15.疑いようもないほどコアラ
時が経つのも早いもので、夕食を作っていた頃は夕焼けに染まっていた空はすでに暗く、星々が煌めいている。
栞里と澪の二人は現在、栞里の自室にて絨毯の上に向かい合って座っていた。
「次は変身の魔法についておさらいするね」
二人の間に置かれたノートを指差しながら、澪が真面目な顔で言う。
澪が指差す先に描かれているのは、変哲もない棒人間と、そこから伸びる矢印。矢印の先には、打って変わってなんかすごそうなオーラを纏った棒人間が仁王立ちしている。
題は変身だ。魔法少女にとってもっとも馴染み深く、重要な魔法である。
夕食作りの最中に約束した通り、二人は入浴を済ませた後、魔法少女の勉強会をしていた。
今までレンダや先輩たちから聞いたこと。自分が実際に体験したこと。そして栞里は知らず、澪は知っていることを交えて復習している。
その時間はすでにかれこれ一時間近くにも及んでいた。
「まず、わたしたちみたいな魔法少女が特異魔法以外の魔法……つまり、この魔力結晶の中に保存してある魔法を使うためには、先に変身をしなきゃいけないの」
澪がピンクのパジャマの袖をめくると、可憐な桜色の宝石が埋め込まれた腕輪があらわになる。
「変身も魔法の一つだから、厳密には、特異魔法と変身以外の魔法を使うには……かな? 魔力結晶がないと変身できないし、身一つで使えるのは本当に特異魔法しかないんだけどね」
オーラを纏う棒人間の頭上に、澪は小さな宝石の絵を書き加える。
魔力結晶は、魔導協会が誇る魔法技術が生み出したものの中でも特に代表的なものだ。
魔力結晶はそれ自体がさまざまな機能を持つが、その本質は増幅器である。
精霊やヘイトリッドが持つ、他者の心に触れる能力。それを擬似的に再現、応用し、人の心と魔力結晶とを接続することで、本来その人物が持つ潜在能力を刺激し増幅させ表側へと引っ張り出す。
変身時の衣装の変化もまた、それらの一環だ。
その人物が心の奥底に抱く憧れを外部にも反映することで、その心と魔力結晶との繋がりをより強固にする役割がある。
「変身すると魔力の出力が上がって簡単に魔法を使えるようになるけど、それだけじゃないの。反射神経とか空間認識とか、そういう感覚的な能力もすっごく鋭くなるんだよ。頭の中の靄が晴れるみたいに」
七夏とともにヘイトリッドと相対した時の一幕を、栞里は思い出す。
七夏は最初にヘイトリッドに襲いかかられた時、危なげなく上半身をそらして回避したばかりか、流れるようにオーバーヘッドキックまで決めた。
あれが運動神経抜群な世界的なアスリートとかならばともかく、ただの一女子高生が当たり前のごとくやってのけるなど異常である。
「もちろんデメリットもあるけど……こんな感じで……」
なんかすごそうなオーラを纏う棒人間からさらに矢印が伸びて、今度はへなへなと情けなく倒れ伏す棒人間が描かれた。
「普段は眠ってる、もしかしたら死ぬまで目覚めないままの力を無理に起こしちゃうから、それだけで心と体の負荷がすごいの。一度変身して解除するだけでも、全力疾走した後みたいにどっと疲れちゃう……」
「ん……あれはなかなかきつかった」
それもまた今日体験したことの一つである。
ヘイトリッド退治を終え、変身を解いた時の疲労は如何ともしがたい。
あまりにもひどかったものだから、思わず意識を手放して眠ってしまったほどだ。
……そしてそのせいでその後、七夏に寝顔を見られてしまったのだが。
余計なことまで思い出してしまったせいで、栞里は頬が徐々に赤らんでいく。
「えっと、栞里ちゃん? どうかしたの?」
「な、なんでもない。私は至っていつも通り完璧に平静。絶対に間違いない」
「そう……? でも、なにか心配なこととか不安なこととか、頼りたいことがあったらなんでも言ってね。必ず力になるから。なんたってわたしは栞里ちゃんのパートナーだもん」
むんっ、と小さな胸を張る澪はなんとも頼もしく、そして可愛らしい。
「えへへ。んーと、それで次は……精霊についてだね」
ページをめくると、机に突っ伏してぐーたらしているレッサーパンダが現れる。
かなりデフォルメされており、なんとも可愛らしく気持ちよさそうに眠っていた。
言わずもがな、レンダである。わかりやすく視覚的に精霊の例を挙げるにあたって、一番身近なレンダが抜擢されたのだった。
「精霊は動物と人間、二つの姿を持つの。レンダちゃんの場合はレッサーパンダだけど、他の精霊はそれぞれ違う姿になるみたい。犬とか、猫とか? そこにいても不自然じゃない、人間にとって馴染み深い姿を選んで魔法で作ってるみたいだよ」
「不自然じゃない……?」
レッサーパンダは不自然じゃないのだろうか?
というか、不自然だったから栞里は初対面の時にレンダを鞄で張り倒し交番に送り届けたのだが……。
栞里が考えていることには検討がついているようで、澪は苦笑した。
「精霊は人とおんなじ姿になれるけど、本質的には人とは違うみたいだから。たぶん、小動物ならなんでも同じように見えるんじゃないかなぁ」
澪はレッサーパンダの絵の下に『かわいい』と書き加える。
「自分で選んで自分で作った姿だから、なにか愛着があるのかも? そういう感情なら、わたしたちでも少しはわかるでしょ?」
「ん……そうかも?」
栞里は自分のベッドの枕の横にある、ぬいぐるみを横目で見た。
クマなのかネズミなのかタヌキなのか、はたまたウサギなのか、なにがなんだかよくわからない拙い姿をしている。
あれは昔、栞里が自分で作ったものだった。
ずいぶんと古ぼけてしまっていて、色も変色している。
でも、たとえ拙くても、不自然でも、自分の手で作ったものなら、そこには確かになんらかの価値がある。
そんなことを栞里が考えている横で、澪はノートに、レッサーパンダから伸びる矢印を書いていく。
今度は変化できる姿についての記述のようだった。『動物』『人間』と書き連ねて、そこで終わるかと思いきや、澪はさらに三行目にペンの先を置いた。
だけどそこに書かれたものは、『?』のマークだ。
「これは?」
「えっとね……動物と人間。基本はこの二つの姿を使ってるみたいだけど、一応、そういうのとは別に本来の姿っていうのもあるらしくて」
「本来の姿?」
「うん。でも、それはあんまり見せたくないんだって。詳しいことはわたしも知らないけど……」
「ふーむ……あ。化粧してない顔を見られるのは恥ずかしいとか、そんな感じ?」
「ふふっ。そんな女の子みたいなこと……あれ? でも精霊とは言えレンダちゃんも女の子だし……ありえなくない、かも……? むむ……?」
そうなると人間と動物の姿を使い分ける形態変化の魔法を化粧目的で使っていることになってしまうのだが、いかがしたものだろう。
「ま、まあその話はまた今度にして、話を戻そっか」
澪が咳払いをすると、栞里もこくんと頷く。
「さっきは変身の魔法と魔力結晶について話をしたよね? 元をたどれば、それも精霊たちが魔導協会と協力して作ったものなんだよ。資格がある人間を魔法少女にできるのも精霊だけ……いわば精霊は魔法の祖と言ってもいい存在なの」
ぐーたらしているレッサーパンダの上に、今度は「実はすごい!」と集中線を伴って書き加えられる。
「魔法少女が魔力結晶を介さないと使えないいろんな魔法を、精霊は身一つで行使することができる。その力のほども、精霊と魔法少女とでは雲泥の差があるらしいの。魔法少女の魔法なんて、精霊にとってはおもちゃも同然とかなんとか……」
「精霊って、そんなにすごいの?」
「うん。初めてレンダちゃんと会った時に教えてくれたんだ。変身で出力を上げなきゃ使えないような魔力結晶の魔法じゃ、まず精霊の魔法には敵わないって」
「……」
魔力結晶の中には魔法を円滑に扱うための武具、魔法補助具が保管されている。
栞里の補助具は双銃型だ。一時的に質量を付加した魔力を放つ、魔弾という魔法を放つことにもっとも適しているとされる。
この魔弾の魔法には、コンクリートでできた校舎の壁に容易く穴を開けてしまうほどの威力がある。
だが、これもしょせんは魔力結晶の魔法であることに変わりはない。
つまるところ精霊が行使する魔法の前では、コンクリートの壁を穿つ程度の力ならば取るに取らないということなのだろう。
「レンダちゃんいわく、魔法少女に唯一精霊に抗える力があるとすれば、それは……」
「特異魔法……?」
「あ、先言われちゃった。えへへ……そう、わたしたち魔法少女だけが使える特別な魔法、特異魔法。これだけは唯一、精霊が使う魔法を上回る力を発揮できるって聞いたよ」
今のところ栞里が仔細を知る特異魔法は、二つだ。
自身の魔力が干渉した二つのものの力を同じにする、七夏の《調和》。
生命や非生命を問わず傷を修復し元に戻す、栞里の《回復》。
正直栞里にはそれらがそんなにすごい魔法には思えないのだが……魔法について他のどんな存在よりも熟知しているからだろうか?
魔法少女だけが使えるというその魔法は、精霊の目にはよほど異質に映るらしい。
「……そういえば澪の特異魔法、って――」
問いかけようとする最中、抗い切れない欲求に苛まれて、栞里は大きくあくびをした。
ただでさえ今日は初めてのヘイトリッド退治を体験した後だ。変身し、慣れない魔法を何度も使った心の疲れも未だ抜け切っていない。
自分の体調を自覚するとどんどん眠気が襲ってくるものだから、栞里は堪えるように目元をこする。
「ふふっ。今日はもうお開きにしよっか。思ってたより長引いちゃったし……栞里ちゃん疲れてるみたいだから」
「私はまだ……だいじょう、ぶ」
「む」
眠気を我慢するような栞里に、澪は見せつけるように指でバツマークを作った。
「めっ! だよ。夜更かしはお肌にも健康にもよくないの。栞里ちゃん、せっかく肌が綺麗なんだから大事にしないと」
「む、むぅ……お母さんみたいなことを……」
「えへへ。もしかして、よく言われてた?」
「そんなこと……………………ない」
「沈黙がすごい長かったけど……」
とにかく夜更かしはダメ! と強く主張する澪の根気に負けて、栞里はしぶしぶ了承した。
本当はやっぱり、もうちょっとだけ勉強会を続けていたい気持ちがあったけれど、
「よろしい」
なんて、まるで母親の真似をする子どものように澪に楽しげに笑われては、文句を言うこともできなかった。
そんなこんなで勉強会の片付けを終えると、栞里はベッドへ、澪はそのすぐ横に敷いた布団の中にいそいそと身を委ねる。
当初、澪が居候する期間がまだ明確でないことから、栞里は澪に個別の部屋を貸し与えようと思っていた。
いや、実際に近いうちにそうする予定ではある。ただ、今日はひとまず同じ部屋で寝泊まりするという話でまとまっていた。
というのも、澪に使ってもらおうと思っていた空き部屋がしばらく見ない間にずいぶんと埃が溜まっていて、衛生上あまりよくなかったからである。
栞里は謝ったが、その時の澪は、ほんの少しだけ嬉しそう、にも見えた気がする。
平日はあまり時間がないことも多いことから、明後日の休日にでも掃除をしようということとなり、それまでは一緒の部屋で寝泊まりすることが決まったのだった。
「……ね、栞里ちゃん」
照明を消した、静かで薄暗い部屋の中。
まだ起きているか確認するように澪が小さく呟いた。
すでに眠気でうつらうつらとし始めていたが、なんとか意識を保って栞里は相槌を打つ。
「栞里ちゃん、さっきそこのぬいぐるみ見てたよね? ……そのぬいぐるみって、もしかして――」
あんまりにも眠すぎて、寝起きでもないのに寝ぼけていたのか。
ぬいぐるみのことを聞かれて、栞里は半ば無意識のうちに、枕の横のそれを澪に差し出していた。
「そうだった……はい、おかーさん」
「栞里ちゃんがつく、え、えっ?」
話の途中で突然当たり前のようにベッドの上からぬいぐるみを手渡されて、澪は目を白黒とさせた。
「だって、おかーさんはこれがないとねむれな……あ」
もう半分以上瞼を閉じて、呂律もつたなくなっていた栞里が、はっとしたように声を上げた後、すっかり沈黙する。
澪からは角度的に栞里の顔は見えなかったけれど、なんとなく、顔を赤くしてどこか恥ずかしがってるような、そんな雰囲気だけは伝わってきた。
そんな栞里の様子に澪はちょっと頬を緩ませながら、改めて聞いてみる。
「これ、栞里ちゃんが作ったんだよね?」
「…………うん」
羞恥の奥から、絞り出すような声だった。
なんかちょっと可愛い、なんて思う澪。
「その、ごめん……寝起きでもないのに、ちょっと寝ぼけてた……」
「ふふ。眠いんだからしかたないよ。わたしこそごめんね。もうちょっとで寝れそうって時に話しかけて」
「澪は悪くない」
暗闇の中、カーテンの隙間から差し込むわずかな月明かりを頼りに、澪は目を細めてぬいぐるみの輪郭を捉える。
「んー……クマさん、かな? ふふっ。可愛いねー」
「……コアラ」
「え?」
「それ、コアラ」
「あ、はい」
なんとも言えない無言の圧力を感じ、反射的に敬語になる。
「……それは昔、お母さんにプレゼントしたものなの。お母さんは、よくそれを抱いて眠ってた。まだ裁縫が苦手だった頃に作ったものだから、継ぎ接ぎだらけで、出来も全然よくないのに……クマに見間違えられるくらいなのに」
「そ、そのー」
「気にしてない」
「あ、はい……」
どう見ても気にしていたが、本人がそう主張するなら尊重しなければならないだろう……。
「……もうこれがないと眠れないって、いつも大事そうにしてくれてた」
「そうなんだ……」
「四六時中家の中で抱えてて……肩にかける紐まで取りつけて……しまいには仕事にまで持っていって、一時的に没収されて泣いてた」
「た、大変だったんだね……」
(……でも……なんだか……)
栞里の口から聞く、彼女の母のエピソードは、どれもまるで思い出話を語るみたいで。
それを語る栞里もなんだか、とても大事な宝物を扱うかのように、楽しげで。
でもどこか……少し寂しそうにも見えた。
そんな栞里を眺めていると、ずっとずっと聞きたかった、でも踏み込めずにいたその質問を、澪は自然と口にしていた。
「ねぇ、栞里ちゃん。栞里ちゃんのお母さんは、今、どこにいるの?」
本当のことを言えば……その答えを、澪はもう半ば予想できてしまっていた。
澪がしばらく居候することになっても、誰にも連絡していなかったこと。
実際に家に来てみても、栞里以外の誰もおらず、帰ってくる気配もない。
二つあった、使い古したエプロン。
母のことを語る彼女の、ずっと遠い別の景色を眺めるような眼。
澪の質問に栞里は、ほんの少し間をおいて、ぽつりと答えを告げた。
「もう、いない。どこにも」
「……」
「私が中学三年生の時の……この前の冬に、病気で亡くなったから」
「……そっか……」
「……」
「……」
二人の間に、沈黙が落ちる。
気まずいような、そうでもないような。
澪は、今手元にある、栞里の母がいつも抱いていたという栞里の手作りのぬいぐるみを見下ろしてみた。
それから栞里の母がやっていたと言うように、ぎゅっと抱いてみる。
なんとなく、どこか安心するような、不思議な感覚だった。
(……この感覚を、栞里ちゃんのお母さんも覚えてたのかな……)
だとしたら。
「……栞里ちゃんのお母さんは、きっと」
ぬいぐるみを撫でながら、澪は微笑む。
「栞里ちゃんと一緒にいられて、幸せだったんだね」
「っ――――」
残念ながら、返事はなかった。
(んー……すごく眠そうだったし、さっきちょっと黙っちゃった時に、寝ちゃったのかな……)
だとしたら、明日、また謝らないといけないだろう。
今更だけれど、やっぱりよくなかった、と思うのだ。
勢いで聞いてしまったけれど、無遠慮に彼女のプライベートに踏み込んだことは。
ごろん、と栞里のベッドに背を向けて、澪は目を閉じる。
(……栞里ちゃんも、お母さんのことが大好きで……)
たとえ母がもうこの世にいないんだとしても、彼女にとってそれはずっと、綺麗な思い出のままで……。
今抱いているこの感情が、どれだけ汚く、醜いものなのかを澪は自覚していた。
栞里が感じたであろう悲痛を、なにも考慮していない。浅ましい嫉妬だ。
それでもそれを思わずにはいられなかったのは、澪自身が、失意のままにすべてをなくしてしまったから。
(ちょっと……羨ましいなぁ……)
ぬいぐるみを抱きしめて、暗い闇の中、澪は思い出していた。
一人になるといつも頭の中をよぎる、あの日のことを。
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