11.わん! わんっ! くぅーん……

 夢を見ていた。

 七夏のなんてことない行動に、昔の記憶を揺さぶられたからだろうか。

 白い床。白い壁。白い天井。

 そんな部屋で、あの人はいつものように、ベッドから体を起こして窓の外の雪景色を見つめていた。


『ごめんね、栞里』


 それが彼女の口癖だった。

 昔からいつも、ずっと謝ってばかりだった。

 栞里はそれが嫌いだった。そんなことを言ってほしいわけじゃなかった。

 なにを言ってほしかったのかと聞かれると、言葉には詰まってしまうけれど。


『私はもうすぐ、栞里のそばにはいられなくなっちゃうけど……』


 いつもと変わらないはずのその横顔がどこか寂しそうに見えたのは、果たして、本当にあの人が寂しいと思っていたからか。

 それとも、栞里自身が寂しいと感じていたから、そう見えただけだったのか。

 追憶に浸るだけの今の自分には、もう、どちらが真実だったのかを知る由もない。


『どうか栞里には、私がこれから言う三つのことを大切にしてほしいの』


 窓の外に向いていた彼女の顔が、栞里の方を向く。

 その穏やかで慈しむような眼差しは、なにもかも優しく包み込んでくれる、静かな海を連想させる。


『一つ目は、言葉を大切にすること。言葉は力を持つから』

『……言葉』

『あなたの言葉が誰かを救うこともあれば、きっと、誰かを傷つけることもある。その責任は他の誰でもない、あなたのものなの』


 これは、いつも栞里が言われていることだった。

 感謝のように良い言葉を口にすれば、良いことが起こる。でも、誰かを嘲るような悪い言葉を口にすれば、悪いことが起こる。だから言葉を大切にしなさい。

 これが、一つ目。

 でも、そうなると残りの二つはなんなのだろう?

 栞里は知らない。いつも言われているのは、言葉を大切にしなさい。ただそれだけだった。


『二つ目はね、あなたを大切にしてくれる人を、大切にすること』

『大切にしてくれる人?』

『そう。あなたにはまだ、ピンとこないかもしれないけど……』

『……』

『栞里?』


 気がついた時には抱きついていた。

 弱々しく、やせ細った体だ。少し前までは、もっと健康で力もあったのに。

 でもその温もりだけは、どんな時も変わらない。


『お母さんは、違うの?』

『……』


 今にも泣きそうな顔だった。

 どうしてそんな顔をするのかわからなくて、栞里は、その零れてきそうなその涙を拭ってあげたくて、母の顔に手を伸ばす。

 けれど母はそんな栞里を途中で止めた。

 栞里の手を弱い力で掴んで、ふるふると首を左右に振って、彼女は、嗚咽の混じった声で続きを言うのだ。


『あなたに大切にしてほしい、三つ目のことはね――』




   ✿   ✿   ✿   ✿




「あ、栞里ちゃん起きた?」


 目が覚めて初めに目に入ったのは、青空を背景にした七夏の顔だ。

 いつも通りの明るい笑顔で、栞里の目覚めを出迎える。


(……膝枕……)


 頭の下の柔らかな感触と、この体の近さはそれくらいしかない。

 体を起こそうとすると、ぴっと人差し指で額を押し止められた。


「もうちょっと横になってた方がいいよ。まだあれから三〇分くらいしか経ってないから」

「あれから……そうだった。まだヘイトリッド退治の途中だった」


 寝ちゃってごめん、と栞里は言おうとしたが、その言葉は七夏に遮られる。


「栞里ちゃんはまだ魔力を使うことに慣れてないから、休憩はちゃんと多めに取っておかないとね。動いた後はしっかり休む! これが一番大事なんだから、栞里ちゃんはなにも気にしないで」

「……ありがとう」

「ふふふ。いいのいいの。いいものも見れたしねぇ」

「いいもの?」

「栞里ちゃんの寝顔。可愛かったなー」

「……ねが、お?」

「うん。あ、寝言も可愛かったんだよ? お母さん、お母さーんって。ふふ、栞里ちゃんってば、お母さんのことが大好きなんだねー」

「…………」


 なぜか、段々と顔が熱くなってくる。

 なぜかというか、十中八九、羞恥から来る熱である。


(う、うかつだった……いくら疲れてたからって、簡単に人前で寝るなんて……)


 勝手に寝顔を見た七夏のことを責めたくても、別に七夏は見ようとして見たわけじゃない。

 栞里が勝手に寝てしまって、七夏はむしろ、そんな栞里を介抱してくれていたのである。

 七夏を責めようと口をパクパクしたところで、お礼以外の言葉を口にできるはずもなく、結局は泣き寝入りするしかなかった。


「勝手に寝顔見てごめんね? でも大丈夫だよ。写真撮ったりとか、変なことはなんにもしてないから」

「……そう」


 いっそのこと、なにかされていた方が、かえって正当に責めることができるのでよかったかもしれない。

 感じ慣れない恥ずかしさで、そんなトンチンカンじみたことまで考えてしまいつつも、休息はしっかりと取る。

 それからしばらくして七夏と学校の敷地内の探索を再開したが、幸いなことにあれが唯一のヘイトリッドだったようだ。

 他の痕跡は見つからず、西の空は赤くなっていった。




   ✿   ✿   ✿   ✿




 運動において、視覚機能はなによりも重要なものである。

 動くものに継続して視線を合わせ、的確に識別する動体視力。その物体がどれほど遠くにあるか、あるいはどれほどの大きさがあるかを把握する深視力。一瞬で状況を把握する、瞬間視の能力が重要になる場面があるだろう。他にもさまざまだ。

 運動をしている間、眼球はとにかく目まぐるしく動く。人は、自分が感じている以上に視覚に頼って体を動かしている。

 つまり、暗くなればなるほど危険が伴うということだ。運動、ましてや戦闘においては。

 そんなこんなで、魔法少女の活動は日が出ている間だけ行うという決まりがあった。

 社会に出て、正式に魔導協会に所属している者たちは夜にも仕事を行うことがあるそうだが、学生と兼任である栞里たちには関係のない話である。


「他にも、調査とか退治とかが行き届かなくてヘイトリッドが力を持っちゃった場合とかね。そういうのの討伐みたいな危険なことは、ぜーんぶ正式所属の魔女と精霊たちの仕事なの」

「ふむ……」

「そのぶん給料も多いみたいだけどねぇ。私たち学生の魔法少女がやることなんて、結局は雑魚退治もいいとこなんだ」


 学校の敷地の探索が終わったことや日が傾いてきたこともあり、少し早く部室に帰還した栞里と七夏であったが、まだ澪や沙代は戻っていないようだった。

 沙代とケータイで連絡を取った七夏いわく、今こちらに向かっているとのことなので、その間、栞里は未だわからないことが多い魔法少女事情を七夏から学んでいた。


「雑魚退治万歳だよ。君たち学生の子たちが小さいヘイトリッドをたくさん狩ってくれるおかげで危険な仕事が減るんだから」


 数時間前に栞里たちを見送った時と変わらず、だらーっと机に体を投げ出しているレンダも、こんな感じにちょくちょく口を挟んでくる。


「あー……最近の危険な仕事っていうと、やっぱりあれ?」


 ちょっとだけ声を低くして、七夏がレンダの顔色をうかがう。


「あれ、だね。今日もこれから調査だよ……はぁー……」

「早く見つかるといいんだけどねー」

「ほんとだよ。僕たち精霊の品位にも関わることなんだから」

「……」


 あれ、とか言われても栞里にはよくわからない。

 聞けば説明してくれるだろうかと口を開きかけて、ふと、それとは別のことを思い出す。


(……そういえば、今日の昼に七夏が言ってたヘイトリッド消滅の専門家……あの子って……)


 ……試してみるか。

 栞里は制服の袖で隠すようにして巻いていた魔力結晶付きの腕輪を外して、レンダの前に置いてみた。


「どうぞお納めします、専門家さん。捕まえたヘイトリッドです」

「お。ありがとー。うへへ、別の結晶に入れて今日のおやつにしよっと」

「あ、ちょっとレンダちゃ……あぁー……」

「……おやつ?」


 七夏はレンダの発言を止めようとしたようだったが、あと一歩間に合っていなかった。

 あちゃー、と顔に手を当てる七夏。

 栞里は栞里で、レンダの口から出てきた気になる単語に食いついて、そこでようやくレンダも状況のおかしさに気づいたようだ。


「あ、あれ? 七夏まだ説明してなかったの?」

「あー……うん。私が下手に言うと変に誤解されちゃうかと思ったから、レンダちゃんに直接説明してもらった方がいいかなって」

「あぁ、そうだったんだ。でも、そんな隠すようなことでもないから大丈夫だよ。気を遣ってくれてありがと、七夏」


 机から上半身を起こしたレンダが、どこから説明したものか、という具合に言いよどむ姿を前にして、栞里は少し身構える。


「どっちにしろ、近いうちにしておかなきゃいけない話だしね……僕たち精霊の話は」

「精霊の話?」

「魔法少女は人間の女の子。ヘイトリッドは負の感情の塊。じゃあ、僕たち精霊はいったいどういう存在なのか? そういう話さ」


 人間と動物との二つの姿を持ち、自由に入れ替える魔法を使う。資格を持つ少女の心に触れることで影響をもたらし、魔法少女に変えてしまう力を持つ。

 精霊について栞里が知っていることと言えば、せいぜいそれくらいだった。

 その正体がいったいなんなのか、確かに栞里はまだなにも知らない。


「聞かせて。精霊のこと」


 栞里が姿勢を正してレンダの方を向くと、レンダは神妙に頷いた。


「僕たち精霊は、ありていに言えば動物の一種かな。でもただの動物じゃなくて、物質ではなく精神を主体にした動物だ」

「精神を主体って?」

「――ヘイトリッドに近い存在ってことさ」

「……」


 なるほど、と栞里は納得した。

 だいぶデリケートな話である。これは確かに、本人に説明してもらった方がいいと七夏が言ったわけだ。


「まあ近いって言っても、あくまで根本的な部分だけの話。実際は人間と昆虫くらいの差があるよ」


 人間と昆虫ともなれば、だいぶ違う。

 呼吸をする。頭部のように、体のどこかに重要な器官が集中している部分がある。そのような、動物であるがゆえの特徴が一致しているくらいだ。

 精霊とヘイトリッドもそれと同じで、根本的な部分以外はまったく違う存在ということだろう。


「精霊とヘイトリッドの違う点だけどね。まず知性と理性があって、生きていること。これ、一番重要なところね」

「確か、ヘイトリッドは生きても死んでもいないって」

「そう。でも僕らは違う。生きている。そして生きているからこそ、僕らはヘイトリッドとは違って完全な精神的存在ってわけじゃないんだ」


 レンダは自分の存在を主張するかのように、自分の胸に手を置いた。


「僕らの存在。それはいわば一種の魔法だ。ただの感情の塊でしかないヘイトリッドと違って、僕たちの体は魔法を起源とした物質で作られている」

「魔法……? ……ああ、そっか。だからヘイトリッドと違って、魔法少女になる前からでもレンダが見えたんだ」

「うん。魔法はヘイトリッドみたいな精神的存在に干渉する特性があると同時に、れっきとした物理現象でもある。だから普通の人間にも見えるのさ」


 今みたいな人間としての姿も、レッサーパンダみたいな動物としての姿もね。

 そうレンダは続けて、指を一本立てた。

 灯るようにして、その指先に小さな魔力球が発生する。綺麗な翠色の光だ。


「そして、僕らがヘイトリッドと決定的に違うのは、こんな風に魔法を使えるかどうか。物質と精神の間に位置する力、魔法の法則を理解しているかどうか……」


 魔法の法則――聞くところによると、それは通常の法則のように、一定の形を持たないそうだ。

 心の状態、感情の起伏、記憶の配列など、様々な精神的要素が絡まり合うことで不規則に変化し続ける。

 それはいわば精神の計算式。それを理解、計算、実行することは、しょせんは人間に過ぎない魔法少女にはまず不可能なことらしい。

 精霊だけがその法則を理解し、自在に魔法を使うことができる。

 そして魔力結晶と魔法補助具は、そんな精霊の次元により近づくための魔導協会の叡智の結晶だという話だ。

 もっとも、結局は魔力結晶と補助具も製作者には精霊が関わっていて、補助具に魔法を登録したり魔法を入れ替えたりと言ったことも精霊にしかできないそうなのだが……。


「ま、僕たちにも使えない魔法はあるけどね。君たちが使う特異魔法とか」


 レンダはお手上げだと言いたげに両手を上げた。


「あれは君たち魔法少女特有のものだ。何度か真似ようとしたこともあるけど……なにをどーやったって同じ魔法を作るのは無理だった。あれだけは、君たちの心が導く唯一無二の魔法だよ」

「……そうなんだ」

「で、ここからが重要なところ」

「重要?」

「そ。ここまで僕が語ったのは、精霊とヘイトリッドの異なる点だ。でも今から語るのは、精霊とヘイトリッドで限りなく近い点」


 同じ、とは言わなかった。

 あくまで近い。

 これからなにを語ろうとも、自分は決して人間の敵ではない。そう伝えたいのだろうと栞里は受け取った。


「まずこれは大前提だけど、僕たち精霊はヘイトリッドみたいに精神に重きを置く存在だから、ヘイトリッドが人の心に寄生することと同じように、人の心に触れることができる」

「知ってる。その精霊との接触が、私たちが魔法少女に覚醒する引き金になる。私が昨日レンダに触れられて、魔法少女になったように」

「そうだね」


 つい昨日のことだ。

 魔法少女になる時、手を出してほしいと言われて、栞里は言われた通りにレンダに差し出した。

 その手にレンダが触れて、しばらく経った後、ドクンと心臓が強く脈打った。

 きっとあの瞬間、レンダが栞里の手を通し、その心に触れたのだと思う。

 胸の奥に小さな熱が生まれて、それは時間をかけて体の節々に広がっていった。気分が悪いとか、そういう感覚は一切なかった。

 熱が体中を回った頃、唐突に自分の中で錠が外れたような感覚を覚え、次の瞬間には全身に感じていた熱が嘘のように消えてなくなっていた。

 そうして栞里は魔法少女になった。


「僕らが持つ、この人の心に触れる力はね、ヘイトリッドのそれより遥かに強力なんだ」


 レンダは、自分の手を静かに宙空に掲げた。


「人の心には殻がある。下手なヘイトリッドなんか寄せつけないくらい強固な殻だ。でもそんな殻、精霊には関係ない」

「関係ない?」

「簡単に壊せる。そもそも壊すまでもなく、すり抜けられる。そうやって人の心に干渉して、僕たちは魔法少女への覚醒を促してるわけだからね」


(……言われてみれば……)


 心に殻がある云々は昨日も聞いたことだ。

 だとすると確かに、どうやって精霊が殻の奥にある心に干渉して魔法少女へと変えていたのかは、不思議に感じるべき部分だった。


「そして僕らがこの力を持つことには確かな意味がある」

「意味……」

「人に口があるのはどうしてだい? 歯があるのは?」


 唐突な質問だった。おそらく、ただのたとえ話だ。

 だけど栞里はこのたとえ話から、精霊という存在の真実をなんとなく掴みかけていた。


「……物を食べるため。栄養を吸収するため」

「そうだね。そして、僕らがこの力を持っているのも同じことだ」


 生物の体の部位や特性には、すべてなんらかの意味がある。

 それが必要だから進化してきたのだ。

 だとすれば、そう。彼女たち精霊が、わざわざ違う生き物であるはずの人間の心に触れる力を持つこともまた、それが彼女たちにとって重要な事柄を担うからにほかならない。


「僕らはヘイトリッドと違って生きている。生き物は栄養を取って生きていくものさ。そして精神に重きを置く僕らにとっての栄養は、君たち人間や普通の動物とは違う。僕らにとっての栄養……それは」


 レンダはゆっくりと腕を上げ、真剣に話を聞いていた栞里の胸へと、その指先を向けた。


「君たち人間の精神。その心を形作る、記憶そのものさ」


 自嘲気味に笑って、レンダはその重大な事実を告げた。

 ふと、栞里の脳裏に、今日のヘイトリッドの捜索中に七夏から聞いた言葉がよみがえる。

 ――私たちは過去から現在、そして未来に至るまで、いろんな感情を抱いて生きていくよね。人に刻まれるその記憶、思い出は、一種のエネルギーなんだよ。

 記憶がエネルギー。つまりそのエネルギーこそが、精霊の力の源というわけだ。

 人の心を喰らい、生きるもの。それこそが、精霊の正体。


「……」

「……」


 レンダはそれ以上なにも言おうとはしない。

 栞里が今の話を咀嚼するまで待っているのだろう。

 なにか質問があれば好きにしてくれていい。そう言ってくれている気もした。


「あ、あのね。栞里ちゃん」


 そんな二人の静寂を破ったのは七夏だった。

 おずおずと発言の許可を求めるように小さく手を上げている。


「今の話を聞くと、精霊もヘイトリッドと同じで人間の敵! みたいに聞こえるかもしれないけど……レンダちゃんを見てわかる通り、人間に友好的な子はいっぱいいるんだ」

「うん」

「魔導協会に所属してる精霊たちは皆そう。むやみに人の心を侵したりなんかしない。言うなれば、うーんと……私たちはギブアンドテイクの関係で成り立ってるの」


 ギブアンドテイク。

 お互いに与え合うこと。持ちつ持たれつの関係を意味する言葉だ。


「ほら、人の心が栄養ってことはね。つまり、負の感情が形になったヘイトリッドも精霊にとっては栄養ってことでもあるから」

「あ、そっか。それなら……」

「うん。私たち人間にとって、ヘイトリッドは駆除しなきゃいけない存在。精霊にとっては栄養。利害は一致してるよね?」

「魔法少女だけでヘイトリッドを完全に消滅させるのはかなり骨が折れる、んだっけ? でも、精霊なら簡単に食べて消してしまえる」

「そうそう。精霊は私たちに力を貸して、私たちがヘイトリッドを捕まえる。そうすれば私たちはヘイトリッドが減って助かるし、精霊は人間を敵にすることなく、労せずお腹が膨れるでしょ?」


 それが人間と精霊のギブアンドテイクの関係なんだ、と七夏は締めくくった。


「……精霊のこと。一個だけいい?」

「ん。いいよ。なにかな」


 栞里がレンダに声をかけると、どんなことでも答えるよ、という風にレンダは両手を広げた。

 ならばそれに甘えよう、と。栞里は好奇心に導かれるまま、さきほどから気になってしょうがないことを聞いてみることにした。


「……ヘイトリッドって、おいしいの?」

「へ?」


 レンダは鳩が豆鉄砲を食らったような顔をした。


「……あ。う、うん。僕たちの味覚は人間とは違うから、うまくたとえづらいけど……とりあえずまずくはないよ」

「なるほど」

「…………え? 他には?」

「他? ……特にない」

「え……え? ほ、ほんとにこれだけなの?」

「これだけだけど……」


 きょとんとした様子の栞里に、レンダは「なにか納得がいかない」という風に前のめりになった。


「いや、もうちょっとこう……ないの? こう、こんな化け物と一緒になんていられない! 私は家に帰らせてもらう! みたいな……」


 なぜそんな推理小説で犠牲者になりそうな人みたいな言い方なのだろう。


「レンダって化け物なの?」

「その、そう受け取られてもしかたはないかなと……」

「ふむ……それはつまり、そんな精霊を鞄で叩いて退治してみせた私はさらにワンランク上の化け物ということになるのでは……?」

「なんで!? その、あれはあくまで動物形態だったからであって……だいぶ油断もしてたし。本来はあれくらい魔法で簡単に防げたんだよ……?」

「……そっか」

「『そういうことにしておいてあげるね』みたいな目やめてっ!? 本当なんだって! 本気の精霊って魔法少女の一人や二人じゃ相手にならないくらい強いの! すっごく怖いんだよ!」

「どんな感じに怖いの?」

「え。ど、どんな感じ……? …………えっと……」


 レンダはしばらく悩むように沈黙した後、ばっ! と両腕を広げた。


「が、がおーっ!」

「すごい」

「なんて雑な感想なんだ……」

「じゃあ、超すごい」


 栞里のからかうような反応に、レンダがちょっと頬を膨らませてむくれ始める。

 栞里としては、別にからかっていたつもりではなくて、ただ本当に精霊を化け物だなんて思っていなかっただけなのだけど……きちんと言葉にしないとレンダは納得してくれなさそうだ。

 言葉を大切にすることは母の教えでもあるので、栞里は正直に自分の気持ちを伝えることにする。


「私は、化け物だのなんだのと悩める人は化け物じゃないと思う」

「……どういうこと?」

「犬とか猫っているよね」

「へ? 犬? 猫?」

「ドッグ。キャット」

「別にスペルを聞き返したわけじゃないけど……」


 唐突な話題転換にレンダの表情が困惑に染まっていた。

 しかしこれは繋がりのある話である。それを説明するためにも、栞里はなおも続けた。


「犬も猫も、その気になれば人間を食べることとかできるの。特に犬は狼の子孫だから、人間より強い子もきっとたくさんいる。でも人間にとって実際は犬も猫も可愛いから大人気なの」

「う、うん」

「精霊も、それと同じことだと思う。人の心を食べる力があるけど、そんなことは些細な問題なんだ」

「それが些細な問題って、結構すごいこと言うね……」

「だって、世界にはライオンや虎、クマなんかを飼い慣らす人だっている。第一、人間だって包丁とか持てば簡単に他人を傷つけることができる。なのに精霊だけ化け物扱いはおかしい……と私は思う」


 栞里は席を立つと、レンダの近くまで移動して、そっと手を差し出した。


「……? これは?」

「お手」

「はい?」

「お手」

「…………えっと……」


 レンダは散々悩んだ後、栞里の指示通りに自分の手を栞里のそれに重ねる。

 すると栞里は満足したように、もう片方の手を伸ばして、レンダの頭を撫でた。


「よしよし」

「……なんだこれ……」


 レンダは終始わけがわからなそうに困惑していたが、栞里はとしては伝えたいことはもう伝え終えたので、ただただ黙って頭を撫で続けた。


「あはは。たぶん栞里ちゃんは『少なくとも私はあなたを怖がらない』って言ってくれてるんだと思うよ」

「そうなの……かなぁ? でもなんだか、若干子ども扱いされてるような……」

「お手されてたし、どっちかと言うとペットじゃない?」

「どっちかで言うなら子どもであってほしいよ!」


 犬や猫でたとえた後からの、お手である。

 どっちかと言うとやはりペットである。


「というか僕、これでも一応君たちより全然年上なんだけど」

「関係ないんじゃない? 私も年上だけど容赦なくなでなでされたし」

「これ七夏もされたんだ……」


 レンダはあいかわらず微妙な表情ではあったが、栞里なりの気遣いであると理解したからだろう。


「……ありがとう、栞里」

「ん」


 頬を緩め、お礼を言う。

 そんなレンダに、栞里も短く返した。

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