19.ちょうど手に収まるくらいが好み
二人が栞里の家に帰ってくる頃には、辺りはすっかり暗くなってしまっていた。
「その……本当にごめんね、栞里ちゃん」
「それは何度も聞いた。澪が謝ることじゃない」
家族の状態を事前になにも教えず病院に連れて行ってしまったこと。栞里に辛い気持ちを味わわせたこと。他にもいろいろ。
そんなことの一つ一つで、道中ですでに同じ謝罪の言葉を数え切れないほど聞いていた栞里は、若干呆れながら同じ答えを返す。
しかし栞里の返事に、すっかり瞼を泣き腫らしてしまっている澪は「そうじゃなくて」と、ふるふる頭を振った。
「その……服……」
「服?」
「栞里ちゃん気づいてないけど……わたしが泣いたせいで、ぐちゃぐちゃになってるから……それも、よりにもよって制服が……」
気まずそうに視線をそらす澪の言葉を聞いて、栞里はようやく自分の体を見下ろして、その惨状に気がついた
澪が顔を埋めていた辺りが湿ってふやけて汚れてしまっている。
「…………乾けばきっと大丈夫」
「答えるまで間があったけど……」
「……」
栞里は無言で制服を摘むと、湿った部分を鼻に当てて息を吸い込んだ。
澪は一瞬ぽかんとした後、瞬時に顔を真っ赤に染めて栞里に詰め寄る。
「ちょ、ちょっとぉ!? なにしてるの栞里ちゃんっ! 汚いよ!?」
「大丈夫……澪の香りしかしない。これなら乾けば大丈夫……」
「全然大丈夫じゃないからぁっ!」
主にわたしの方が! という心の声が今にも聞こえてきそうな叫びだった。
「ク、クリーニング代ならわたしが出すし……ちゃんと洗おう? ねっ?」
「むぅ」
「制服は大事にしないと!」
澪の凄まじい剣幕に押されて、栞里はしぶしぶ了承する。
澪は心底ほっとしたように胸を撫で下ろした。
(し、栞里ちゃん、たまに平気な顔でとんでもないことしでかすなぁ……)
動転したせいで未だドキドキと激しく脈打っている心臓を落ちつかせながら、澪は栞里とともに居間に向かった。
昨日と同じように二人で台所に立って、夕飯を作る。
昨日と同じように……。
「えへへ」
栞里に家族の様子を見せに行こうとした時から、澪はもう、栞里と今まで通りに接することはできなくなるだろうと思い込んでいた。
でも今、すべてを話した後でも変わらず、栞里は自分の隣にいてくれる。
それがなんだかたまらなく嬉しくて、澪は調理中、たびたび堪えきれず笑みをこぼしてしまっていた。
「昨日はわたしが先に入れてもらったから、今日は栞里ちゃんが先にお風呂かな。その制服も、あんまり長く着てない方がいいだろうし」
夕飯を食べ終えて、澪がそう言うと、栞里は肯定の返事も否定の返事もせず、じっと澪を見つめ始めた。
「えっと……どうかした? 栞里ちゃん」
「昨日は一人ずつだったから、今日は一緒に入ろう」
「はい? ……え、えぇええっ!? 一緒にって、あの、一緒にお風呂に入るってことっ?」
「それ以外にどんな意味が?」
「い、いや……でも……」
高校生にもなってそれは……と澪が躊躇していると、栞里が見るからにしょんぼりし始める。
「むぅ……駄目?」
「だ、駄目…………ではない、けど……」
「……けど?」
「…………駄目じゃない、です」
「そっか。じゃあ、せっかくだから一緒にお風呂、入ろう」
お風呂の話になった時に、ずっとそれを言い出そうとしていたのだろうか。
二人で一緒に入るのがそんなに楽しみなのか、栞里の目はきらきらとしていた。
そんな目をされては前言を撤回して断れるはずもなく、澪は縮こまりながら栞里の後に続いた。
着替えを用意し、脱衣所で服を脱いで、浴室へ。
一緒に入るとは言っても、栞里の家はそこまで広くはないし、お風呂も一般家庭のそれと大差ない。
さすがに十代後半の少女が二人入るには手狭で、当然ながら体を洗うのも順番ずつだ。
(……もしかして、わたしが一人になる時間がないよう、栞里ちゃんなりに気を遣ってくれたのかな……)
一足先に体を洗い終え浴槽に浸かっている澪は、髪を洗う栞里をぽーっと眺める。
(わたしはもう……平気なのになぁ)
今なら、なんとなくわかる気がする。
自分はたぶん、きっとずっと心のどこかで、誰かに自分のことを全部話して、思い切り甘えてしまいたかったのだ。
痛みも、悲しみも、苦しみも、怒りさえも。
その全部を受け止めて、受け入れてほしかった。
でも、そうしてくれるような人はもういないから。そうしてくれるかもしれなかった人こそを、失ってしまったから。
だから諦めてしまっていた。
でもそんな自分に、栞里が手を差し伸べて、救ってくれた。
感謝してもしきれない。
(……それにしても……)
年甲斐もなく栞里の胸に抱きついて、泣きわめいた時のことを思い出す。
あんなことをしでかしてしまった恥ずかしさだとかなんだとか、そういう気持ちはもちろんあるが、澪が今思い出しているものはそういう感傷的、もといセンチメンタルな感じのものでは全然なく、もっとずっと現実的なものだった。
(…………栞里ちゃんの胸、柔らかかったな……)
あられもない姿で体を洗う栞里を見ながら、澪はそんなことを思った。
(紗代先輩よりは小さいにしても……栞里ちゃんもなかなかだよね。や、紗代先輩が大きすぎるだけなんだけど……でもわたしは、栞里ちゃんくらいの方が好きかも)
頭の中だからと割と好き勝手なことを考えつつ、澪は栞里から視線を外すと、比べるように自分の体を見下ろした。
(……ちんちくりんだなぁ)
はぁ、とため息をつく。
ちょっとはあるけれど、栞里や紗代には到底及ばない。七夏になら勝てるかもしれないが、五十歩百歩だ。
(うーん……大きいのと小さいの……)
「栞里ちゃんは、どっちが好きなんだろ……」
「私がどうかしたの?」
「栞里ちゃんは、大きいのと小さいの、どっちが好きなのかなって……」
「なんの大きさ?」
「なにって、だからむ――――ひゃわぁっ!? し、し、栞里ちゃんっ!?」
髪と体をちょうど洗い終え、急に名前を呼ばれたから反応しただけだったのだが、なぜか異様に驚かれて、逆に栞里の方が目を丸くした。
「え。ど、どうしたの澪。大丈夫……?」
「だ、だいじょ、だいじょぶ……だ、だけど、い、い、いつからわたし……ど、どこから口に出てた、の……?」
「私が大きいのと小さいの、どっちが好きかって……結局なんの話?」
「えっと、あの、その……か、か、か」
「か?」
「カレーのにんじん! 栞里ちゃんは大きく切ったのと小さく切ったのどっちが好きなのかなってっ!」
目を右往左往とさせた後、瞼を力いっぱい閉じながら全力で言い切る。
あまりにも苦しすぎる言い訳だったが、栞里はこんなしょうもない言い訳で納得してしまったようで、なるほどと頷いた。
「私は小さい方が食べやすくて好き。中に火も通りやすくて、口の中で柔らかくとろけてくれる。澪は?」
「わ、わたしはその、大きくも小さくもない普通くらいの大きさが、食べごたえもあっていいかなって」
「そっか。じゃあ明日は澪の好みに合わせたカレーにしよう」
どうやらカレーを食べたいと思われてしまったようである。
得意げに人差し指を立てて提案する栞里に澪は内心謝った。
入浴を終えると、栞里の部屋で他愛もない話をする。
栞里はたびたびあくびをして、ずいぶんと眠そうにしていた。
それもしかたない。澪が朝早くに出かける際の物音で目覚めて、ずっと起きたままだったのだ。
澪は早朝の外出をここ最近何度も続けていたから慣れたものの、栞里はそうではない。
「明日は休日だから、一日中精霊獣探しができるね」
今日は明日に備えて寝ようということになると、明日することを確認するように栞里が言った。
「……うん。でも、栞里ちゃん。本当に……」
本当についてくるの? と。
言いかけた言葉は、栞里に制止される。
「私も澪と同じ気持ちだって、そう言った」
「……ん」
栞里がいなくなったら澪が悲しむように、逆も同じだ。
そう言われたら、澪はもう言い返せない。
「……ねえ、栞里ちゃん」
「うん?」
「今日は、一緒のお布団で寝てもいい?」
「うん」
二つ返事だった。
お風呂の時は栞里が言い出したことだったが、今回は澪の方からだ。
(えへへ。わたしはもう平気だけど……今日くらい弱ったふりして甘えたって、罰は当たらないよね)
澪は栞里の布団に潜り込むと、向かい合って横になった。
顔が近くて、なんだかちょっとこそばゆい感じがして、少しずつ体温が上がってくる。
照明が消えると、栞里の顔が見えなくなって、ちょっとだけ不安になった。
だから澪は、布団の中で栞の手を手探りで探し当てて、ぎゅっと握った。
栞里の体温が、手のひらを通して伝わってくる。
(栞里ちゃんの匂い……なんだか、安心する……)
次第に澪の意識は遠くなっていく。
二人で入る布団の中はちょっと狭くて、少し暑苦しかったけれど。
大切な人と手を通して繋がっている距離感と、その居心地は、他のどんな場所よりも心地よく、心から安心できるものだった。
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