26.どうにもならないことで溢れていようとも

「遊べる時間はまだあるわぁ。ゆっくり遊びましょう?」


 栞里が背にする時計台の上を流し見して、エプシロンは両手を広げた。

 すでに一つだけ展開していた魔法陣にさらに四つが追加され、計五つになる。

 栞里と澪の二人を相手にしていた時は最大で一〇まで同時展開していたので、どこからどう見ても手加減モードだ。

 五個程度が栞里で遊ぶのにちょうどいい数だとでも言いたげである。

 ……いや、実際そうなのだろう。

 エプシロンにとって、こんなものはしょせん遊びなのだ。おいしいものを頂く前のスパイス。軽い運動に過ぎない。

 栞里が使った、大量の魔力粒子による砲撃――魔砲の威力は、すでにエプシロンにも知られてしまった。

 もう無防備に食らってはくれないだろう。


「……なら!」


 魔砲は隙が大きすぎるため一度控え、エプシロンを狙う素振りを見せつつも、直前で照準を変えて魔弾の引き金を引く。

 狙ったのは、五つある魔法陣のうちの一つだ。

 栞里の魔弾は澪が使う魔球ほどコントロールは効かない。だが速度だけなら、魔球どころか魔槍よりも数段速い。

 狙い通り、魔法が放たれる前に魔法陣の破壊に成功し、一時的に魔法陣の数を四つにできた。

 その次の瞬間には、その四つのうちの一つが魔槍が生成し、栞里目がけて発射される。

 それを上空に跳んで躱し、着地するよりも早く、栞里は魔法陣へと再度照準を合わせた。


(魔法の消費速度を早めさせる!)


 エプシロンの魔槍の魔法で脅威なのは、一発一発を休む間もなく連続で放たれる上、最後の一つを放つ頃には最初の魔法陣が再展開されていることだ。

 だけどそれは逆に言えば、同時に二つ以上の魔法を撃つことはしないということでもある。

 同時に使ったりなどして魔法の消費速度が早まれば、自ずと再展開が間に合わなくなり、魔槍を撃てない時間が生まれてしまう。

 栞里はその弱点を狙うことにした。

 栞里の補助具は双銃型。一度に二つまで魔弾を射出することができる。

 つまり、その二つの弾丸で同時に二つの魔法陣を狙えば、片方は必ず撃ち抜けるという寸法だ。


「へえ」


 栞里の狙いに気がついたエプシロンが、感心したように声を上げる。しかしまだまだ余裕そうだ。

 栞里が放った二つの魔弾の片方は確かに魔法陣を撃ち抜いた。しかしもう片方は、先に生まれた魔槍に打ち消される。


(これで、軌道を……!)


 空中にいる以上、まともな回避行動は取れない。

 だから栞里は片腕を動かし、明後日の方向へと魔弾を放つ。

 するとその反動で栞里の体は逆方向に押し出され、栞里の横を魔槍が横切った。


「あと、一つ」


 着地と同時にエプシロンの背後に展開されている魔法陣の数を再度確認し、これなら行けると判断して栞里は前へ飛び出した。

 最初に一つ破壊し、上に跳んだ際の同時撃ちでもう一つ破壊した。この時点でもう二回分の時間の余裕がある。

 走りながら、残った一つの魔法陣にも魔弾を撃つ。

 その栞里の攻撃は先に生み出された魔槍を前に消えてしまったが、それでいい。使わせることが目的だ。

 魔弾を撃っていた関係で回避できず、脇腹が穿たれ、臓器が混じった赤黒い血が宙を舞った。衝撃で下がりかけた体を、無事だった方の手に握ったハンドガンから撃ち出した魔弾の反動で支える。

 受けた傷はすぐに治した。そしてその頃にはもう、栞里はエプシロンの障壁の目前にいる。


「この距離なら!」


 装填する魔法を切り替え、二丁のハンドガンの銃口をエプシロンに向ける。

 だけど引き金を引く寸前で、エプシロンが小さく笑みを浮かべたことに気がついて、指が止まった。

 笑みと同時に、エプシロンの目線が一瞬だけ下を向いていた。もしかしたら。


「っ、つぅ……!」

「あら。なかなか勘が鋭いのねぇ」


 咄嗟に飛び退くと、一瞬前にいた地点の真下から魔槍が飛び出してきた。

 気づかないうちに、足元に魔法陣を作られていたのだ。

 しかしギリギリで回避は間に合った。今度こそ、至近距離から魔砲を撃ち込める。


「貫いてっ!」


 回避のために下がったぶんだけ踏み込み、二つの銃口から藍色の奔流を放射する。

 エプシロンが言っていた通り、この魔法は反動が非常に大きい。

 正しい姿勢で撃たなければ、腕が補助具の暴れを制御し切れず射線はめちゃくちゃになる。下手をすれば肩が外れることもあると言う。

 レンダからは魔力結晶に入れない方がいいと口酸っぱく注意された魔法だ。

 それでも、もしもの時のためにと無理を言って入れてもらった。これを強引に制御するための、魔力の膜を張る魔法とともに。


「くっ、ぅぅ……!」


 栞里は魔砲と同時に、背中の後ろと、それから腕を包み込むように、物質化した魔力の膜を張った。

 これは、反動でのけ反りそうになる栞里の肉体を無理矢理その姿勢に留めるためのものだった。

 こうすればどんな姿勢で撃とうとも関係ない。射線がそれることもない。

 だが、こんなことをすれば栞里の体には多大な負荷がかかるのは必然だった。

 本来ならのけぞり、空に逃げるはずの負担や衝撃が、余すことなく栞里の肉体に襲いかかる。

 骨が軋み、ぶちぶちと体の中から嫌な音がした。視界が白く弾けて、尋常でない激痛が体中を走り回る。

 通常であれば二、三秒で音を上げるか体の方が限界を迎えるところだが、栞里には唯一無二の《回復》の特異魔法がある。

 一瞬前の状態を常に復元し続けることで、その身はどんな負荷にも耐え続けることができた。

 もっとも、それは発射している間中、想像を絶する苦痛を味わい続けることにほかならないが。


「ぐ、ぎ……!」

「…………」


 障壁に亀裂が入る。あと少しだ。もっと出力を上げなくては。

 魔力を注ぐごとに、痛みが増していく。

 筋繊維がちぎれ、治り、またちぎれ、治り。骨が折れ、砕け、治ってはまた折れて砕ける。

 治ってしまうからこそ、常に鮮烈な激痛が駆け回っていく。

 体の内側から強引に引き裂かれ続けるかのようなそれは、外部からの刺激による苦痛とはわけが違った。


(でも、澪が味わった痛みに比べたら、こんなもの……!)


 エプシロンの向こう側の木の下でぐったりとしている、彼女の姿が目に留まる。

 澪は、優しい普通の女の子だった。

 いつも明るく、笑顔を絶やさない。

 自分がどんな境遇に置かれようと、誰かの力になりたいと自然に思えるような、心の優しい女の子。

 本当なら今だって、自分の家で、家族と当たり前の幸せを過ごしていたはずだった。

 普通に生きることができていれば、こんなところで血まみれで倒れ、苦しむこともなかった。

 エプシロン。澪の家族の仇。すべての元凶。

 許すわけにはいかない。

 倒さなくては。もう全部、ここで終わりにしなければ。

 この先の未来を、澪と一緒に歩くためにも、絶対に。


「…………残念。時間切れよ」


 だがそんな栞里の思いは、届いてはくれないようだった。

 エプシロンが片手を横に広げれば、新たに魔法陣が出現した。

 そしてそこから容赦なく魔槍が放たれる。

 魔砲の発射中は回避行動が取れない。

 死が目の前に迫る最中、栞里は咄嗟に腕と背を支えていた魔力の膜を解いた。

 すると途端に魔砲を制御し切れなくなり、凄まじい反動で栞里の体がのけ反る。

 だがそれでも、魔槍を完全に回避するまでには至らなかった。

 両足の膝から先を持っていかれ、魔砲の反動にさらに魔槍が地面に衝突した爆風が追加されて、栞里の体は勢いよく後方へ吹っ飛んだ。


「ごふっ……!」


 再び時計台の柱に背中を打ちつけ、口の中に血の味が広がった。

 一瞬遅れてぐちゃりと無様に地面に這いつくばる。

 破壊された両足からドバドバと血が流れ出ていた。意識が朦朧とし、体の感覚が希薄になっていく。


(早く、回復を…………あ、あれ……)


 これまでのように《回復》の魔法を使おうとした。

 だけどどうしてか、うまく使えない。

 エプシロンになにかされたのか? 魔法の発動を妨害する魔法?

 ……違う。そんなんじゃない。たとえ精霊でも、特異魔法を御することなどできるはずがない。


「魔力切れね。新米のくせして、あれだけの魔法を長時間使い続けたんだもの。当然ねぇ。むしろ今までよく持った方だわぁ」

「魔力……切れ……」


 栞里はまだ魔法少女になって日が浅い。元々ヘイトリッドと短い戦闘を行っただけでも、その後三〇分は寝込んでしまっていた。

 栞里の心はまだ、魔法を長時間使い続けられるほど仕上がっていないのだ。

 むしろエプシロンの言う通り、ここまでよく持ち堪えた方なのだろう。

 大量の出血に加えて、心の疲労。

 全身が鉛のように重い。指先一つ動かすことさえ億劫だった。


「だから言ったのにねぇ。人間は精霊には敵わないって」

「ぐ……ぅ……」

「どんな思いや覚悟を抱こうと、結局全部無駄なのよぉ。そんなものでどうにかできる世の中なら、私みたいなのが蔓延ってるはずがないもの」


 それは紛れもない正論だった。

 スポーツを始めたての人間がプロ選手と同じプレーなどできないように、残り時間わずかで大差がついてしまった試合で逆転などできないように。

 この世界には、思いの強さだけではどうにもならないことが星の数ほど存在する。

 これもまた、その一つに過ぎないのだ。

 栞里と澪の二人ではエプシロンには決して勝てない。

 エプシロンはそのことをわかっていた。だから殺すのではなく、瀬戸際を演じて遊んであげていたのだ。

 無駄な希望を抱く愚かな二人を、その希望ごと、後でまとめておいしくいただくために。


(……そうだ……私は、知ってた。最初から……)


 それは魔法少女になるよりも、高校に入学するよりも、ずっと前の記憶。

 あの頃もそうだった。

 しんしんと雪が降り積もり、枯れた木の葉が舞い落ちる。

 肌寒い空気から身を守るように、いつもマフラーに顔を埋めていた。


『ごめんね、栞里』


 母を想起する時、初めに思い出すのはいつもその言葉だ。

 昔からいつも、ずっと謝ってばかりだった。

 貧乏でごめんなさい。苦労をかけてごめんなさい。好きなことをさせてあげられなくてごめんなさい。

 病気になんてなってしまって、先にこの世を去ることになってしまって、ごめんなさい。

 栞里はそれが嫌いだった。ごめんなさいだなんて、そんなことを言ってほしいわけじゃなかった。


『一つ目は、言葉を大切にすること。言葉は力を持つから』


 なにを言ってほしかった? どんなことを言ってもらえたら満足だった?

 いくら考えても答えは出ない。もしかしたら、どんな言葉でも足りなかったのかもしれない。

 大切な思いはすべて過去に置き去りにしてきてしまった。もう二度と拾い上げることもできない。


『二つ目はね、あなたを大切にしてくれる人を、大切にすること』


 澪は栞里のことを、母を治してあげたかったのだと言っていた。だから《回復》の魔法が生まれたのだと。

 でも、それは違う。

 栞里は母を、治したかったわけじゃなかった。そんなことを願ったわけじゃない。

 栞里の願いはもっと醜く、独善的で、許されるはずもないことだ。


『あなたに大切にしてほしい、三つ目のことはね――』


 そこは、記憶の果て。

 白い病室で、あの人は弱々しく栞里の手を掴んで、嗚咽の混じった声で、続きを言った。


『あなた自身の幸せを、見つけること』

『私の……幸せ?』

『そう。あなたが楽しいと感じること、嬉しいと感じること……そういうものに耳を傾けてほしいの。栞里。あなたが幸せだって感じることってなにかしら?』

『……お菓子がいっぱい食べられたら幸せかも?』

『ふふっ。じゃあ、高校に入ったらアルバイトでも始めてみるといいかもしれないわね』

『アルバイト?』

『自分で稼いだお金で欲しいものを買ってみるの。きっと心に残る思い出になるわ』

『ふむぅー』

『他にはなにかないかしら? もしこうだったら幸せかもっていうこと』

『……』


 ずっとずっと、栞里は願っていた。

 許されるはずもなく、叶うはずもない、それを。

 栞里は迷った。それを、口にしてしまっていいのかと。

 言葉にしてしまえば、きっと自分は、今目の前にある現実を受け入れなくてはいけなくなる。

 怖かった。今まで当たり前のようにあった日常が崩れることが……いや、すでにそれが崩れ始めてしまった現実を、認めたくなかったのだ。

 幸せ。自分にとっての、幸せ。

 そんなもの、本当は考えるまでもない。


『お母さんと、ずっと一緒にいたい』

『……栞里……』

『明日も、明後日も、明々後日も……この先も、ずっと……もっと、いっぱい……』


 嗚咽が交じる。溢れ出した涙が止まらない。

 今日までずっと、なんてことないように装っていたのに。涙なんて出なかったのに。

 どうしてこんな、今になって。

 どうせこんな思い、叶わないのに。もう一緒にはいられなくなるのに。

 どうして……。


『……ありがとね、栞里』


 いつもそうするように、母は栞里の頭を撫でた。

 優しく温かい、安心する手のひらが。

 あとどれだけこの感触を味わえるのだろう。あとどれだけの時間、一緒にいられるのだろう。

 考えるだけで、胸が苦しくなる。泣き叫びたくなる。

 戻りたい。もっとずっと、昔に。

 なんの不安もなく笑い合えた、幸せな日々に。


『私は幸せだったわ、栞里。あなたがいてくれたから。今日までずっと笑っていられた』

『わた、しは……』

『大丈夫。あなたならきっと見つけられるわ。あなた自身の幸せを……』


 だから、ね。

 そう言って、母は栞里を抱き寄せた。


『……今だけは……あなたと一緒にいさせて』

『おかあさん……』

『……ごめんね。ダメなお母さんでごめんね。見送らなきゃいけないのに。もうすぐ別れなきゃいけなくなるのに……一緒にいたい。私ももっと、栞里と……』


 涙声で言いながら、震える手で、彼女はいつまでも栞里を抱きしめ続けた。

 どんなに強く願おうと、どんなに強く思おうとも、どうにもならない。

 それでも願わずにはいられなかった。

 ……母を亡くし、栞里は毎日を空虚に生きた。

 毎日毎日、同じことを繰り返す。

 家に帰って、ご飯を作って、帰りが遅い母を待つ。

 何十分も、何時間も、待ち続ける。

 今日は帰ってくるだろうか。明日はどうだろう。明後日は。

 時間が〇時を回ると、夜更しはダメだと母に怒られるような気がして、いそいそと寝支度をした。

 ラップをかけた一人分の夕食は、次の日の朝には捨てなきゃいけなくなるのに、ずっとそのままで。

 以前と同じ、変わらない日々を機械のように繰り返して、もう二度と帰らない人を待ち続ける。

 大好きだった母の温度が残った生活を、いつまでもいつまでも。

 そんな毎日だった。


『えっと……栞里、ちゃん? で、いいのかな?』


 そんな日々が変わったのは、あの時からだ。

 澪が声をかけてくれたあの時から、栞里の世界に再び色がつき始めた。

 澪がいなかったら、きっと魔法少女なんて信じもせずに一蹴していた。

 澪がしばらく家に泊まることになって、癖になっていた二人分の食事を作ることに、また意味が生まれた。


『えへへ。今のわたしは、栞里ちゃんの家族だよ』


 澪にとっては何気ない一言に過ぎなかっただろうその言葉が、栞里にとってどれだけ嬉しいものだったか、彼女は知らない。

 隣にいると、自然と笑顔になれた。母を亡くして以来、ずっと浮かべていなかった笑顔を浮かべることができた。


『……栞里ちゃんのお母さんは、きっと……栞里ちゃんと一緒にいられて、幸せだったんだね』


 あの時、栞里は本当は起きていた。

 ずっと忘れていたんだ。母を亡くした悲しみで、目を背け続けてきてしまった。

 一緒に過ごした日々を、母が幸せだと言ってくれたことを。

 もし母がこれまでの栞里を見ていたなら、どう思っただろう。

 一人でずっと、もう帰らない自分を待ち続けていると知ったら、どう思っただろう。

 澪の言う通りだ。栞里が母を大好きだったように、きっと母も栞里のことが大好きだった。

 だからこそ栞里は、過去に戻ることだけを望む生活を、もう終わりにしなきゃいけないと思った。


『わたしも、もっと皆と……栞里ちゃんといたい……いたいよ。栞里ちゃんと……いつの日か、正式なパートナーになりたい……』


 ……そうだ。

 栞里はもう知っていた。この胸の内に宿る感情を、なんと呼ぶのか。


「え……?」


 再生する。

 心の奥底から絞り出した魔力をもって全身の状態を《回復》し、時計台の柱に手をかけて、立ち上がる。

 凄まじい倦怠感だ。ヘイトリッドとの戦いの後、変身を解いた時とは比較にならない。

 それでも気力だけで立ち続け、睨みつける。驚いた表情でこちらを見るエプシロンを。


「……どうして? もう限界のはずでしょう? 無駄だってわかってるはずでしょう? なのに、諦めないの? まだ立ち上がるの?」

「……」

「…………ふ、ふふふふっ、あっははははは!」


 溢れる感情を抑え切れないように、高笑いが次第に大きくなっていく。

 そしてエプシロンは今までで一番の満面の笑みを浮かべ、恍惚とした眼で栞里を見つめた。


「いいわぁ、いいわぁっ! こんな絶望の中でも輝いて色褪せない思い……あぁっ、どんな味がするのかしらっ! もう楽しみでたまらないわぁ!」


 熱が混じった不快な声が嫌に響く。

 今すぐにでも栞里の記憶を食べてしまいたい。そんな思いが透けて見えるようだ。


「立ち上がろうと状況はなにも変わらないのよぉ? どんな思いも覚悟も無駄に過ぎないのに……ふふ、ふふふふっ、愚かだわぁ。愛おしいわぁ」

「……」

「私もしかしたら、あなたに出会うために生まれてきたのかしらぁ? そしてあなたは、私に食べられるために……あははっ! 運命だったのよ、この出会いはっ!」


 どうやら彼女は栞里が立ち上がったことに、いたく感動しているようだった。

 どうにもならないとわかっていながら、未だ立ち向かわんとする、そんな栞里に。

 だがそれは、勘違いも甚だしいことだった。

 この世界には、思いの強さだけではどうにもならないことが星の数ほど存在する。

 そんなことは栞里も重々承知だ。

 だから栞里が立ち上がったのは、思いの強さだけが理由ではない。

 確かに、栞里と澪が逆立ちしたところでエプシロンに勝てる確率は〇だろう。

 だが、それはあくまで栞里と澪の二人が、だ。

 もう時間稼ぎ・・・・はじゅうぶんだろう。


「もう我慢できない……いただくわぁ、あなたの記憶っ! あなたのすべてを、私に食べさせてぇっ!」


 栞里に触れるため障壁を解き、エプシロンが一直線に栞里に襲いかかる。

 今の栞里は気力だけでなんとか立っている状態だ。精霊の膂力に任せたその凄まじい速度に到底反応することはできない。

 動けずに立ち尽くす栞里に、ついにエプシロンの手が触れる――。

 寸前で、エプシロンの手が瞬きの間に斬り落とされた。


「なっ!?」

「――私の後輩を、ずいぶん可愛がってくれたみたいだね」


 いつの間にか、雷鳴のような速さで栞里とエプシロンの間に割り込んだ変身済みの七夏が、剣を振り切った体勢でそこにいた。

 信じられないようなものでも見たかのように、目を大きく見開く。

 そんなエプシロンを七夏は返しの刃でさらに斬ろうとしたが、寸前で後ろに飛び退かれ回避された。


(追っ手の魔法少女!? どういうこと!? まだそんなに時間は経っていないはず……!)


 切断された片手を押さえ、障壁を再展開しながら、エプシロンは時計台を見上げた。

 栞里と澪の二人と戦い始めてから、まだ五分くらいしか経っていない。協会の追っ手が来るまでは早くても一五分はかかるはずだ。

 自分自身も協会に所属して情報を入手し、空から協会の動きを観察することで随時調査状況も把握して、何度もこうやって犯行に及んできた。今まで一度だって予測が間違ったことはない。

 なのにどうして……。


(……待って。たったの五分? 本当に、たったそれだけしか経っていなかった……?)


 エプシロンは時計台を時折見て、時間を都度確認していた。

 だが、なにかがおかしい。自分の体内時計と実際の時間が噛み合っていないかのような、微妙な違和感。


(……いや、だとしても早すぎる!)


 いったいなにが起きている?

 わからない。わからないが、今はまず目の前の事象に冷静に対処しなければ。


「追っ手が来た以上、もう手加減はできないわよぉ?」


 両手を広げる。そうして現れた魔法陣の数は、栞里と澪の二人を相手にしていた時に出していた数の倍――二〇だった。

 ここまで来ると、もはや数えることすら大変だ。

 加えてその一つ一つが、コンクリートを穿つ魔弾を遥かに凌ぐ威力を誇っている。


「うげ、お粗末な結界領域作ってた割にはだいぶやばい魔法の腕してるね……紗代!」

「はいはーい。その魔法、《模倣》させてもらうわね」


 七夏の呼びかけに応じて着物姿の紗代が上からやってきて、持っていた薙刀を地面に突き刺すと、エプシロンを真似をするように両手を広げた。

 すると紗代の背後に、エプシロンとまったく同じ、二〇の魔法陣が一気に出現した。


(まったく同じ魔法!? 魔力結晶の魔法じゃこんなことは……ちっ、特異魔法ねぇ)


 だけれど、とエプシロンは口の端を吊り上げる。


(見た目は同じでも……ずいぶん弱い魔力。中身の再現度は三割ってところかしらぁ? どうやら劣化コピーの特異魔法みたいねぇ。これなら私の魔法が一方的に打ち勝つだけ)


「それじゃあ七夏ちゃん、お願いね」

「任せてー。消耗が大きいから連発はできないけど……魔力放出全開! 名づけて《調和》フィールド!」


 七夏が剣を振り上げると、その刀身から凄まじい量の魔力が放出される。

 最初こそエプシロンは警戒したものの、それが単体では他の存在になんの影響も与えない、物質化すらしていない本当にただの魔力だと察すると、ふんっと鼻で笑った。

 ヘイトリッドが残すような魔力の残滓と同じものを、やったらめったら振りまいているだけに過ぎない。

 そんなことに意味などない。

 躊躇なく、二〇の魔槍を同時に発射する。今までは順番に発射していたが、次の追っ手がいつ来るかもわからない以上、こっちの方が手っ取り早くて済む。

 紗代もまた、同じ数の魔槍を一気に発射した。それぞれの魔槍がエプシロンのそれと相打つように。

 エプシロンは自分の魔法が打ち勝ち、敵の魔法少女をまとめて吹き飛ばす光景を幻視した。

 だがしょせんそんなもの、幻に過ぎない光景だ。


「っ、打ち消された!?」


 威力は明らかにエプシロンの魔法の方が上だった。

 しかしそのエプシロンと紗代の魔法が衝突した瞬間、その二つはまったく同じ威力がぶつかったかのように互いに爆発し、相殺された。

 そして同時に、さきほど大気中に振りまかれていた大量の魔力が一気に減っていることにエプシロンは気がついた。


(ちっ……これも特異魔法ねぇ)


 だから特異魔法は嫌いなのよ、とエプシロンは心の中で悪態をつく。

 特異魔法。精霊でさえ理解できず、扱えない、魔法少女だけに許された力。

 昔からずっと気に食わなかった。なんでそんなものが存在しているのかと。

 精霊とは、人間よりも上位の存在だ。

 人間が犬や猫、猿などの動物を檻の中に押し込め、地上を支配しているように、精霊こそが人間を支配する上位の種族なのだ。

 他の生物では欠片も理解できない魔の理を解し、その身は魔法で作られたものであるがゆえに、並外れた身体能力を誇る。寿命だって存在しない。

 脆弱な他の生き物とは違い、肉体に重きを置かないために、たとえ頭を吹き飛ばされようと精霊は生きていられる。

 そしてその気になれば下等生物である人間のうち資格ある者を、魔法少女さらに上のステージへ導くこともできる。

 そう。精霊とは他とは隔絶された、究極かつ至高の生命なのだ。

 だというのに。


「なぜ逆らうの? なぜ歯向かうの? あなたたちが他の生物を支配するように、あなたたちも大人しく支配されればいいじゃない。それが自然の摂理なんだから」


 エプシロンの心を満たすものは、怒りだった。

 魔導協会に所属する精霊は皆、腑抜けている。

 人間とともに歩む? 共存? なんだそれは。

 そんなくだらないものは必要ない。

 我らは支配者だ。この星に跋扈し、力を誇示し、人の心を喰らう者。


「もういいわぁ。全員ここで消えなさい。この結界領域ごと」


 両手を広げる。今度展開するものは、魔槍の魔法などではない。

 この小さな公園全体を包むほどの、巨大な魔法陣を上空に出現させた。

 さすがにこれほど大規模な魔法は想定していなかった七夏と紗代は、冷や汗を流す。

 天を覆う大量の魔力――。

 これはエプシロンがもしもの時のため、この公園を覆う結界領域に紛れさせて用意しておいた、とっておきの大魔法だった。

 これで障壁で守られた自分以外のすべてを吹き飛ばし、姿を消す。それでこの戦いはおしまいだ。

 栞里も澪も食えなくなるが、もう構わない。

 また良さそうな餌を見つけたら今度は自分で魔法少女にして、それを喰らえばいいだけなのだから。


「これは……やばいね」

「逃げるの間に合うかしら」


 七夏と紗代は栞里たちを回収して逃げ出そうとするが、もう遅い。


「さあ、これで終わりよぉ!」


 声を上げるとともに、エプシロンは大魔法を起動した。

 魔法陣が膨大な煌めきを見せるさまを見上げ、七夏は少しでも衝撃を和らげようと二本の剣を交差させ、紗代は薙刀を構える。

 ……だがどういうわけか、煌めく以上のことはなにも起こらなかった。

 それどころか、起動されたはずの魔法陣が不自然に明滅し、結界領域ごと端から少しずつ砕けていく始末だ。

 七夏は「あれ?」と首を傾げ、紗代も同様に目をぱちぱちとさせる。

 しかし一番驚いているのは、魔法を発動したはずのエプシロンの方だ。


「なっ、なんなの、これは……? どうしてこんな……」


 まったく予期していなかった正体不明の現象を前にしてエプシロンの頭によぎったのは、さきほどの七夏の言葉だった。

 ――お粗末な結界領域作ってた割には――。

 お粗末? そんなはずはない。この結界領域は澪を迎える時に備え、エプシロンが何日とかけて作り上げた魔法だ。

 なぜそれが粗末なものに見えたというのか。

 なぜ今、起動した魔法陣ばかりでなく、それを仕込んでいた結界領域ごと壊れているのか。

 ……壊れる……《破壊》?


(まさか、あの時)


 澪を一番初めにこの結界領域内に呼び込んだ時、彼女は出られるか確かめるように、結界領域の膜に触れていた。

 まさかあの時すでに《破壊》の特異魔法で、結界領域と、その中にあった大魔法の一部を、気づかれない程度に破壊していたのか?

 だから外からもこの場所が見えやすくなっていて、想定していたより早く追っ手が来た?


「……あの、小娘ぇ!」


 怒りで歯をギリギリと食いしばり、重傷で動けずにいる澪を睨みつける。


「……よくわかんないけど、チャンスってことでいいのかな? 紗代、一気に畳みかけるよ!」

「ええ。絶対に逃さないわ。ここで捕まえる!」


 七夏と紗代、そしてエプシロンが戦闘を再開する。

 七夏と紗代は栞里や澪とは違い、熟練した魔法少女だ。変身によって上がった自身の能力を使いこなしている。

 加えて二人の息は合っており、さきほど魔槍を打ち消したようにコンビネーションも多彩だ。

 しかしそれでも、エプシロンには簡単には届かない。

 たとえ結界領域に仕込んでいた大魔法が使えずとも、生半可な攻撃の一切を通さない障壁を常に全方位に展開し、二〇の魔法陣を自在に操る。

 栞里と澪を相手にしていた時とはわけが違う、一切の手加減がない本気のエプシロンは圧巻の一言に尽きた。


「くっ……」


 栞里は自分も戦いに参加しようとして、ぐらりと視界が揺れて膝をついた。

 限界のところ、気力で立ち上がっただけだったのだ。元よりまともに戦える状態ではない。

 あとはもう二人に任せてもいいのではないかと、そんな考えが一瞬頭をよぎる。

 だけど栞里はそれを迷いなく振り払って、前へと足を踏み出した。


「栞里ちゃん!?」


 七夏が慌てた声を上げる。紗代も驚いた表情をしていた。

 栞里はそんな二人に目配せして、力いっぱい叫ぶ。


「私が、エプシロンの障壁を打ち消す! だから二人は私を守って!」

「……了解!」

「わかったわ!」


 栞里はもうまともに回避行動すら取れない。魔法だってあと何度使えるかわからない。

 はっきり言って足手まといに近いだろう。

 だがそれでも、この状況でもなおエプシロンに立ち向かう栞里を見て、七夏も紗代も止めることはせず、そのフォローに回った。


「消えなさいっ!」


 無数に迫る魔力の槍を前にして、紗代は再びそれらすべてを《模倣》した。

 七夏は自身の魔力を辺りに振りまき、ぶつかり合うエプシロンの魔槍と紗代の魔槍の力の大きさを《調和》によって同じにする。

 だがその一瞬後には、すでにエプシロンの背後にいくつもの魔法陣が再生成されている。

 栞里や澪を相手にしていた時とは比較にならない生成速度だ。


「ちょっと早すぎるってば!」

「なかなかきついわね……」


 休む間もなく放たれ続ける魔槍を前に、紗代は三度目の《模倣》を使った。

 紗代の《模倣》と七夏の《調和》をかけ合わせた相殺は、そう何度も連続でできることではない。

 大量の魔力を散布する関係上、七夏の消耗が大きすぎるのだ。

 だから今度は別のやり方で対処する。

 単純な足し算だ。紗代が《模倣》した魔法は本来の三割ほどしか性能を発揮できないが、その着弾点を一つに集約させれば、およそ三つで本来の威力に近いものになる。

 だから紗代はエプシロンの魔槍一つに対して三つを同時にぶつけ、エプシロンの魔槍をかき消した。

 消し切れず、こぼれてしまった魔槍に対しては、自分たちに向かい来るものだけを見極めて七夏が魔力を纏わせた剣を振るう。

 七夏の魔力に触れた魔槍はその瞬間から《調和》の影響下に置かれ、刀身と衝突する頃には、その力のほどは七夏の斬撃と同じになっている。


「行って、栞里ちゃん!」


 七夏と紗代が必死に守ってくれる中、栞里はただひたすらに前へと駆けた。


(ありがとう。七夏、紗代)


 本当に、彼女たちには頭が上がらない。

 思えば最初に会った時から、そうだった。

 先輩だからと、たったそれだけの理由で甲斐甲斐しく世話を焼いてくれた。

 栞里の痛みも、澪の悲しみも、自分たちにはどうにもできないとわかっていながら、それでも心配し寄り添い続けてくれた。

 今だって、こんなヨレヨレで今にも倒れそうな栞里を、一寸の迷いもなく信頼してくれる。

 応えなければ。

 そうだ。たとえこの世界が、どんな思いを抱こうとどうにもならないことで溢れていようとも。

 母と過ごした日々を想起する栞里の心が、一つの魔法として形を成したように、思いは未来に繋がっている。

 だからきっと、その胸に抱いた思いは無駄じゃない。

 絶対に、無駄にはしない。

 七夏と紗代の決死の庇護のもと、栞里はついにエプシロンの前にたどりついた。

 そして栞里は銃を持つ手を障壁へと伸ばしていく。


(ふん、無駄よぉ。さっきの攻防でわかったわぁ。こいつの魔法じゃ障壁に亀裂を入れるのがやっとで、打ち破るまではできない。何度やっても、できないものはできないのよ)


 栞里なぞ、もはや放っておいても勝手に力尽きる。

 そう結論づけ、早くあの目障りな二人を片付けなければと、エプシロンは栞里を無視して七夏と紗代に魔法を放った。

 その直後の出来事だった。

 視界の端で、栞里はなぜか撃とうともせず、障壁をそっと撫でる。

 たったそれだけだ。

 そしてそのそれだけで、エプシロンの障壁の一切が一欠片も残さず消滅した。


「は……?」


 エプシロンの思考が停止する。

 なにが起きたのか、まったく理解できない。


「い、ったい……どういう――」


 魔力結晶の魔法ではない。そんなことは絶対にありえない。

 精霊が使う障壁を一瞬で消失させるなど、借り物の魔法ごときにできるものか。

 なら、まさか特異魔法か?

 違う、そんなはずはない。だってこいつの特異魔法は《回復》だ。

 壊れたものを修復することしか能がない、受け身な能力に過ぎない。

 そんなもので障壁をどうにかすることなど――。


(――あれ……? どうして障壁に使ったぶんの魔力が、私の中に戻ってきているの……?)


 ――違和感。

 撃ち出した弾丸を回収したところで再び使うことなどできないように、一度魔法として外界に具現した魔力は、たとえ魔法を解こうとも戻ってこない。

 なのに今、栞里が起こした正体不明の現象によって消失した障壁のぶんの魔力が、エプシロンの中に帰ってきていた。

 まるで時間がさかのぼり、障壁の魔法を展開する前の状態まで巻き戻ったかのように。


(……巻き、戻る? え、まさか……そ、そんなこと、ありえるはずが……!)


 さきほど時計台を見上げて、エプシロンはおかしいと思った。なぜ五分しか経っていないのかと。

 きっとその感覚は正しかった。実際、五分などとうに過ぎていたはずだ。

 栞里はこれまで何度も、時計台のそばで《回復》の特異魔法を使っていた。

 その時計台の柱に背をつけ、手をかける。それによって何度も栞里の魔法の影響を受け続けていた。

 そしてそのたびに、時計台の時間が巻き戻っていたのだ。


(くっ、こいつの魔法はただの《回復》じゃない! 対象の時を巻き戻す――時間逆流の特異魔法!)


 栞里がかつて願ったことは、母を治すことなどではない。

 過去に戻ることだ。

 もう一度、母に会いたい。会って、話したい。頭を撫でてもらいたい。

 許されるはずもなく、叶うはずもない、栞里の本当の望み。

 それこそが、栞里の特異魔法の根源だ。


(うまく、いった)


 時間を巻き戻すことでの障壁の打ち消しという発想は、最初から栞里の頭の中にはあった。

 しかし今まではまだ確実な勝機が見えなかったから、どうしても使うわけにはいかなかったのだ。

 もし下手に使って失敗してしまえば、きっと二度とエプシロンには近づけなくなる。

 ここまで使わずに取っておいたからこそ、今、栞里はこんなにも簡単にエプシロンに接近することができたのだ。

 それに七夏と紗代が応援に来てくれたことで、ようやく見えてきていた。

 活路が。エプシロンを、今この場で倒し切るまでの道筋が。


「この――」


 エプシロンが栞里を、無事な方の片腕で突き飛ばそうとする。

 だがその片腕を振りかぶった直後、その上腕の半ばから先が瞬時に切断された。

 七夏だ。障壁が消えたと同時に二本ある剣のうちの片方を投擲し、遠距離からエプシロンに攻撃を仕掛けていた。

 目を剥くエプシロンに対し、七夏は、にぃっ、と得意げに白い歯を見せる。

 その一瞬の攻防の間に、栞里のハンドガンがエプシロンに突きつけられる。

 レンダは精霊の存在を、その本質はヘイトリッドに近いものだと言っていた。

 だとすれば、この魔法が効果的なはずだ。

 魔力結晶の中にその存在を吸収し、引きずり込む、対ヘイトリッド用の魔法。


感情吸収アブソープション……!」

「がっ!?」


 途端にエプシロンの動きが鈍くなった。

 二つのハンドガンに取りつけられている魔力結晶が、少しずつその色を濁し始めていく。

 効いている。ヘイトリッドに使用した時と同じように、徐々にその存在を魔力結晶の中に引きずり込んでいっている。


「こ、の……」


 エプシロンの背後に新たに魔法陣が形成される。

 この至近距離で魔槍を放たれれば、間違いなくただでは済まない。

 しかしそんな危惧に反し、魔法陣はなんの現象も起こすことなく淡く霞んで消えていった。

 別に、七夏や紗代がなにかしたわけではない。

 今のエプシロンは感情吸収の魔法によって魔力の流れが乱され、まともに魔法を発動できなくなっている。それだけのことだった。

 この魔法はヘイトリッドと精霊にとって、本当に天敵とも呼べる魔法なのだ。


「あ、ああ、ああぁああああ……! わ、私の魔法がっ……全部、吸わ、れて……」


 吸収が進むごとに、ほんの少しずつエプシロンの体が溶けていった。

 髪が、皮膚が、肉が。それらすべてが泥のように変化し、色合いも徐々に黒く濁ったものに変質していく。

 ……人間の姿も動物の姿も、精霊自身が魔法で作り上げた姿だ。

 だが今、感情吸収の魔法によって魔力の正しい流れが失われ、その魔法が解けようとしている。

 人間と共存するレンダも、敵対するエプシロンも、どちらも共通して誰にも見せたがらない、精霊本来の姿――。

 その全身は痩せこけ、黒く、まだら模様に濁ったぬめりで覆われていた。

 顔の左側と左肩だけが異様に肥大化し、逆側の右肩から脇腹にかけては歪で小さな胎児のごとき腕がびっしりと何本も生え、なにかを探すようにうごめいている。

 髪は触手のようにまとまって、だらりと地面まで垂れ下がり、その先端に空いた穴は禍々しい瘴気を吐き散らかす。

 膨らんだ左側の瞼の中に二つの目玉が詰め込まれ、右目は大きく裂けた口と一体化していた。

 ――――醜悪。

 それ以外に言い表す単語など存在しないような、ひどくおぞましい姿だった。


「ア、ァァアッ! ワ、わタシの魔法、がァ……! よくモ……ヨくモ人間ノ分際デ……コの私ニ! コんな、醜イ姿ヲォッ!」


 口の隙間から白濁とした液体をよだれのように撒き散らし、エプシロンは咆哮した。

 七夏によって斬られ、失っていた左腕の切断部で、ボコボコと肉が泡立つ。

 エプシロンはそこから腕とも呼べぬ巨大な肉塊を形成し、栞里へと振り下ろした。

 今、栞里はまともに動ける状態にはない。

 七夏も紗代も、精霊本来の姿を見るのは初めてだったのか、あっけに取られてしまって援護が間に合っていなかった。

 ……だがここまで来て、栞里が押し潰される未来を許すことなどできはしないだろう。

 特に、すでに一度エプシロンに大切なものを奪われている、にとっては。


「グァァアッ!?」


 栞里に振り下ろしていた途中の肉塊が、瞬く間のうちに塵となって崩壊する。

 エプシロンが驚愕で振り返ると、澪が決死の形相でエプシロンの肥大化した左肩にしがみついていた。

 肉塊の左腕が栞里に当たるより先に、《破壊》の特異魔法で崩壊させたのだ。


(ナゼ、コンナ近くニ)


 エプシロンの見立てでは、澪は木にぶつかって背骨が折れ、もはやただ立つことすら困難なはずだった。

 背骨の中には脊髄という、脳から全身へ命令を巡らせるための中枢神経もある。下手に傷つけば四肢は痺れ、動かなくなったまま一生治らない。

 なのにどうして、こんなにも近くにいるのか。

 エプシロンはその答えを、原型を留めないほどぐちゃぐちゃに抉れて潰れている、澪の右半身を見たことで理解する。


(コイツ……! 自分自身ニ魔球を当てテ、ソの衝撃でココまデ……!?)


 正気の沙汰ではない。

 すでに澪は重傷だった。たとえ病院に運ばれたとしても助かるかわからない、仮に助かったところで、後遺症でまともな生活など不可能な大怪我。

 そんな瀕死の状態の自分に魔球を撃ち込むなど、その瞬間に即死してもおかしくないような所業だ。

 だというのに、今エプシロンにしがみついているこの彼女には未だ意識があり、左手でステッキを強く握りしめ、離そうとしない。


(……ありがとう……栞里ちゃん)


 栞里は最初にここにたどりついた時、気がついたはずだ。この公園を覆う結界領域に綻びが生じていることに。

 エプシロンと会話する中で、エプシロンがそれを把握していないことを察し、澪の策だと理解した。

 そして栞里は澪が動けなくなった後でも、時計台を利用することでエプシロンの時間感覚を狂わせて必死に時間稼ぎに徹し、救援を間に合わせた。

 あまつさえ、あんな消耗し切った状態でも自分の体に鞭打って、自らの手でエプシロンを倒そうとまでしてくれている。

 こんなにも尽くされてしまったら、澪だっていつまでも倒れているわけにはいかないだろう。


感情、吸収アブ、ソープション……!」

「ガッ、ハッ……!?」


 澪も栞里と同じ魔法を発動し、エプシロンを魔力結晶の中に吸い込んでいく。

 栞里一人の時にはまだなんとか動けていたエプシロンだが、澪まで加わっては、もはや抵抗などできようもなかった。

 その身は少しずつ縮小していき、体がずるずると結晶の中へ引きずり込まれていくのを止められない。

 やがてしがみつくこともできなくなり、地面に倒れ落ちた澪だったが、ステッキを掲げ魔法を維持することだけはやめなかった。


「ありゃ……急いで来たんだけど、僕が出るまでもなかったみたいだね」


 少し驚いたような少女の声がして、エプシロンが目を向けると、そこには一人の少女がいた。

 それはエプシロンと同じ、見る角度によって色が変わる多色性の瞳を持つ、精霊の少女。


「助ケロォ! 手ヲ貸セ、私ニ!」


 すでに顔だけしか残っていないエプシロンが、大きく裂けたその口を開き、絶叫する。


「あんナモノを食べ続けル生活ナド、もウウンザリダ! オ前もソうダロウ!?」


 今ここに来るような精霊は、魔導協会に所属し、人間とともに歩むことを選んだ精霊ということはわかりきっていることだというのに、エプシロンはなおも主張し続ける。


「ナゼ私タチのよウナ上位生物ガ、人間ノ心ノ腐敗物を食べ続ケナくてハなラナイ! 不満ダろウ!? 屈辱だロうっ!?」

「……」

「精霊ガ二人……我らガ力ヲ合わセれバ、敵うものナドなイ! 人間ノ記憶ヲ、イくラデも貪レル! だかラ助ケろ、私ヲォ!」


 精霊の少女――レンダは神妙な表情でエプシロンを見やると、ふるふると首を横に振った。


「ナゼだ! ナゼ……!」

「……僕、今の生活が結構気に入ってるからさ。君と同じ化け物に過ぎない僕を、同じ人として見てくれる。それが嬉しいんだ」

「ふざケルナァ! ソんなモノ、侮辱以外のナニモのでモナイ! コンナ……コンナァ! 我、らハ……支配者、ダ……! コンナコと、アリえル……ハズ、ガァ……!」


 塵粒となり、消えるその一瞬まで怨嗟の声を吐き続ける。

 エプシロンにはわからなかっただろう。

 人が抱く思いや覚悟を無駄だと見下し、ただの食糧としか見ていなかった化け物には、人の思いが紡ぐ未来など。


「お似合いの……最期だね……エプ、シロン……」


 澪の言葉を最後に、エプシロンは魔力結晶に取り込まれて、この場から完全に消滅した。

 静寂が訪れた公園の中央で、エプシロンの消失を見届けた澪は、安堵で気が抜けたように失神する。

 栞里もまた同じように気を失いかけたが、すんでのところで踏みとどまった。

 まだ最後に、やらなければいけないことがある。

 一歩、二歩。おぼつかない足取りで倒れた澪に近寄って、そのそばに膝をついた。

 今のままでは澪は、数分とせずに死んでしまう。だから治さなければ。

 澪が綺麗だと言ってくれた、この力で。


「……《回、復》」


 澪の肉体が元の傷のない状態に戻ってすぐに、栞里もふらりと澪の隣に倒れ込んだ。

 視線を下げれば、瞼を閉じてぐっすりと眠っている澪の顔が近くにある。

 そんな彼女の頭の上に手を置いて、軽く頭を撫でてあげているうちに、栞里も意識を手放してしまっていた。

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