16.自分が化け物だと悩まない者

 澪の家は、ありふれた家庭だった。

 父と母と、澪自身と、年の離れた妹。四人家族。

 両親の仲も良好で、姉妹仲も決して悪くはない。

 母が作ってくれるお弁当の中には、いつも甘い卵焼きが入っていた。

 妹は、毎日毎日同じ品物が入っていることに若干ふてくされていたけれど。というか澪も、さすがに毎日はきついなって思ってたけど……。

 それでも残すようなことはしなかった。

 幼い頃からずっと続いていた日々だったから、これからも、それがずっと続いていくんだろうと、無意識のうちに、そんな風に思い込んでいた。

 でも、まだ魔法少女になる前の、あの日に。部活動が長引いてしまって、いつもより帰りが遅くなった、あの日。

 突然すべてが崩れ落ち、それでいて淡い夢だったかのように、儚く消えてしまった。


『……? 明かりが消えてる……?』


 家にたどりついた時、いつもと違う家の状態に澪は眉をひそめた。

 いや、本音を言えば帰り途中からもうすでに、なにか言いようのない違和感を覚えていた。

 これまでずっと同じだったはずのことが、どこか違うような。違う場所に、迷い込んだみたいな。

 嫌な予感に急かされるように足早に帰路を歩いた。

 帰りが遅くなったとは言っても、しょせんは中学の部活動の範囲だ。一九時までには家につくくらいの時間。

 でも春に近い冬の頃だったその時はまだ、外が暗くなるのは早かった。


『鍵は……開いてる』


 澪を置いてどこかに出かけているとか、そんな感じでもなさそうだった。

 もしそうだったなら、どんなによかっただろう。

 早く入らなければいけないような、理由もわからない焦燥を胸に、澪は家の中に足を踏み入れる。

 その時だ。家の奥の方から、幼く甲高い悲鳴が聞こえたのは。

 妹の声だった。


『っ、かほ!』


 薄っすらと感じていた嫌な予感が形を伴って浮き上がり、妹の名を呼んで、声がした方向へ急ぐ。

 居間の奥、台所の方に、妹のかほと『それ』はいた。

 邪悪に口の端を吊り上げて笑う、闇の中にあって妖しく光る瞳を持った女性。

 かほはそんな彼女を、尻もちをつき、恐怖を顔に張りつけて見上げていた。


『あらぁ? あなた、この子の家族? ふふっ、まだいたのねぇ。消音の魔法は使ってたはずなのに躊躇せず入ってくるものだから、一瞬ちょっと焦っちゃったわぁ』


 光る瞳の女性が振り返って、唖然とする澪を見た。

 そしてその時、ふっと気がつく。

 さきほどまで、この女性の瞳の色は紫だった。

 でも澪に視線を送る最中、その色が目まぐるしく変化していた。

 角度によって、青に、赤に、黄色に、形容のしがたいさまざまな色に。


(人間じゃ……ない……?)


 ぞっとした感覚で、後ずさる。

 逃げなければ、と。そんな思考が頭をよぎる。

 当然だ。だって、澪はまだ中学生の普通の女の子でしかない。こんな得体の知れないものを見て、恐怖を感じない方がおかしい。

 けれど視界の端に映った、かほやこの女性とはまた別の、二人の人間の姿を見て、澪は後ずさる足を止めた。


『お、父さん……お母……さん……?』


 うつ伏せで倒れた見慣れた背中。十数年ずっと見続けてきたのだ。見間違えようがない。

 気を失っているだけで、外傷はなさそうだった。でもだからと言って、無事だという感想はまったく出てこない。

 よくはわからない。わからないけれど。

 なにか、もう取り返しのつかないことになってしまっているような、そんな予感がした。


『あぁ、それねぇ。なかなか美味だったわぁ。とても幸せな家庭だったのねぇ。幸せの味はおいしいから、私、好きよ』

『なに、言って……』

『だから期待してるの。あなたと、この子の記憶。それもさぞ美味なんでしょうねぇ、って』


 言っていることはなに一つとして理解できない。

 だけどわかったことが一つだけあった。

 この女が、父と母をこんな風にして、そして今度は妹に手を出そうとしている、すべての元凶である。

 縋るような眼で澪を見つめるかほの姿を見て、澪は胸の内を支配しかけた恐怖の感情を振り払った。

 震える手を握りしめ、持っていた鞄を光る瞳の女性に向かって投げつける。視線を遮るように、顔に向けてだ。

 女性がそれを振り払っている間に、澪はその横を駆け抜けた。


『かほ……!』


 怯えて座り込んだ妹を抱きしめる。そして、そのままくるりと振り返った。

 光る瞳の女性は愉快なものを見るような目で、澪とかほを二人を観察している。

 どういうわけか、すぐに手を出してくる気配はなさそうだった。


『おねえ、ちゃん……』

『……かほ、落ちついて。大丈夫だから。お姉ちゃんが……なんとかしてあげるから』


 最後に一度だけ笑って頭を撫でて、澪はかほを離した。

 調理台の上に置きっぱなしだった包丁を素早く手に取って、光る瞳の女性に向けて構える。


『へえ』


 なにやら感心したように、光る瞳の女性がぽつりと漏らした。


『はぁ……ふぅ……』


 うるさく鳴り響く心の臓を落ちつけるために、懸命に呼吸を整える。

 この光る女性を見た時、確かに澪は恐怖を覚えた。でも今感じている恐怖は、それとは別種のものだった。

 刃物を、人を殺せる道具を人に向けるのが、こんなに怖いなんて。

 だけど、それでも。

 自分がやらなければ。どんなことになっても、せめて妹だけは守らなければ。


『お、おねえちゃん……』

『……わたしが隙を作るから……かほは、横を通り抜けて。それから外に出て、大声で助けを呼んで。怖いかもしれないけど……』

『……だい、じょうぶ……やれる、から』


 澪の覚悟を汲み取ったのか、目に希望を取り戻して、こくりと頷いてみせるかほ。

 未だ、光る瞳の女性は愉快げにこちらを眺めているだけだ。

 澪は最後に一度深呼吸をして、きっと目を鋭く細めて駆け出した。


『かほ!』


 走り出してすぐに、妹の名を呼んだ。背後でそれに反応して、同じように駆け出す音がした。

 やることは一つだ。この包丁で、この女性を刺し貫く。

 致命傷になろうと構わない。その後、過剰防衛とかなんとかで、逮捕されようと構わない。

 そんな覚悟で、澪は女性の胴体へ包丁を突き出した。

 ――けれど。


『いいわねぇ。気に入ったわぁ』

『えっ?』


 刃の切っ先が澪の頬を裂き、宙を飛ぶ。

 なにが起きたのか、まるでわからなかった。

 ただ、突き出した包丁が女性の体に届くよりも先に、なにもない空中で弾かれたのだ。なにか硬いものにでも衝突したように。

 驚きで目を見開く澪の横を、かほが過ぎ去る。

 ダメだ、と静止する暇もなく、かほは難なく光る瞳の女性に首を掴まれ捕まった。


『あぐっ――』

『っ、や、やめてっ!』


 光る瞳の女性が首を掴んだかほを掲げ、大きく口を開く。

 なにかを食べようとするかのようだった。

 止めようとしても、見えない壁に阻まれて、澪はそれを、見ていることしかできなかった。

 やがてかほが、だらんと両手を下げた。全身の力を抜いた。

 そんな彼女を、光る瞳の女性は、もう用済みだと言わんばかりに両親と同じ方へ投げ捨てる。

 死んでしまったわけでは、なさそうだった。

 でも、やっぱり、なにか取り返しのつかないことになってしまったような、そんな感覚だけが心にこびりついて、離れてくれない。


『か……ほ……どうし、て……』


 なんの役にも立たなかった欠けた包丁が、からんっと床に転がった。

 かほのなにかを食べた光る瞳の女性は、なにやらご満悦そうに、恍惚に嗤っていた。


『子どもの記憶もいいわねぇ。量は少ないけど、純粋な記憶ばかりで質がよくて……』


 絶望に膝をつき、頭を垂れるしかない澪を、光る瞳の女性は見下ろす。

 ……次はきっと自分の番なのだろう。澪はそう思った。

 初めてこの女性を見た時、そして包丁を向けた時はこれでもかというほどの恐怖を感じたのに、なぜか今はなんの感情も浮かばない。

 光る瞳の女性は、そんな澪に無邪気な悪魔のように笑いかけると、くるりと身を翻した。


『あなたはいいわ。もうお腹いっぱいだし、デザートも食べたしねぇ。そろそろ協会のやつらが嗅ぎつけてくる頃だし……あなたのその心だけは生かしてあげる』

『……え……?』

『今日は気分がいいからねぇ。ふふ、感謝なさい? こんなことは滅多にないのだから。無様に、惨めに、後悔しながら生きるといいわ。慎ましく……ね』


 見下すようにそれだけ告げて、女性は去っていった。

 追いかけることは、できなかった。しても無駄だということは澪自身が一番よくわかっていた。

 家族を置いていくこともできない。

 ただ膝をついたまま、呆然としていることしかできずに。

 やがてやってきた魔導協会を名乗る人たちに、澪は保護された。

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