5.毒吐き林檎と放浪探偵

名取

プロローグ




 人には多かれ少なかれ、自分だけの習慣があるものだが、俺の場合それは、毎日帰宅途中に八百屋へ寄って、林檎をひとつ買うことだった。


 できるだけ、質の良いもの。


 皮が張り詰めていて、つやつやと光沢のあるもの。


 そうでなければ、あとで妻と娘に、ひどい文句をつけられてしまう。




 妻とは、俺の経営する探偵事務所で出会った。

 ストーカー被害の相談にやってきた彼女に、俺はただならぬ運命を感じていた。それは向こうも同じだったようで、出会って三ヶ月経った頃には、結婚式を挙げていた。子供にも恵まれた。妻にそっくりな優しい目をした初めての女の子には、二人で名前をつけた。心配していた出産も安産に終わって、予後も良好だった。2歳になった娘の好物はすりおろしたリンゴで、食後には毎日せがんでくる。まだ歯も生えそろわないというのに、しょっちゅうそのままの林檎にがぶがぶと噛み付いて、そのたびに妻に「まだ早いわよ」ととりあげられてしまう。娘は不満そうにむくれるが、その顔がまた、可愛らしくてたまらない。


 家の前までやって来た時、俺は鞄にしまっておいた林檎を取り出した。


 妻にはよく「意地悪ね」とたしなめられるが、どう言われようと構わなかった。だってこの手の中にある林檎を見て、目を輝かせながらこちらに駆け寄ってくる小さな我が子が、俺には可愛くて可愛くて、しかたがないのだから。


 玄関のドアを開けた時、鼻を突いた異臭に、俺は眉を寄せた。


 オムツ替えなどをやっていたから、その類の臭さには慣れていた。だがそれは大便や尿の匂いとは、根本的に違っていた。

 俺は靴を脱いで家にあがると、居間に続くドアを開けた。




 その瞬間、俺の中の何かが、音を立てて壊れた。




 手の中から、林檎が転がり落ちた。血の海の中に落ちた林檎は、なぜか大きく口を開き、にやりと歯をむき出しにして笑った。醜悪な顔の林檎が、俺に問いかける。


「どうするの? これから」


 わからないよ、と俺は答え、その場に激しく嘔吐した。

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