25.本当の戦い

 栞里も澪も、今まで命をかけた戦いなんてものを経験したことはない。

 もっとも、それは栞里や澪だけでなく、この平和な国に住むほとんどの人間がそうだろう。

 命が脅かされることへの張り詰めた恐怖も、想像を絶する形容しがたい痛みも、ほとんどの人間が知らない。

 強いて挙げるのなら、この前ヘイトリッドと戦った時こそが、栞里にとって命がけの戦いに近い経験だった。

 ただあの時は、七夏がいた。栞里が危なくなったらすぐに助けられるようにしていてくれた。

 だが今、ここに七夏はいない。


「っ……!」


 魔法の槍が頬をかすめる。同時に、片耳が音を失った。

 耳が吹き飛んだ――その事実に気がついて、一瞬遅れて痛みがやってくる。

 即座に自分の耳を特異魔法で復元したものの、痛みに気を取られている間に、さらなる魔槍が放たれていた。

 寸前で左に避けたが、間に合わなずに今度は右腕が持っていかれる。赤黒い液体とともに、半壊し、潰れた片腕が宙を舞う。

 激痛に顔をしかめつつ、栞里はこの右腕もすぐに再生させた。

 飛び散った血は栞里の中に戻り、潰れた腕は宙を飛ぶ流れに逆らい元あった場所に帰還して、本来の形を取り戻す。


「やっぱり凄まじい回復力……自分の魔力が通っていれば一瞬で復元できるのねぇ」


 戦いが始まって、すでに数分が経過している。

 次々と休みなく放たれる魔槍を前に、栞里はなすすべがない。

 最初に一度、魔弾で迎撃しようとしたこともあったのだが、容易く粉砕され脇腹を貫かれてからは、もう試していなかった。 

 魔法陣は八つで、一つ撃てば一つが消える。だけど何発か撃つ間に新しい魔法陣が再び形作られ、同じ攻撃を放ってくる。

 これでは一斉に放った場合を除き、連続で射出している限り装填の隙がない。

 栞里が耐えられているのは、エプシロンのこの魔槍が、栞里と澪の二人に分散されているおかげだった。

 もしもこの八つの魔法陣がすべて栞里に向けられていたなら、とっくに勝負はついている。


「それにしても想像以上に粘るわねぇ。だったら今度は……」


 一度エプシロンの攻撃の嵐が止み、魔法陣が消える。

 そのタイミングで栞里は魔弾を、澪は魔球をそれぞれエプシロン目がけて放つものの、彼女はそんなものまったく意に介さない。

 そのエプシロンの態度を証明するかのように、栞里たちの攻撃は固い障壁にはばまれ、その一切が通らなかった。


「単純に増やしてみましょうか」


 そしてエプシロンが手を広げると、再び魔法陣が出現する。

 その数、合計一〇だ。さっきまでは八だったから、ただ二つ増えただけに過ぎない。

 だが、そのたったの二つが二人にとっては脅威だった。

 魔法陣は何発か魔法を放つうちに復活する。だけどその復活までのタイムラグのうちに魔法を撃ち尽くしてしまったら、一瞬の間が生まれる。だからその連射速度には限界があった。

 だが今この瞬間、魔法陣が一つ増えることによって、その限界の速度が上がったのだ。


「くっ……」


 このままではジリ貧だ。いつかやられる。

 激化した攻撃の最中でそう感じた澪は、ステッキを両手に持って意識を集中させると、その周囲に六つの魔球が出現させた。

 そして澪は魔槍を避け続ける選択肢を捨て、一直線でエプシロンへ向かって駆け出す。


「それはさっき見たわぁ」


 栞里へ向けられていた魔法陣がすべて、澪の方を向く。

 どうせ栞里の攻撃では障壁を傷つけられない。ならば危険なのはこちらだ。そんなエプシロンの思考が見て取れた。

 澪の魔球は六つしかない。これでは、これから放たれる一〇の魔槍すべてを迎撃することはできない。


「澪! そのまま走って!」


 一瞬足が止まりかけていた澪にそう叫びかけて、栞里は引き金を引いた。

 悔しいが、確かに栞里の魔弾ではエプシロンの障壁を突破することができない。

 最初にやってきた時に一度エプシロンの障壁を壊せたのは、澪が事前に綻びを作ってくれていたからに過ぎなかった。

 だから栞里が狙ったのはエプシロン本人ではなく、その背後だ。

 銃口から放たれた物質化した魔力弾が、今まさに再生成されたばかりの魔法陣そのものを貫き、消滅させる。


「っ、魔法陣の段階で……」


 二つ、三つ。栞里はここまでの戦いのパターンから魔法陣が再生成される箇所を予測し、発生と同時に魔弾が穿つように仕向ける。

 そしてその調子で四つ目も狙ったが、その時には魔法陣の出現箇所そのものを変えて対処され、栞里の魔弾は空を切った。

 まずい。これではまだ七つだ。澪の魔球は六つだから、一つ足りない。


「ありがとう栞里ちゃん!」


 しかし栞里の危惧とは裏腹に、澪はそう大声でお礼を言って、今度は足を止めようとはしなかった。

 撃ち尽くした後に装填の隙が生まれることもいとわず、エプシロンは七つの槍をフルオートの銃器にように乱射する。


(変身で動体視力が上がってる今なら……目で追える!)


 変身の魔法で引き上げられた動体視力をもって、澪はそのすべてを見極め、的確に魔球で打ち消していく。

 だけどそれができるのは六つ目までだ。最後の七つ目は対応できない。


「一つ、くらいならっ!」


 七つ目の槍を、澪は直前で体を低くして下を通り抜ける形で回避する。

 一歩間違えば、頭が吹き飛んでいた。澪の背筋をひやりと冷たいものが走る。

 だがいずれにせよ、遠距離から撃ち合っていただけでは、そう遠くないうちに二人ともやられていた。

 危険を冒しただけの価値はあったはずだ。なぜなら、またエプシロンに近づくことができたのだから。

 澪はステッキを、栞里はハンドガンを構えた。

 澪は障壁を破壊するため、そして栞里は障壁が破壊された瞬間を狙うためだ。

 完璧なコンビネーションだった。

 だが、


「それで? さっきも私に近づいて、いったいなにができたのかしらぁ?」

「え、壁がな――」


 ステッキを振るおうとした澪へと、エプシロンは自ら距離を詰めた。

 それは本来であれば、障壁が邪魔をして近づけない距離である。

 どういうわけか、今のエプシロンには障壁が存在しない――否、澪がすべての魔槍に対処したと同時に、エプシロンが自ら障壁の魔法を解いていたのだ。

 障壁を破壊しようとしていた澪と、その瞬間を狙っていた栞里は、同時に虚を突かれる。

 その刹那が命取りだった。


「あぐぅっ!?」


 少し前の再現をするように、エプシロンは近づいてきた澪の腕を尋常でない速度で掴むと、いとも簡単にへし折る。

 澪の苦痛の声を聞き、栞里が半ば反射的に発砲しようとすると、エプシロンは素早く澪の腕を引っ張って、栞里の射線上に彼女を置いた。

 そうなれば当然、栞里の引き金にかけた指は止まってしまう。

 エプシロンはそれに口の端を吊り上げると、澪を軽く上に放り投げ、彼女の腹に尋常ではない威力の回し蹴りを放った。


「あ――――」

「澪っ!」


 凄まじい速度で吹き飛ばされた澪の体は、木の幹に衝突して止まった。

 幹が軋み、舞い落ちた木の葉が、澪の吐いた血で赤く染まる。

 まだなんとか意識はあるようだったが、どうやら立ち上がることができないらしい。

 木を支えにして懸命に起き上がろうとするが、その足はがたがたと震えるだけで、まるで役に立たない。


(早く治さないと……!)


 澪の惨状を見た一瞬、栞里はその注意をエプシロンから澪に移してしまった。 

 自分なら治せる。その思考が隙を生んだ。


「判断ミスねぇ」

「っ、エプシロ」

「今の私には障壁がないのだから、とにかく撃ちまくればよかったのに」


 気がついた時には懐に潜り込まれていた。

 咄嗟に銃口を向けようとしたが、もう遅いとばかりに容易く手で払われて、顎を蹴り上げられる。


(い、意識が……)


 威力自体は大したことがなかった。後で記憶を食べるため、頭を吹き飛ばさないよう加減されている。

 一番の問題は、顎を通して脳を揺さぶられたことだ。

 《回復》の特異魔法を持つ栞里に、中途半端なダメージは無意味だ。どんな傷でも瞬く間に治すことができる。

 だがそれは、気絶さえしなければという注釈がつく。

 気を失えば、もう魔法を使えない。その時点で終わりだ。


(気絶、だけは……!)


 意識を強く保ち、特異魔法を行使する。脳の状態を復元する。

 完全に気を失う前になんとかそれには成功したが、その間、栞里は無防備だった。

 栞里がはっとした次の瞬間には、澪と同じようにエプシロンに蹴り飛ばされていた。


「がっ――! ぐっ、う……! は、ふぅ……はぁ、は、ぁ……」


 金属の柱が歪むほど強く衝突し、目の前で閃光が弾けて、体のあちこちが悲鳴を上げる。

 今の衝撃で途切れてもなんらおかしくなかった、未だ残る意識を懸命に繋ぎ止め、栞里はまた、特異魔法を使う。

 潰れた内臓も、折れた骨も、すべてが元通りになっていく。ちょうど背中に触れていた、歪んでしまった柱さえも。

 この力がなければ、栞里はもう何度死んでいたかわからない。

 栞里は苦々しく顔を歪めながら、時計台の柱を支えに立ち上がった。


「へえ、なかなか意思が強いのねぇ。まだ気絶しないなんて。でもこれでもう、澪ちゃんを助けには行けない」


 ご丁寧に、栞里が飛ばされた方向は澪とは逆方向にある、公園の時計台だった。

 澪を回復させるため、彼女が倒れている方へ行くためには、エプシロンを越えていかなければならない。


「……って、あらぁ? 澪ちゃんはもう動けないのかしら」


 障壁を再展開しながら、エプシロンは澪の方を振り返る。

 澪は栞里と違って《回復》の魔法がない。

 受けた傷も、流れ出た血も戻らない。

 重傷を負った澪は、つい数秒前までどうにか起き上がろうと奮闘していたが、もうそれもできないようで、ぐったりと木の幹に寄りかかっていた。


「ふふ。それなり手応えがあったし、肋骨はもちろん、もしかしたら背骨も折れてるかもねぇ。まぁ、澪ちゃんは後でおいしくいただくとして……さて、これで一対一ねぇ? 栞里ちゃん」

「……」


 栞里を気絶させることではなく、初めからこの状況が本命だったようだ。

 栞里と澪を相手にする上で、エプシロンにとって厄介だったものは二つあった。

 その二つとは、つまり特異魔法。自身の障壁を唯一打ち破ることができる澪の《破壊》と、中途半端な傷なら瞬時に治してしまう栞里の《回復》だ。

 だけどそれは片方だけなら問題にならない。

 澪一人なら障壁がどうこう以前に、地力で打ち勝てる。栞里一人なら、障壁を壊すことができない。

 エプシロンが恐れたことは、その二つがまったくの同時に襲いくることだ。

 すなわち、エプシロンの障壁を壊すことが可能な澪を栞里が延々と治し続け、次々に手を打たれること。

 それこそをエプシロンは警戒し、澪を動けない状態にした上で二人を引き離したのだ。


「仲間思い。良い言葉よねぇ? 澪ちゃんも栞里ちゃんも、あなたたちはお互いを思い合っている。でもだからこそ、どちらかが危機に瀕した時、もう片方が未熟を晒してしまう……」


 でもね、とエプシロンは微笑んだ。


「私、好きよ。そういう温かな感情は。だっておいしいもの」

「……あなたは……おいしいものを食べたい以外に、楽しいことはないの?」

「あるわよぉ? こうやって人間をいじめてる時間が好きだわぁ。だって私、弱い者いじめが大好き、らしいものねぇ」


 少し前に栞里に蔑まれたことへの意趣返しでも言わんばかりに、くつくつと笑う。

 対話は通じない。わかっていたことだ。

 相手は人間でもなければ、もはやレンダのようなまっとうな精霊でもない。

 ただの獣だ。自分が何者かなんて悩みもしない、己の欲望に従うだけの正真正銘の化け物に過ぎない。


「まだ抗うの? あなたの力じゃ、私の障壁は打ち破れないのに?」


 栞里が再び二つのハンドガンの銃口を向けると、エプシロンはバカにするように鼻を鳴らした。


「諦めたらぁ? どうせあなたじゃ私には勝てないんだから」

「……どうかな」


 栞里がレンダに入れてもらった魔法は、追跡の魔法だけではない。

 元々栞里は、精霊獣が澪に接触してくることを予想していたのである。

 ならばその対策のための魔法を入れてこないはずがなかった。

 ……もっとも、今まで使わずにいたことからわかるように、使い勝手が良い魔法だとはとても言えないが……。


(今、エプシロンは完全に油断してる。初撃は避けない……今なら必ず当てられる。どうにか、これで決められれば……)


 引き金に指をかける。

 魔弾ではエプシロンの魔法に敵わないことは、もう身にしみて理解した。

 だから栞里が今から使うのはごく単純に、それよりもずっと威力が高い、ただそれだけが取り柄の魔法だ。


「っ――これは……!?」


 栞里が二つの引き金を引くと、魔弾より太く鋭い藍色の閃光が宙を切り裂き、エプシロンに襲いかかった。

 魔弾や魔球の一発のみ発射するタイプとは違い、これは大量の粒子の集団を絶え間なく叩きつける、ビームに近い砲撃の魔法だ。

 基本的に魔力結晶の魔法はエプシロンには通じない。しかしこれだけの威力があれば、あるいは。


「ちっ」


 障壁に亀裂が入ると、エプシロンは素早く魔球を二つ出現させて栞里に放った。

 これまで何度も使っていた魔槍ではなかったのは、エプシロンも多少なりとも突然のことに焦っていたからだろう。

 魔槍よりも構造が簡単で、作るのが早い魔球が咄嗟に出た。

 そしてそのおかげで、栞里は間一髪助かったのだった。


「ぐっ……!」

「……あらぁ?」


 エプシロンが放った魔球は、なぜか避けようともしない栞里の両腕を難なく弾き飛ばし、砲撃を放つ手を止める。

 あまりにも簡単に自分の魔法が当たったことで、エプシロンは訝しげに眉をひそめた。

 エプシロンが栞里に与えた傷は当然ながら次の瞬間には傷一つなく完治するが、今の魔法が運良く魔球だったからその程度で済んだだけだ。

 もし魔槍であれば、治癒する間もなく死んでいただろう。


「……くふ、ふふふっ、ふふふふふふっ!」


 なにがおかしいのか、エプシロンは腹を抱えて笑い始める。

 そうして今の一撃で決められなかったことに唇を噛む栞里を見やり、からかうかのようにパチパチと拍手した。


「いやぁ、良い魔法だったわねぇ? この私の障壁に罅を入れるなんて、大した魔法だわぁ。ちょっと驚いちゃった」

「……」

「でも今の魔法、どうやら致命的な欠陥があるみたいねぇ」


 栞里が銃口を向ければ、呼応するようにエプシロンも魔法陣を生み出す。

 その魔法陣の数は、たったの一つ。

 だけどそれだけで、栞里が引き金にかけていた指は止まってしまった。


「やっぱり。その魔法、反動が大きすぎるんでしょう? あれだけの威力だもの。当然よねぇ。撃っている間は制御に手一杯で、まともに動くこともできない」

「……どうかな。できないふりをしてるだけかも」

「はぁ? なにその下手くそなハッタリ。棒読みすぎるわよぉ? ふふっ、これは傑作」

「…………」


 苦手なりに頑張って見栄を張ったのに一瞬で見抜かれた上に傑作とか言われて、栞里はイラッとして目元をピクつかせた。

 ……しかし実際のところ、すべてエプシロンの言う通りでもあった。

 この魔法は威力だけは折り紙つきだが、それ以外がてんでダメなのである。

 さきほどの魔球だって、あれが仮に魔槍だったら冗談抜きで栞里は死んでいた。

 だから今まで使わなかった……というよりも、危なすぎて使えなかったのである。

 だがここまで来たら、もう背に腹は代えられない。

 さきほどエプシロンの障壁を破りかけたことで、その威力のほどは証明できた。

 どうにかこれを使いこなし、エプシロンを退け、一刻も早く澪を助けなくては。

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