14.うちの栞里は世界一可愛い
「ごちそうさまー……ふぅー、おいしかったぁ。栞里ちゃん、料理本当に上手なんだね」
夕食を食べ終えた二人は、ゆったりと談笑していた。
澪の褒める言葉に栞里は満更でもなさそうに胸を張る。
「それにしても、澪は偉い。好き嫌いせずに全部食べた」
「偉いって……わたしもう高校生だよ? 仮に嫌いなものが入ってたって残すような真似はしないよ」
「でも、お母さんはピーマンが献立にある日はいっつもピーマン最後まで残してた」
「えぇ……あ。アレルギーとか?」
「特にそういうのはない」
「……まあでも、一つくらいはどうしても食べられないってものがあってもしかたはない、かも……? 人間ってそういうものだと思うし」
澪は自分よりはるか年上だろう人が恥ずかしげもなく好き嫌いしている事実に臆するも、栞里の母親ということで、なんとかフォローを試みる。まごうことなき良い子である。
しかし栞里は、はたと間違いに気づいたように首を横に振った。
「ちょっと誤解を招く言い方だった。残してるのは最後までだけで、一応、他のものが全部食べ終わった後には食べるの」
「あ、そうなんだ。すっごく苦手なんだろうに、偉いねぇ」
「うん。偉い。いつも最後に、『栞里……好き嫌いすると体の健康も心の健康も保てないから、どんなものもきちんと食べるのよ……』って言いながら、顔面蒼白で全身痙攣させながら涙目で食べてた」
「本当に偉いね……」
きっとこれ以上ないほどに苦手なんだろうに、娘の前だからと必死に頑張っていたのだろう……。
「あ、そうだ」
ここで澪は、なにかを思い出したようにスマホを取り出した。
「ね、栞里ちゃん。連絡先交換しよう? 七夏先輩たちとは明日しかできないけど、栞里ちゃんなら今近くにいるからすぐできるし」
「ん。それは別に構わない、けど」
「けど?」
「……スマホ、しばらく使ってないからどこにあるかわからない」
「つ、使ってない?」
「充電もたぶん切れてる」
「えぇ……」
ちょっと現代人にあるまじき発言だったが、澪が話を聞いた限り、自室のどこかに置いてあるのは確かなようだった。
すると、栞里が言う。
「澪。お風呂入れてあるから、先に入ってて。その間に探してる」
「え。わたしが先に入っていいの?」
「……? 一緒に入りたいの?」
「んえっ!? い、いやっ、そういうことじゃなくてね?」
なんてことないようにそんなことを言い出した栞里に、澪はあたふたとする。
なぜ先に入らせるか一緒に入るかの二択なのか。後に入らせるという選択肢はなかったのだろうか。
それに銭湯ならまだしも、普通の家の浴室だ。
高校生にもなってそれに友達と一緒に入るというのは、さすがにちょっと恥ずかしいものがある。
「えっと、一応わたし居候って立場だから、一番風呂なんて頂いちゃっていいのかなって」
「居候より家族がいいって言ったのは澪」
「それは……」
「とにかく、気にしなくていい。これからどれだけこうして一緒に過ごすことになるのかわからないし、気を遣ってばかりじゃ、きっと疲れる」
「……うん、そうだね。ありがとう、栞里ちゃん」
「ん」
満足そうに頷いた栞里は、テーブルの上に残った食器を手早く片付けると、足早に居間を出て行った。
残された澪は栞里に言われた通り、持ってきた荷物から着替えを取り出して、浴室へと向かった。
手前の脱衣所で服を脱ぎ、浴室で髪と体を洗って、浴槽に浸かる。
「ふわぁ……」
体の芯を温められていく心地よさに、つい息をこぼす。
浴室の外、少し遠くの方からは時折物音が聞こえて、ちょうど栞里が自室で探し物をしているだろう状況が容易に想像できた。
「栞里ちゃんのお母さん、かぁ」
さきほど食卓で行ったやり取りを思い返して、目を閉じる。
きっと、栞里ちゃんと同じように、美人さんで素敵な人なんだろうなぁ。
……でもやっぱり栞里ちゃんと同じように、ちょっと変わった人でもありそう。
澪は一人、栞里が語ってくれた内容から彼女の母親の人物像について想像を繰り広げた。
そんな折、ふと頭をよぎったのは、澪自身の家族のことだった。
母親と父親。歳の離れた一人の妹。澪は四人家族だった。
「…………」
湯船に浸かっているはずなのに、急にその温もりが嘘のように消えていく。
代わりに覚えるのは、心臓が冷たく鋭い金属の糸で強く締めつけられるかのような感覚。
温もりに溢れた記憶のはずだった。家族と過ごした日々は、その思い出はすべて、澪にとってかけがえのないものだ。
なのに家族のことを思い出した時、澪の心を満たすものは愛おしさなんかでは全然なかった。
その胸を襲うものは、痛みと苦しみと、悲しみ。
絶望。焦り。
そしてそのすべてを糧としてどうしようもなく膨らんでしまう、心の奥底に深く根付いた、強い一つの感情――。
「っ……!」
自身の内から思わず溢れ、暴れ出しそうになる心を抑えるように、ぎゅぅっと胸の前で手を握った。
それから家族の代わりに、栞里やレンダ、七夏や沙代と過ごしたこの二日間の出来事を思い返す。
今確かにここにある、温かな日常。それを意識することで、自分の内側で暴れ狂う感情から必死に目を背けた。
そのまま何度も深呼吸を繰り返すと、少しずつ心が落ちついてくる。
そしてその頃には、浴室の外で物音がほとんどしなくなっていることに澪は気づいた。
(……栞里ちゃん、ケータイ見つかったのかな? そろそろ出た方がいいかも)
胸の奥が、まだズキズキと痛む。気を抜いたら、また思い出してしまいそうだ。
だから澪は頭の中を栞里への考えと思いで埋め尽くして、早めに浴槽から出た。
澪がパジャマに着替えて浴室から出てくると、栞里は自室ではなく、台所で洗い物をしていた。
「わたしも手伝おっか?」
栞里はふるふると首を横に振った。
「こっちはもうすぐ終わるから大丈夫。手伝ってくれるなら、できればテーブルの方を拭いてほしい」
「はーい。任せてー」
二人で夕食後の後片付けを済ませると、澪は早速自分のスマホを持って栞里に歩み寄った。
「栞里ちゃん、スマホは見つかった?」
「うん。あれ」
と、栞里が指し示したのは、コンセントに接続して絶賛充電中のスマホだ。
「これって……結構古い機種?」
「たぶん? あんまり使わないし、詳しくもないからわからない」
「まあ、充電切れのまま部屋のどこかに放置してるくらいだもんね……」
「一応、ちょっとは充電したから、もう電源はつくはず……あ、ついた」
そんなこんなで起動の処理が終わると、二人は早速連絡先を交換しようとするのだが、栞里はなにやら操作に手こずっているようだった。
初めは久しぶりに自分のスマホを触っているからと解釈していた澪だったが、こっそり画面を覗き込んでみると、明らかにそれじゃないというアプリまで起動したりしていて、これではいつ連絡先を交換できるようになるかわからない、と言った状態であった。
「あの、栞里ちゃん? もしよかったら、わたしが栞里ちゃんのぶんも操作するけど……」
「……お願い」
「あはは。うん、任せて」
栞里のスマホを触るのは初めてだが、どんな機種であろうと同じ携帯電話という道具である以上、根本的な部分は変わらない。連絡先の表示くらいはスムーズにこなせる。
まずはお互いの電話番号をお互いに登録して、それから少し考えて、
「栞里ちゃん。栞里ちゃんのスマホに新しくアプリ一つ入れていいかな?」
「あぷり……いいけど、どんなの?」
「
「……それ、本当に無料?」
「うん」
「……澪。騙されちゃいけない。そんなおいしい話があるわけがないの。昔から、タダより安いものはないってよく言う。それはきっと巧妙で悪質な罠」
至って真剣かつ神妙に、栞里は言い切った。
若干気圧されつつも、澪は苦笑いで告げる。
「だ、大丈夫だよ。本当に無料だから。これ、今時の子なら皆入れてるアプリだもん。安全性は証明されてるよ」
「澪も?」
「うん。わたしも入れてる」
「……じゃあ、信じる」
「あはは……」
あいかわらずの栞里の様子に苦笑しつつ、とりあえず許可は得られたので、澪は自分と同じアプリを栞里のスマホにもインストールする。
栞里は苦手なことは苦手じゃなくなるまでやり続ければ、なんて言っていたが、ちゃんと苦手なことはあったようだ。
少なくとも、現代機械の扱いは苦手そうだ。
(今日はいろんな栞里ちゃんが知れるなぁ)
思わず笑みをこぼしてしまいつつ、澪は栞里にスマホを返した。
「えっとね、今インストールしたのはこれ。アプリの方にもわたしの連絡先も登録しておいたから……試しにチャット送ってみるね」
「うん」
澪が適当に文字を打って送信を押せば、栞里のスマホからピコンッと通知音が鳴った。
「おお……」
さながら初めてスマホを手にしたかのような反応だ。
目を輝かせ、画面に目が釘付けになっている。
澪と同じように栞里も文字を入力して、送信を押した。
「『明日のお弁当の献立なにがいい?』って……ふふ。今は近くにいるんだから、直接聞けばいいのに」
「じゃあ明日のお弁当の献立なにがいい?」
「んー、そうだねぇ」
考えるふりをしながら澪も同じくチャットを入力し、送信と同時に栞里に笑いかける。
「『卵焼き』、かな」
「澪は本当に卵焼きが好き」
「ふふ、ちょっと違うかな。栞里ちゃんの卵焼きがそれだけおいしいんだよ」
「そうかな」
「そうなんだよ」
見つめ合い、くすくすと笑い合う。
どうやら栞里はチャットが気に入ったようだ。
なんてことないこともチャットで話そうとする栞里に微笑ましい気持ちを覚えつつ、澪がさらにスタンプの使い方を教えると、栞里は早速それを使ってくる。
明るく、可愛らしいペンギンのスタンプだった。お辞儀をするペンギンの頭上に、尖ったフォントで『ありがトリ!』なんて文字が浮かんでいる。
「どういたしまして。でも栞里ちゃん、そろそろお風呂に入った方がいいと思うよ? あんまり遅いとお湯が冷めちゃう」
「あ。そうだった」
はっとした栞里が、少し慌てた様子で着替えを持って浴室へ向かう。
それを見送って、ぽつんと居間に一人ぼっちになると、なんだか少し寂しいような気分になる。
だからだろう。浴室の方からシャワーの音が聞こえ始めると、不意に栞里が言った一言が頭をよぎった。
――一緒に入りたいの?
(すごく当たり前みたいに聞かれたなぁ……)
もしあそこで頷いていたなら、本当に一緒にお風呂に入っていたのだろうか。
それはなんというか、やっぱり少し、いや結構……かなり相当、恥ずかしいことのような気がするけれど。
きっと楽しかっただろうなぁ、なんて。
そんなあり得たかもしれない一つの光景を想像してみると、お誘いをつい断ってしまったことが、なんだかちょっともったいないことのように思えた。
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