3.あのレッサーパンダは研究施設とかその辺に送られてる

「それではホームルームを終わります。起立、礼」


 紡木の号令に、ありがとうございました、と大勢の声が鳴り響く。

 紡木が教室を後にすると、静かだった教室ががやがやと騒ぎ始めた。

 そのまま教室で駄弁り始める者もいれば、早々に帰り支度を始める者もいる。中学からの知り合いにでも会いに来たのか、他のクラスの生徒が教室内に入ってきたりもしていた。

 栞里はと言えば、早々に帰り支度を始める者うちのの一人だった。


「栞里ちゃん、お昼はどうするか決めてる?」


 澪も栞里と同じように帰り支度をしている。

 今日は入学初日ということで、入学式と顔合わせのホームルームしかなかった。

 学校に食堂はあるが、あらかじめ早めの解散が決まっていたために、今日は開いていない。


「家に帰って、適当に作るつもり」

「へえー。家庭的なんだね。栞里ちゃんの家は学校から近かったりするの?」

「歩いて一〇分くらい」

「わっ、近い! って言っても、私も自転車で一〇分くらいだけど」

「む……私も自転車で通学したい」

「ふふ、近すぎるとダメなんだっけ?」


 そんな他愛のない話をしながら、一緒に教室を後にする。

 廊下を歩く最中、ふと窓の方に顔を動かせば、中庭の光景が目に入る。

 弁当を持ってきていた生徒もいたようで、はらはらと桜の花びらが舞い落ちる中、ベンチに腰を下ろして友達と食べている姿が窺える。

 栞里は自分が社交的な性格とは言いがたいことを自覚している。中学時代、あんな風に一緒に昼食を食べるほど親しい友人はいなかった。

 羨ましいわけではないが、仲良く昼食を食べる姿が幸せそうに映って、自然と少し足を止めていた。

 そんな栞里の視線の先に、ひょこっと澪が顔を出す。


「ね、栞里ちゃん。さっきは栞里ちゃん、家に帰ってなにか作るって言ってたけど……よかったら、お昼どこかで一緒に食べて行かない?」

「一緒に?」


 思いもよらぬ誘いに栞里は目を瞬かせる。


「……うーん……」

「あ、ダメだったらいいんだよ! 栞里ちゃんがよかったら、だから」


 栞里が他の生徒が仲睦まじくお昼を食べている光景をボーッと眺めていたものだから、脈ありなのでは? と澪は思ったのだ。

 しかし予想外に芳しくなかった反応に、澪は少し気落ちしてしまう。


「わたし、今帰っても家に誰もいないし……一人でご飯食べるのって、なんだかちょっと寂しくて。その、ダメかな」

「ダメ、ってわけじゃない……けど」

「けど?」

「……外食はお金がかかる」

「そ、それはそうだけど」


 真剣な顔でお金が理由だと語る栞里に、澪はなんとも言えない気持ちになる。

 もしかして友達よりお金の方が大事な人なのかな……なんて失礼なことも密かに考えてしまったり。

 しかしそんな澪を横目で見て、これはわかっていないなと感じた栞里は、ずずいと一気に顔を寄せる。

 突然のことに面食らう澪の瞳を、逃さんとばかりにジーッと見据えた。


「澪……いい? よく聞いて。お金は大事。これがないと私たちは生きていけない」

「へ? う、うん……」

「私たちが着てる服も、食べてるものも、全部お金が関わってるの。お金で買えないものもあるって、人は言う。でも、人間社会において九割以上のものはお金で買えるの。お金、とても、大事」

「は、はい」


 かなりの剣幕だったので若干引き気味になってしまいつつ澪が首を縦に振ると、栞里は満足気に頷いた。


「……でも、勘違いはしないでほしい。私は澪と一緒に食べるのが嫌なわけじゃない」

「そう、なの?」

「そうなの。澪の誘いはとても嬉しかった。私も澪と一緒に食べたい。だから澪、もしよかったら外食じゃなくて、これから一緒に私の家で――」


 そこで不意に、栞里の言葉が止まる。

 不思議に思った澪が「どうかしたの?」と問いかけようとしたところで、栞里のその視線が澪の後ろの方へ凝視するように注がれていることに気がついた。

 気になった澪が振り返ってみれば、そこには一人の女子生徒がいた。

 無論ここは廊下だから、何人もの人が行き交っている。女子生徒という名詞に該当する人は山ほどいる。

 しかしその中でも、件の女子生徒だけは確かに栞里を見つめており、まっすぐに栞里の方に向かって歩いてきていた。


「……栞里ちゃんの知り合いの人?」

「ううん。知らない」

「……そっか」


(ならあの人、もしかして……)


 澪はその正体になんとなく心当たりがあったが、しかしだからこそ、ここはなにも言わず静観することに決めた。


「こんにちは。私は架空七夏かけぞらななか。あなたが花乃栞里ちゃん、でいいんだよね?」


 栞里が入学した間子葉ましよう高校では、学年ごとにリボンとスカートの色が違う。

 栞里や澪と言った一年生は赤。二年生は緑。三年生は青と区別されている。

 一年が経過すると、一年生と二年生の色はそれぞれ上の学年に切り替わる仕組みであるため、買い換える必要はない。

 そして今目の前にいる、七夏と名乗った女子生徒の色は緑。

 つまりは二年生だった。


「……」


 下級生が知らない上級生に話しかけられるという事態は、通常、下級生側が少なからず圧力を感じるものだ。

 だけど今回、栞里はその圧力を感じなかった。

 それはおそらく、この七夏という少女の気質に起因しているのだろう。

 明るく透き通った声は澄み渡るように耳に入る。

 初対面であるにもかかわらず、親しい人に向けるかのようにあどけない微笑みは、見る者の心を弛緩させた。

 くりくりと少し大きな瞳は琥珀のように鮮やかな反面、無邪気な子どものような好奇心も見え隠れしている。

 ふとした仕草でふりふりと揺れるツインテールはまさしく尻尾のようで、彼女の快活さを表しているように感じられた。


(……カツアゲかなにかかと思ったけど……悪い人ではなさそう? けど……)


 あなたが栞里でいいのかどうか。

 栞里は少し悩んでから、それに対する返答を決めた。


「かけぞらななか、先輩でしたか。お名前、どんな字で書くのでしょうか」

「うん? 空に架かる七つの夏って書いて、架空七夏だけど……」


 不思議そうな顔をしつつ答えてくれた七夏に、栞里はうんうんと頷いてみせた。


「なるほど……良い名前ですね。空に架かるという鮮やかで綺麗な名字に加えて、何度も訪れる夏のイメージ。とても奔放で爽やかな印象を受けます」

「そ、そうかな? なんか急に褒められた……へへ、ありがと」

「では、私たちはこれで失礼します。人探し頑張ってください」

「あ、うん。あなたも気をつけて帰るんだよー…………ん? ……あれ?」


 栞里は確かに、七夏のことを悪い人ではなさそうだと判断した。

 だがそもそもの話、そもそも栞里には知らない上級生から話しかけられるような心当たりがない。

 仮にあるとするなら、今朝のレッサーパンダ騒動くらいだ。

 もしもあれがすでに上級生の間にまで広まっているのだとすれば、誰かが好奇心で栞里に話しかけに来てもおかしくない。

 見てくれが良い人っぽそうでも、七夏がそういう輩ではないとは限らないのだ。

 ここはさっさと逃げるに限る。


「行こう、澪」

「え、えっ?」


 しかし自ら話を打ち切った栞里はともかく、澪の方は突然の状況の変化についていけなかったようで、うろたえた様相で栞里を見上げた。


「……あ、あの、いいのっ? し、しお――」

「塩焼きがいいの?」

「はぇ?」

シャケの塩焼き。私の家で一緒に食べよう」


 澪に名前を呼ばれて七夏に聞かれたらおしまいなので、半ば強引に言葉をかぶせつつ、栞里は澪の手を引いてそそくさと離脱を図る。


「いやちょ、待って待って!」


 だが残念ながら、栞里が澪を連れて立ち去るよりも、七夏が立ち直る方が早かったようだ。

 誤魔化された直後こそ呆然としていた七夏だったが、すぐさまハッとすると、慌てて栞里の進行方向に回り込んだ。


「えっと、あなたが栞里ちゃんでいいんだよねっ?」


 困惑を隠せない声色で問いかける七夏に対し、栞里はスッと人差し指を見せつけるように立てる。


「……栞という一文字の漢字は、本に挟む長方形の厚い紙の意味が広まっていますが、元々は木の枝を加工して作った道標の意味も持ちます」

「う、うん?」

「里へ、帰るべき場所へ導く道標。一緒にいると心が落ちつく人。その名前にはきっとそんな意味が込められています」

「そう、なんだ?」

「はい。それでは失礼しますね。人探し頑張って――」

「いやもうそんなんじゃ誤魔化されないから!」


 さきほどと同じように切り抜けようとしたが、さすがに二度も同じ手は通じないようだ。

 ササッと脇を抜けようとしたところで、体を滑り込ませるようにして塞がれる。

 むぅ、と栞里が内心で唸る一方、七夏もまた不満そうに口を尖らせた。


「もー。なんでそんな避けようとするのかな……もう一度、っていうか聞くの三回目だけど、栞里ちゃんってあなたのことで合ってるんだよね?」

「……ほら、窓の外を見てください。青い空、白い雲。ああ、今日はとてもいい天気ですね」

「ねえさっきから思ってたけど話題のそらし方露骨すぎない!? さすがに天気で騙される人はいないよ!」


 そう言われても、言葉を大切にすることが母の教えなのだから、悪意ある嘘をつくわけにはいかないのである。

 というか、その露骨なそらしにものの見事に引っかかっていたのが最初の七夏である。実にちょろかった。

 正直、もうこれ以上は誤魔化しきれそうにもなかったが……あの時のちょろさがまた発揮されないかというワンチャンに賭けて、栞里はもう少しだけ抵抗を試みる。


「ところで、なぜ空が青いのか知っていますか? 光は大気中の粒子に当たると錯乱を起こしますが、特に青い光は波長が短く錯乱が起こりやすく――」

「あーもう! そんな必死に誤魔化したって無駄なの! あなたが栞里ちゃんだってことは本当は最初からわかってるんだから! 私、間違えないようちゃんと事前に写真で確認してきたもん!」

「……写真?」

「そう! 写真! だからどんな内容で言い逃れようとしたって……だ? ……あー……」


 言葉の途中で、徐々にぎこちない笑顔になった七夏が、ギギギ、と壊れた機械のように首を傾ける。


「えっーっと……これ、言っちゃダメなやつだった、っけ……?」

「……」


 今、この七夏という上級生は写真と言ったか。

 だけど栞里は今まで自分の写真を誰かに上げた記憶はない。

 これが中学時代の同級生ならば、卒業名簿の写真で見たなどの可能性も考えられる。

 しかし相手は今日会ったばかりの上級生だ。

 レッサーパンダ騒動で少し悪目立ちしているかもしれないけれども、しょせんまだ起きて間もない出来事だし、写真が出回るほど有名になっているわけでもない。

 それなのにこの少女は、栞里のことを写真で見て知っていると言う。

 事前に確認してから接触を図ってきたと。そう言っている。


(……怪しい。悪い人ではなさそうと思ってたけど、そういう技術だった? プロの詐欺師とかってすごく優しそうな人に見えるって言うし……ストーカー……いや、やっぱり本当にカツアゲ……?)


 七夏はダラダラと冷や汗を流して、明らかにテンパっている。

 だがそれも演技である可能性を視野に入れて、栞里は七夏へとジトッと訝しげな視線を送る。


「あ、あはは……その、これは誤解で……」


 途端に精神的劣勢に立たされた七夏は視線を右往左往とさせながら、なんとか弁明を図る。


「と、とりあえず話を聞いてくれないかな? そうすれば今のこともちゃんと説明できるから……」

「……わかった」

「も、もちろん変なことはしな……へっ? い、いいの?」


 これまでの手応えのなさからして簡単には話を聞いてくれないと思っていたのだろう。

 栞里があっさりと承諾すると、七夏はポカンと呆ける。

 けれど当然ながら栞里は警戒を解いたわけではない。むしろこれ以上ないほどに高まっている。


「本当は無視して帰りたい。けど、私のことをどうやって調べたのか、今のうちに知っておかないとまた同じ目に合うかもしれないから」

「あ、そういう理由なんだ……」


 不審者でも向けるかのような目と言葉。

 抱きかけた期待から一転、七夏は一気に落胆した様子で肩を落とした。

 ついでに言えば、栞里が使っていた七夏への敬語もいつの間にかなくなっている。

 七夏は最低限栞里が抱いてくれていただろう先輩への尊敬の念が彼方へと吹き飛んでしまっている現実に直面しつつも、なんとか気を取り直そうとかぶりを振った。


「はぁ……まあでも、話を聞いてくれるならそれでいっか……じゃあちょっと、とりあえず人気のないところに――」

「待って。その前に、話を聞く条件が一つ」

「ん? 条件って?」

「簡単なこと。あなたが話そうとしてたこと、私の写真のこと。その全部をここで話して」

「こ、ここでっ?」


 今栞里たちがいる場所は、廊下だ。栞里たち以外にも多くの生徒が行き交っている。


「どうして迷うの? もしあなたの話とやらが後ろめたいことじゃないなら、ここでも話せるはず」

「そ、それはそうかもだけど……」


 七夏はあからさまに引きつった顔で辺りを見渡している。

 やはり、なにか人前では話しにくい事情があるらしい。

 栞里は七夏を睨むように鋭く目を細めた。


「それができないなら、話はこれで終わり。あなたが話してくれないなら私はこれから職員室に行って、あなたが私の写真を持ってることについて知らないか問い詰めに行く。学校側から漏れたのかもしれない……場合によっては警察も必要かも」

「そ、そこまでっ!?」

「当たり前。これは肖像権にも関わるかもしれない大きな問題。このジョーホー情報化社会で、私が把握してない範囲で私の個人情報が広まってる可能性がある以上、放ってはおけない」

「め、目が本気だ……」


 情報化という単語がなんか片言じみて聞こえたのはきっと気のせいだ。

 ここで引いてしまえば栞里は本当に事を大きくする気だと悟った七夏は、観念したように顔を伏せる。


「うぅ……わ、わかったよ。話す……ちゃんとここで話す……」

「じゃあ、どうぞ」


 栞里が聞く姿勢に入ると、ちゃんと話すと言った割に、七夏は躊躇するように閉口した。

 いや、実際には何度か口を開いて言おうとはしているのだが、そのたびに周囲を気にして、誰かが近くを通るとすぐに言うのをやめてしまう。

 恥ずかしそうに耳を赤くして、聞こえないくらい小さな声で口をもごもごとさせて。

 そんなことを何度も繰り返しているものだから、いい加減栞里も付き合っていられず、さっさと立ち去ろうかという思考が頭の隅をよぎり始める。

 そんな時だった。七夏の口から、その言葉がぽつりと漏れたのは。


「栞里ちゃんは、その……魔法少女って……興味ある?」

「っ……」


 それは、昨日までの栞里なら「テレビアニメの話?」と軽く受け流すだけだろう単語だった。

 だけど今日の栞里は、彼女の発言をそのように一蹴することはできなかった。

 なぜなら七夏は今、しゃべるレッサーパンダもどきが今朝言っていたことと同じ単語を口にしたのだ。


「私さ、魔法少女なんだ。そしてあなたにも、魔法少女になれる資格がある……あなたも、私と同じ魔法少女にならない?」

「……」


 栞里はレッサーパンダがしゃべること、そしてそのしゃべった内容を、澪以外に話していない。

 澪はずっと一緒に行動していたので、澪が言いふらしたなんてこともありえない。

 なのに七夏は、あのレッサーパンダとまったく同じことを言っている。

 チラチラと周りを確認しながら、他の人に聞かれないように小声ではあるものの……確かに同じことを。

 そんな七夏を呆然と眺め……すべての真実を悟った栞里は、七夏に近づくと、その肩にポンと優しく手を置いた。


「……大丈夫?」

「へ? だい、大丈夫? え、な、なにが?」


 突如柔らかい声で心配されて、七夏は呆けた声を上げる。

 いつの間にか、栞里の警戒心の一切が消え去っていた。

 そして七夏を見つめる彼女のその瞳は、なにやらまるでかわいそうなものを見つけたような憐憫のそれに変貌している。

 あまりの態度の急変化に七夏の理解が追いつかない中、栞里は静かに瞼を閉じる。


「あなたのこと、悪い人かと思いかけてた。でも、違った……あなたもあのレッサーパンダの被害者だったんだ」

「ひ、被害者? た、確かに関係者ではあるけど……」

「大丈夫……わかってる。私と違って、あなたは騙されちゃってるんだよね。あのレッサーパンダの妄言に……でも、安心して。あのレッサーパンダはもう交番に送り届けたから。きっと今頃動物園とか研究施設とかその辺に送られてる」

「いやあの、そのレッサーパンダの子はなんていうか……私の友達、みたいな……? 決して騙されてるとかじゃなくてね……?」

「……」


 栞里はうんうんと同調するように頷いた後、七夏の手を自分の両手でそっと包み込んだ。


「大丈夫。大丈夫だから。ちゃんと全部わかってる」

「ほ、ほんとに? 本当にわかってくれてる?」

「もちろん。なにも心配することなんてない。だから……一緒に、病院で頭見てもらおう?」

「いや別に頭おかしいわけじゃないよ!? 全部本当のことなんだってば!」

「わかってる……全部わかってる。今まで辛かったよね」

「なんにもわかってくれてないけどっ! くっ……ダメだこの子、話を聞いてそうでまるで聞いてくれてないっ!」


 とにかくちゃんと話を聞いてくれと七夏は必死に主張するが、栞里は耳を貸さない。

 なぜなら栞里にとって、すでに七夏は「件のレッサーパンダに洗脳されて頭がかわいそうになってしまった人」だったからだ。

 つまるところ、まともに取り合うことそのものが無駄と思われてしまっていた。

 この言い争いは、どこまで行っても平行線だ。


「だから頭を打ったとかじゃないんだってばー!」


 あまりにギャーギャーとやかましく騒ぐものだから、何事かと次第に周囲の視線が集まり始める。

 少し離れた場所で物珍しげに観察する人だかりさえ出来始める始末だ。

 七夏はせめてこの場で目立たずに話すことを望んでいたのだろうが(その割には一番騒いでいるが)、ここまで注目を集めてしまえば、もはやそれは叶わぬ願いだ。

 そんな中、二人に折衷案を持ち出したのは、これまでずっと黙っていた澪だった。


「あ、あのっ、栞里ちゃん! ……このままだと先生呼ばれちゃうかもだから、とりあえず別の場所で話を聞いてあげたらどうかな……?」

「澪……? でもこの人は」

「大丈夫だよ。栞里ちゃんが言ったように、この人はきっと、そんなに悪い人じゃないから。だから……ね?」

「……澪……」


 逃げるなら、澪と一緒に。

 初めからそう考えていた栞里は、その澪から話を聞くように提案されてしまって、困ったように立ち尽くした。


(栞里ちゃんって、レッサーパンダ……ううん。しゃべってたあの子を問答無用で捕まえて警察に届けちゃったんだもんね。こうなっちゃうのも、よく考えたら自然な流れだったのかも……)


 ……実のところ澪は、七夏がどのような意図で栞里を訪ねてきたのか、そして魔法少女がどういう存在なのかを知っている・・・・・

 だが、それを栞里に話すことは澪の役割ではない。

 だから栞里と最初に顔を合わせてからこれまで、魔法少女についてはずっと話さず伏せていたし、本当は、栞里と七夏のやり取りも最後まで静観するつもりだった。

 しかしここまで騒ぎが大きくなってしまったからには、もうそんな悠長なことを言っているわけにもいかなかった。


「……わかった」


 栞里は自分の心を落ちつけるように息をついた後、コクリと頷いた。


「澪がそう言うなら、話を聞くこともやぶさかじゃない」

「ありがとう、栞里ちゃん」


 澪にそう屈託のない笑みを向けられると、栞里もなんだか嬉しくなって、ちょうどいい位置にあった澪の頭を撫でた。

 一方、七夏は納得のいかなそうな顔で栞里をジトーッと見つめる。


「なんかあっさり言うこと聞いてる……私がなに言っても聞いてくれなかったのに……」

「澪は常識人だから」

「その言い方だと私が非常識みたいになるんだけど」

「……魔法少女にならないかって人前で言い出すのは、非常識だと思う」

「人前で言う羽目になったのはあなたのせいだからねっ!? ……ま、まあいいや。これ以上ここにいたくないし……とりあえずついてきてくれる? ちょうどいい場所があるからさ」


 返事も聞かず、七夏はそそくさと踵を返す。

 一瞬、このままついていかずに昇降口へ直行する選択が栞里の頭をよぎった。

 正直な話、これ以上頭のおかしい妄言に付き合わされるのはごめんだ。

 しかし栞里はこれでも言葉を大切にすることを信条にしている。

 一度は話を聞くことを了承した手前、約束を違えることはどうしてもはばかられた。

 どうしたものかと、栞里がなんとなく澪の方に顔を向けてみると、ちょうど彼女も栞里の方を見ていて、二人の目が合った。

 澪は栞里にこくりと頷いてみせると、先に足を踏み出し、振り返って言った。


「行ってみよう? 栞里ちゃん」

「うん」


 栞里は迷いなく首肯する。

 いずれにしても、栞里は七夏がどうやって栞里の写真を入手したのか知らなくてはならない。

 そうでなければ、この先どんな目に合うかわかったものではないのだし。


(鬼が出るか、蛇が出るか……)


 一抹の不安を覚えつつも、栞里は澪とともに七夏の後を追うのだった。

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