もない。
「……」
僕はひとまず自分の分のカップを手に取ると、醜い林檎の方にもう一度目を向けた。それはやはり毒々しい笑みを浮かべながら、じーっとこちらを見つめている。頭を打って幻覚でも見ているのかなと、僕はそれを鬱陶しく思う。
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