第6話



『リョウ』



 名前を呼ばれてふと気がつくと、目の前に少女が立っていた。それは幼い頃のリアだった。僕の手をとると、囁くように言った。

『今まで遊んでくれてありがとう。楽しかった』

『待って……行かないで』

 リアは黙って、僕に背を向け歩き出した。彼女の背中は小さくなっていく。僕は追いかけようと必死に足を動かしたが、なぜか全く進むことができない。

『待ってくれ』

 必死に走っても走っても、彼女との距離は広がっていく。息が上がり、それでも叫び続けるが、リアは一度も振り返ってはくれない。彼女の進む先はまるで沼のように暗く、光がなかった。

 僕は声の限りに叫んだ。

『行かないでくれ!』


「っ!」


 次の瞬間、目の前の光景は全て消えていた。夢と気づくのに、数秒かかった。息は荒くなっていて、服を見ると、全身冷や汗でぐっしょりと濡れている。

「……」

 自分の部屋の自分のベッドで、大きく深呼吸して、息を整えた。枕元のスマホのホームボタンを押し、時刻を見る。八時半。今日のバイトのシフトは十一時からだったな、と思いながら、朝食の支度のために起き上がる。食欲はまるでなかったが、軽く何か食べておこうと思った。バイト中に空腹で具合が悪くなっても困る。

 シャワーを浴びて服を着替え、台所でスクランブルエッグを作っていると、玄関のチャイムが鳴った。父はとっくに仕事に出かけ、母は居間の掃除をして聞こえないふりをしていたので、僕が応対した。

 ドアを開けると、見慣れぬ男がそこに立っていた。でかいナップザックを背負い、ジーンズとTシャツ姿に薄いジャンパーを羽織っている。いくら私服とはいえ、真っ当な社会人というにはどこかラフすぎる格好と雰囲気をしている。

「どちら様ですか?」

「あー……やっぱ、覚えてないよな?」

「?」

 僕が少し警戒心のこもった、ピンとこない顔をしていると、男は取り繕うように大げさな手振り身振りで説明をした。

「ほら、小さい頃、このあたりに住んでた西野だよ。覚えてないか? 昔たまに君と遊んでたんだけど……まあ君は四、五歳だったから、覚えてないのが当然かもだけど……」

「西野……」

 僕は記憶を辿り、やがて確か近所のどこかに、昔海外へ引っ越すことになった家があったことに思い至った。まだ幼くて好奇心の強かった僕にはそれが物珍しく、引越しの日に、わざわざ手紙を持っていったことを思い出した。

「お父さんの仕事の都合で海外に引っ越したっていう、西野さんですか」

「そう!」西野と名乗った男はぱあっと顔を輝かせた。

「でもなんで僕の顔がわかったんですか。あれから十年は経ってるのに」

「そりゃ、わかるよ。面影残ってるし、君、全然変わってないもん」

 全然変わっていない、という言葉に少し驚いて、黙ってしまった。自分ではだいぶ変わったと思っていた。他人から見るとそういうものなのだろうか。

「あ、それでね。久しぶりに日本に来たから、ちょっと顔見たくなってさ。今、忙しい?」

「え、いや……」

 僕は少し迷って、言葉を濁した。

 久しぶりに日本に来たということは、あの事件のことも、知らないのだろうか。いや、知っていたらまず僕に声なんてかけにこないだろうし、何か悪いことを考えているにしては、雰囲気が明るすぎる。そもそも彼のどこか無防備で馬鹿っぽい格好が、どうも人を騙そうとか考えている人間のものとは思えなかった。迷った挙句、僕は言った。

「まあ……バイトが始まるまでなら、時間あります。朝食がまだなんで、食べてからでもいいですか」

「おっけー。じゃ、公園で待ってる」

 彼はこれといって笑みも浮かべず、まるで昔から親友であったかのような気軽さで僕の肩をポンっと叩き、親指をグッと立てて見せた。彼が去ったあと、キッチンに戻って朝食の続きを作りながら、なんなんだ、と僕は思う。

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