第10話
「そうやってずっと、見て見ぬ振りをし続けるつもり?」
毒吐き林檎の、そんな言葉で目を覚ます。
昨夜、探偵事務所のソファで寝かせてもらった僕は、ゆっくりと起き上がった。スマホのホーム画面のデジタル時計は、朝四時を表示している。探偵はいない。
林檎は低い声で話しかけてくる。
「いいご身分ね。誰もあなたに言わないのなら、私が言ってあげるわ。あなたは自分に酔っていたいだけなのよ。『女の子を救えなかった』って悲劇にね。あなたなんてどうせなんの役にも立たなかったし、この先だって、誰も救えやしない。何でもかんでも背負いこむ自分が、かっこいいとでも?」
ブラインド越しに朝日の差す薄暗い事務所に、林檎の声だけが反響した。
「過去のことなんて忘れて、さっさと幸せになってしまえばいいじゃない。いっそ、そうした方が、きっと……」
「わかってる」
僕が呟くと、林檎は言葉を止めた。
「あの探偵は、僕に嘘をついてる。最初から、ずっと君の言う通りだった」
「……何よ。どうして急にそんなことがわかったの?」
僕は手に持った本を、林檎に見えるように掲げてみせた。昨夜、探偵が僕を待っている間に読んでいた文庫本だ。
「その本がなんだって言うの?」
「これ、明らかに最近買ったばかりの本だ。あの探偵はこの本を読みながら、昨日誰かに電話をかけていて、その相手とリアのことについて話している。でもそれは調査結果の報告じゃない。明らかに探偵とその通話相手は、リアが今どこにいるか探していた」
林檎は、どうして僕にそれがわかったのかは尋ねなかった。ふーん、と興味なさげに言う。
「だったら、次にやるべきことはわかっているわよね?」
僕はソファから立ち上がり、事務所の奥に向かった。ソファとテーブルのあるスペースの後ろには、数人用のデスクと回転椅子がある。一番奥のデスクの上にノートパソコンがある以外は、他に物はない。デスクには引き出しがあり、一つには鍵がかかっている。横からまた林檎が囁く。
「引き出しの鍵は机の裏に貼り付けてあるわ。あの人、意外とこういうところ抜けてるのよね」
デスクの裏に手をやると、硬い感触がした。見ると、セロハンテープで貼り付けられた小さな鍵がある。テープを剥がし、鍵を引き出しの鍵穴に差し込み、回す。
開けた引き出しの中には、銀の指輪があった。それ以外は何も入っていない。触れるまでもなく、指輪の内側に短い英文と二人分のイニシャルが彫られているのが見えた。そのうちのひとつはAだった。そして綺麗に磨かれて光り輝いてはいるが、よく見れば、まるでどれだけ拭っても拭いきれなかったかのように、うっすら赤黒く汚れている。
「それに触るのはやめておいたら?」
林檎が言ってきたが、僕は首を横に振った。
「あら、そう。頭のヒューズが飛んでも知らないわよ」
頭のヒューズならたぶんとっくに飛んでいる。おそらくは、大人数によってたかって殴られたあの日。頭に強い衝撃を受け、僕の中で長らく眠っていた何かが目を覚ましたあの時に。
僕は躊躇なく指輪に触れた。やがて、記憶が流れ込んでくる。結婚式。花嫁の笑顔。病院で祈る男。離乳食を食べる女の子。血塗れの部屋。無残な姿の女性と子供。取調室。ストーカー殺人のニュース。レトルト食品。パスポートと鞄。空港。林檎。アパートで拳銃を口に咥えた後、泣き崩れながら銃を下ろす男の姿。
「……う……」
頭に刺すような痛みを感じ、思わず指輪から手を離す。手がまるで氷に触れていたかのように冷たい。息を整え、再び指輪に触れる。一人旅をする男。見渡す限りの月の沙漠。ニューヨークの摩天楼。パリの小道。雨降るロンドン。代わる代わる目の前に映し出される絶景の中に、突然、モノクロの人物が現れた。モノクロの彼は男の話を聞き、深く頷く。そして何かを男の耳に囁く。男の顔から血の気が引いた。男の目つきが変わる。
僕は指輪から手を離し、今度はパソコンを開いた。パスワードの入力を求められ、僕は迷うことなく、指輪に彫られていた英文を打ち込んだ。エンターキーを押すと、画面は即座にデスクトップに変わる。
「まあ、大正解」
林檎が口笛を吹いた。デスクトップには数多のフォルダが並んでいる。そのうちの一つを開く。英語ばかりで読みにくかったが、おそらくリアについての文書なのだろう。眺めているうちに、穏やかな記憶が断片的に読み取れた。あまりにもかすかでバラバラな記憶ばかりだったが、これだけはわかった。
今、リアは安全な場所にいて、生きている。
「ねえ、まずいわ。帰ってきた……」
焦ったような林檎の声に、僕はパソコンを閉じ、ゆっくりと横を向く。数歩離れたところに、Pコートを着た探偵が立っていた。もう彼の顔に笑みはなかった。記憶の中に出てきた男と同じ、凍てついた無機質な目でこちらを見つめているだけだった。
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