第12話



 探偵が投げつけられたそれを避けている隙に、僕は事務所の入り口のドアへと走った。ドアまでの距離は探偵の方がわずかに近かったが、なんとか追いつかれる前にドアノブに手を触れることができた。だが、ノブに力を込めてドアを押し開こうとした時、背中に強い衝撃が走り、思わず呻いてその場に倒れた。前に後輩達に殴られたときとは明らかに違う、内臓にずしりと響く痺れと痛みが同時に体内を駆け抜けた。

「無駄だっていうのがわからないのか」

 床に伏したまま振り返ると、探偵はナイフを持っていない方の手を下に向けて振っていた。赤くなっている。僕は這ってでも逃げようとしたが、体中が痺れて思うように動かない。

「俺はね。伊達にあちこち旅したわけじゃないんだよ。時間なら有り余っていたからね、なんでもやったさ。ボクシング、テコンドー、サバット、コンバットサンボ、合気道……君のような軟弱な奴、屁でもない」

 探偵は刃物をカランと床に放り投げ、僕の上に馬乗りになると、片手で襟首を掴んだ。

「さて。少し痛いが我慢してくれよ。殺しはしない。死なない程度に殴って気絶してもらうだけだからな」

 そう言って彼は拳を振り下ろす。ガチンと嫌な音が頭蓋骨の中に響く。口の中が切れた。鉄の味がする。すぐさま左も殴られる。ぐわんぐわんと視界が揺らぐ。

「……たは、」

「ん?」

 何度かそれを繰り返されたあと、僕はうわごとのように、無意識に呟いていた。

「あなたは、やっぱり、かわいそうだ」

 髪を鷲づかみにして持ち上げられたのがわかった。痛みに薄目を開くと、目が合う。探偵は笑みを浮かべながらも怒りに震える声で囁いた。

「……君もしつこいな。俺のどこがかわいそうだって? 俺は世界から必要とされている。それに応えるための能力も十分に備わっている。十分に優れている。なのに俺の一体どこが、」

 僕は答えずに笑ってみせた。口の端から生暖かいものが伝って落ちていった。その時だった。


「おい、三波から離れろ!」


 探偵は弾かれたように僕から手を離し、声のする方を振り返った。いきなり現れた、彼の知らない第三者――西野の方を。

「もう警察には連絡したぞ。お前が何者か知らないが、とにかくやめろ。ゆっくり三波から離れるんだ」

 西野は手に護身用のスタンガンを持って、探偵のほうに向けていた。探偵は茫然自失のまま両手をゆっくりと挙げ、立ち上がった。

「お前は、なんだ……?」

 僕は声を絞り出して、床の上を指さした。

「ないふ、が、」

 西野は僕の声に気付き、すぐさま床のナイフを拾った。ナイフとスタンガンを構えて、西野は言う。

「三波に連絡もらって来てみたら、お前……よく見たら、柊木彰人じゃないか? なんで探偵がこんなとこにいるんだ。なぜ三波を殴ってた!」

 探偵はそれには答えずに首だけを回し、先生に答えを求める生徒のような目でこちらを見た。僕はまた声を絞り出した。

「今朝、本に触れて、そのあと……連絡した……」

 そう、僕は西野に連絡をしていた――文庫本に触れて探偵への疑念を自覚したとき、もしもの時のために、西野にメールで連絡をし、ここまで来てほしいと頼んでいた。現在地の住所を地図アプリで調べ、それを添付した。同じメールを一応父と母にも出していたが、母はあんな状態のため携帯もお飾りのようなもので、メールなど滅多に見ることはないし、父は仕事中は携帯を見ない。どちらも気付くことはなかったろう。しかし、西野は来てくれた。

「頼れるあてはなかったはずだろ」

 探偵は呆れたように言った。

「なんなんだよ、このいかにもバカっぽい奴。見た感じバックパッカーってとこか?」

「俺は三波の友達だ。うちの親は海外赴任が多くて三波とは小さい頃に親しくしただけだが、それでも友達だ。今日飛行機で日本を出る予定だったが、なんとか間に合ったみたいだな」

「そんなバカな話があるか!?」

 探偵は両手を挙げたままの格好で、勘弁してくれとばかりに叫んだ。呆れすぎて、もはや戦意を喪失したような顔をしている。

「そんな都合の良すぎる偶然があるか……海外赴任の多かった昔の友達の帰国? それが、たまたま俺の聞き込み調査と重なった? おまけにひとりはサイコメトラー? そんなことあり得るはずがないだろ! ふざけるな!」

「いや、たぶん、偶然じゃない」

 西野が答えた。

「俺、ほんとは知ってたんだ。うちの親、海外転勤が多いとしか近所には言ってなかったけど、本当はマスコミ関係の仕事しててね。でも俺は『記事が売れれば何でもいい』って親のやり方がどうしても認められなかった。そんなときに、三波の親戚の夫婦が殺されて、いとこが行方不明になって、三波の家がマスコミにつきまとわれて大変だってこと知って……知った直後はどうしていいかわからなかった。それで、親から離れて、一人旅を始めることにした」

 スタンガンとナイフを徐々に下げながら、西野は語った。

「過去にも、マスコミが騒ぎ立てたせいで遺された人や関係者が傷つけられることはたくさんあった。俺はそういう事件をスクラップしてまとめてた。そして柊木さんの事件もその中にあった。あなたには何の罪もないのに、勝手な憶測で周りから責められ続け、日本を去らなければならなかった。そして、十年前、その事件が起こった日が、ちょうど明日なんだ」

 探偵はあっけにとられた顔になった。それはさっきのような軽蔑したような呆れ顔ではなく、純粋な驚きの表情だった。

「は……?」

「あなたは優秀だから、自分のすべてを自覚的にコントロールしているつもりだったかもしれないけど、たぶん無意識のうちに家族の命日に合わせて帰国したんだよ」

 それを聞くと探偵は半笑いになって、弁解するように尋ねた。

「まさか、いや……だとしても、なんでお前が同じ日に来るんだ。しかも、同じ年に」

「それはほら、年末年始とクリスマスは混むし……日本の夏は暑いから。秋は台風も来るし。なら、春しかないだろ。そこらへんは本当にたまたまだったと思うよ。同じ年になったのは、三波が高校を卒業して、身辺が落ち着いてきたのが今年だったからだろ?」

 緊張を少し滲ませたまま、にっと西野が笑った。

「放浪者同士、考えることは同じだったってことだよ」


「……」


 探偵は見るからに戸惑っていた。

「どうしていいか、俺は……」

 両手を挙げたまま、彼が決まり悪そうにそう呟いたときだった。


 ガラスが割れる音がした。

 

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