9.嫌よ嫌よも好きのうち

 昇降口で靴に履き替え、さきほど探索したトイレの真下まで来ると、栞里と七夏はそこに残っていたヘイトリッドの痕跡を調べ始めた。


「ヘイトリッドも千差万別でね。いろんな姿かたちのやつがいるの。一番厄介なのは飛行するやつかな」


 ヘイトリッドの痕跡だという魔力の残滓は、校庭の影となる道に沿って続いていた。一応、日が当たる箇所も通った形跡はあるが、ほんのわずかだ。

 負の感情が集まりやすい場所を好む性質は、こういうところにも現れているようだ。


「飛行型は空中に残滓が散ってて痕跡を追いづらいの。昼間はあんまり移動しないけど、夜はどこにでも飛んでいくし。捜索が本当に面倒でね……」

「今回のこれは、飛行型じゃない?」

「這いずったような跡だから陸上型かな。たぶんナメクジに近い見た目のヘイトリッドだと思う」

「ナメクジ……」


 やっぱりダンゴムシやゴキブリのようだというたとえは的を射ていたのではないかと栞里は思ったが、それを言うと七夏が嫌そうな顔をするのは目に見えていたので、おとなしく口を噤んでおく。


「えっーっと……この方角は、ゴミ捨て場の方かな? 残ってる魔力の濃さから見ても、たぶんその辺でうろちょろしてるはず」

「そういうのもわかるんだ」

「まぁねー。あんまり時間が経つと魔力が散って痕跡が消えていっちゃうけど、それはその消え具合でどれくらい前の痕跡かも推測できるってことでもあるし」

「なるほど」

「具体的にどれだけ前のものかーっていうのは経験頼りだけどね。栞里ちゃんもこの先も魔法少女を続けていけば、いずれわかるようになるよ」


 さて。と、七夏は鞄を校舎の影に置くと、ストレッチを始めた。

 七夏にならって、栞里も軽く体をほぐしていく。


「まず今回のヘイトリッドについてだけど、おそらく体が粘液状の魔力でできたナメクジみたいな這いずるタイプ。全長は三〇センチから五〇センチ」

「うん」

「比較的小柄のヘイトリッドかな。たぶんそんなに強くない、けど……油断は禁物だよ。普通の人にはまだ無害でも、魔法少女にとってはその限りじゃない」

「……わかってる」


 昨日、レンダから聞いた話が栞里の頭をよぎる。

 魔法少女になる直前、最後に一つ言っておかなきゃいけなくなる、と前置きされて話されたことだ。


『いいかい? 人間の心っていうのは普段は殻で大事に包まれていてね、元々、脆弱なヘイトリッドなら寄せつけないくらいの強度があるんだ』


 だが、強くなったヘイトリッドは心の殻そのものを破ってしまう力をも持つようになるという。

 そうなる前に退治するのが、これから魔法少女になる君の役目だ。と、レンダは言った。


『で、まあ、ここからが一番重要なことなんだけど……実は、魔法少女にはその殻がない』

『殻がない……? それって、ヘイトリッドに対して完全に無防備ってこと?』

『んー、言い方が悪かったね。殻がないというより、殻が変質してるって表現の方が正しいかな』

『変質……』

『体力が肉体的な力だとすれば、魔力は心に生まれる力なんだ。でも、殻で完全に閉じ込めた状態じゃ、その心の力を行使できない』

『……人が魔力を操るためには、殻の形を変えなきゃいけない。心から魔力を取り出せるように』

『そういうこと。ヘイトリッドは完全なる精神的存在……だから同じ次元にある心の力、魔力を介した方法でしか干渉できない。でも、そんな風にヘイトリッドに対応するために、心を覆う殻の形を変えた魔法少女という存在は……』


 無防備とは行かないまでも、普通の人と比べ、遥かにヘイトリッドの影響を受けやすくなってしまう。

 それでも君は、魔法少女になるかい?


「……」


 レンダから聞いたそんな話を思い返して、栞里は少し、緊張で体を強張らせた。

 魔法少女になったとしても、本人が望みさえすれば、魔導協会から離れて魔法とは無縁の日常を送ることもできる。

 そこだけ聞いた時は、また以前と同じ普通の日常を送れるようになると勘違いしてしまうだろう。

 だけど違った。魔法少女になることには明確なデメリットがある。

 魔法少女になったら戻れない――それはこれから先、ずっとヘイトリッドの脅威にさらされて生きていかなければいけないということだ。

 もしヘイトリッドとの戦いに怯え、嫌になってしまったとしても、その身は変わらずヘイトリッドの格好の餌だ。

 どんなに拒絶しようと、その気になれば見えてしまう。認識できてしまう。


(……それでも)


 それでもあの時、魔法少女になるかどうかの最終確認で栞里は頷いた。

 その選択に後悔はない。


「栞里ちゃん、行ける?」

「問題ない。いつでも行ける」


 レンダいわく、魔法少女は二人一組で動くものだ。

 今は栞里と七夏でパートナーを組んでいる。

 その片割れが、こんなところでいつまでも怖気づいているわけにもいかないだろう。


「あはは。栞里ちゃんは本当に将来有望だなぁ。でも、そうだなー……ひとまず、先に変身しておこっか。目標のヘイトリッドが近くにいるのは間違いないし」

「そういえば……七夏は変身が嫌いなんだっけ?」


 以前、栞里に魔法について信じてもらうため四苦八苦していた際、そんな感じのことを言っていた。


「……まあ、嫌いだけど……いやほんと嫌いだけど……これ以上ないくらい嫌いだけど……」


 三回も繰り返して言う辺り、マジで嫌いらしい。


「仕事だからね……嫌なことでもやらなきゃいけないのが仕事なんだよ……」


 きょろきょろと辺りを見回し、自分たち以外の人目がないことを確認すると、七夏は自分の右腕の袖をめくった。

 その右手首には、橙色の小さな結晶が埋め込まれた腕輪が巻かれている。


「……輝け、開闢の星」


 七夏がそのワードを口にした途端、七夏を中心に突風が吹き荒れた。

 メガネのレンズを介して見えるその風は、橙色の軌跡を描いている。だけど、レンズの外側ではなんの色も見えない。

 それはこの風が七夏の魔力が起こす現象であることを示していた。

 拡散していた風が収束し、七夏のもとに集う。光となってその身を包み、彼女の衣装が変化する。


「……はぁー……」


 変身を終えた七夏の口から真っ先に漏れたのはため息だ。

 自身の格好を見下ろして、ものすごくげんなりする。

 栞里は七夏の変身形態がそう悪いものには見えなかったが、いくつか気になるところがあったので聞いてみることにした。


「ねえ、七夏」

「……なに? 栞里ちゃん」


 その瞳はなんだか、どうか聞かないでほしいと懇願しているようにも見えた。

 が、もしかしたら魔法少女にとってなにか重要な意味があるかもしれないのだから、聞かないわけにもいかなかった。


「どうしてその衣装、そんな裾がボロボロなの?」

「……特に意味はないかな」

「どうして右腕だけ包帯巻いてるの? 怪我?」

「……特に意味はないかな」

「どうして包帯に変なフォントで英語みたいなの書いてあるの? 魔法の強化とか?」

「……特に意味はないかな」

「どうして今の七夏は片目の色が違うの? 変身の副作用?」

「……ただのカラーコンタクトかな……」

「どうして――」

「だぁあああーっ!」


 まだまだ気になるところがあったので質問を続けようとしたが、ここで七夏が耐え切れないと言わんばかりに絶叫を上げた。


「全部意味ないから! この見るからに中二病感満載な衣装に意味なんて欠片もないからっ!」

「え。ないの?」

「ないんだよ! 特に怪我してるわけでも魔法を強化する意味合いがあるわけでも変身の副作用とかあるわけでもなんでもないの! ただの頭の悪いおしゃれなの!」


 なぜか裾が擦り切れてボロボロな真っ黒な衣装。右手には変なフォントの文字が書かれた包帯、目には金色のカラーコンタクト。

 黒と白、それぞれ基調とした二振りの剣を両手に携えていて、橙色の小さな結晶を二分割した物が鍔に半分ずつ嵌められている。


「うぅ……魔法少女の衣装は一度決まったら容易には変更できない。これは昨日聞いたよね?」

「う、うん」


 割とガチで泣きそうな七夏に気圧されつつ、栞里は頷く。

 いわく、変身の衣装は本人の憧れの姿イメージが反映されるそうだ。

 そして一度変身してしまうと、それが自分の魔法少女としての姿だと無意識領域に刷り込まれるため、衣装を変更することが難しくなるという。

 つまり今の七夏の衣装は本来、いつかの彼女自身が望んだ憧れの姿ということになるはずなのだが……。


「……これはね、魔法少女になったばっかりの頃の、当時の私の憧れの姿だったの。あの頃の私はちょうど中二病の真っ盛りでさ。ウキウキ気分でいっぱいノートにありもしない設定書き込んだりしててさ」


 いじけたように、それでいてこっ恥ずかしそうに。

 手を合わせて、指先をいじりながら、七夏は続ける。


「変身は憧れの姿になれるって聞いたから、この衣装のためだけに絵の練習までしてね。これじゃないこれじゃないって連日書き込んで……」

「それで完成したのが、これ?」


 こくり、と七夏は肯定する。


「でも、憧れなんてのは日夜変化していくものじゃん。あの頃の自分が中二病だったことを自覚して、治ってくるとさ? 過去の行いを全部忘れて闇に葬りたい衝動に駆られるんだよ……」

「そうなんだ?」

「そうなんだよ。でも私の場合、いくらノートを燃やしても忘れようと努めても、この衣装がいっつもあの頃の記憶を私に突きつけてくるの……変身するたびに中二病だった過去を思い出させてくるの!」

「う、うん」

「たまに会う他の魔法少女からも生温かい目で見られるしさ!? 別にもう私中二病じゃないのに! 闇に葬って忘れ去りたいのに! 好きでこんな格好してるんじゃないのにぃ!」


 両手の剣を放り出し、栞里にしがみついて、一心不乱に涙目で主張する。

 どう対応したらいいかわからず、栞里の目線はおろおろとした。

 しかししばらく激情のままに叫んでいた七夏も、やがてその場に膝をつくと、どんよりと顔を伏せる。


「なんで……なんで私がこんな目に合わないといけないの? 私頑張ってるよ? いっつも頑張ってるよ? なのに、こんな仕打ち……うぅうー……やだ……もうやだぁ……」

「え、えっと……その……」


(な、なんて言えばいいんだろう……?)


 どうにか七夏を励ましてあげたかったが、なかなか良い言葉が出てこない。

 そもそも、栞里は人付き合いがあまり得意な方ではなかった。

 こんな時にどんな言葉をかけてあげたら元気になってくれるかなんて、全然わからない。


「……よ、よしよし」


 悩みに悩んだ末に栞里が行ったことは、なにか言葉を投げかけることではなくて、七夏の頭を撫でることであった。

 大丈夫、大丈夫、と。なにが大丈夫なのかはわからないが、とにかくそんな三文字を繰り返しながら、頭を撫でる。

 七夏はピタリと一瞬体の動きを止めたかと思うと、困惑した様子で栞里を見上げた。


「……えっと……なにこれ?」

「よしよし?」

「それはわかるけど……」

「その……私は七夏のこと、ちゃんとわかってる。たとえばその擦れた裾とか、あの敢えて破けたデザインにしてる……ダメージデニムみたいで格好良いと思う、よ?」

「いや、その、私この衣装気に入ってないから落ち込んでるんだけど……ていうかダメージデニムって。まあ発想の元は同じ、なのかなぁ?」


 話しているうちに落ちついたようで、七夏は栞里から離れると、手放していた双剣を回収して立ち上がった。

 涙の跡を拭い、ちょっとばかり気まずそうに笑う。


「なんていうか……ありがとね。励ましてくれて……」

「もう平気?」

「うん。もう大丈夫だよ。あはは、見苦しいとこ見せちゃったな……」


 目の下が赤いが、気丈に振る舞う七夏を見て、栞里も気持ちを切り替えることにする。


「じゃ、次は栞里ちゃんも変身しよっか! やり方は覚えてるよね?」


 栞里は首肯して、彼女と同じように制服の袖をめくった。

 七夏と同じデザインの腕輪。唯一違うのは、嵌め込まれた結晶の色だ。

 七夏の結晶は太陽の光のような橙色だったが、栞里のそれは深い海のごとき藍色である。

 これは魔力結晶。魔導協会が精霊と協力して作り上げた、魔法技術の結晶だ。

 魔法少女が魔法少女足り得るための核とも言える、重要な道具である。


「波打て、追憶の海」


 魔法少女の変身は、特定のワードを口にすることで半自動的に行われる。七夏が言っていた「輝け、開闢の星」もそれだ。

 あらかじめ決めておいた音の並びを合図に、この魔力結晶と本人の魔力とをリンクする。その相互作用によって心の活性を促し、奥底に眠る潜在能力を表側に引っ張り出すことで、平時とは比べ物にならない魔力出力と、超人的感覚の発揮を実現する。

 それこそが変身の魔法である。


「ん」


 蒼き魔力の風に包まれ、視界が鮮やかに弾けた。変身を終えると、眠気が覚めるかのごとく感覚が研ぎ澄まされる。

 変身を行うと、変身前に身につけていたものはすべて結晶内に保存され、服装が完全に入れ替わる。

 あの魔力を目視できるようになるメガネも一時的になくなるということだ。

 しかしそれでも、今の栞里にはヘイトリッドの魔力の痕跡が変わらず見えていた。

 変身による変化を実感していた栞里だが、横を見ると、まるで品定めでもするように七夏が栞里をじろじろと観察していた。


「ふーむ……栞里ちゃんの魔法少女衣装って、結構大胆だよね」

「そう、かな」


 肩や腹、太ももが露出した機能性を重視するような装いの上から、幾何学的な模様が描かれた短めのマントを羽織っている。布地部分は柔らかく動きやすい素材で作られているから、少しの窮屈さも感じない。

 腰に装着した二つのホルスターには二丁のハンドガンが収められており、本来なら安全装置セーフティレバーがある部分に、二分割された藍色の結晶が嵌められている。


「なにかイメージの参考にしたものとかあるの?」

「ん……昔よくテレビのCMで見たなにかのゲームの主人公の服……を、うろ覚えで思い浮かべながら変身してみたらこうなった」

「だいぶ曖昧なイメージだね……でも、うん。大丈夫! 確かにちょっと大胆だけど、栞里ちゃんスタイルいいからね。ちゃんと似合ってるよ」

「ありがとう」

「じゃ、そろそろ行こっか。あ、認識阻害の魔法発動しておいてね。見られると面倒だし。使い方はわかる?」

「たぶん」


 七夏はお手本でも見せるかのように、剣を大げさに掲げてみせた。

 それと同時に七夏の全身がほんの一瞬、橙色の霧状の魔力で覆われる。認識阻害の魔法を使ったのだ。

 これで終わりだと七夏が剣を下ろすのを見て、栞里もホルスターからハンドガンを抜いた。

 重さは簡単なエアソフトガン程度なので、容易に片手で扱える。


(……認識阻害……)


 魔法少女とは言っても、実のところ、特異魔法と呼ばれる固有の魔法以外は自力では使うことはできない。

 それ以外の魔法を使うには、七夏の剣や栞里のハンドガンのような、魔法補助具が必要だ。

 この魔法補助具には、魔法を記憶しておく機能がある。記憶した魔法は通常の状態では魔力の出力が足りず、効果を発揮できない。

 しかし変身状態ならば魔力の出力が大きく高まるため、補助具に記憶された他の魔法も自由に行使できるようになるのである。

 もっとも、補助具の魔法は特異魔法ほど自由に扱えるわけではない。そして魔法の記憶容量にも限界があり、強力で複雑な魔法ほど容量を多く埋めてしまう。

 それでも、状況に応じて様々な魔法を使える利点は他のなににも代えがたいものだった。


(……不思議な感覚……)


 双銃型の補助具に意識を集中させると、この中に封じられた魔法の存在とその使い方が、感覚的に理解できた。

 これが元々自分の体の一部だったかのような感覚だ。

 いや、正しく表現するのなら、体というよりも心の一部だろうか。

 変身状態である今、栞里の魔力は魔力結晶とリンクしている。そしてさきほどまで腕輪についていた魔力結晶は、今は二つのハンドガンにそれぞれ半分ずつ嵌め込まれている。

 魔力とは心の力だ。いわば栞里は、この双銃と心が繋がっている状態にある。


(……これかな?)


 魔法を選び、引き金を引く。

 カシュンッ! と、空気が弾けたような音。本物の銃にはほど遠い、軽い発砲音だ。

 すると、栞里の全身が藍色の霧で包まれる。

 ――認識阻害。

 微弱な魔力経由で見る者の心の向きをずらし、その現象に対して違和感を抱かせなくする。

 つまりこの魔法を使っている間はどんな格好で、なにをしていても注目をされることはない。

 これだけ聞くと便利そうだが、いかに魔法と言えど、万能というわけではない。

 この魔法は、効果の適用範囲が非常に広い反面、非常に繊細で弱い魔法でもある。

 例を言うと、この魔法の発動中すれ違う程度に軽く誰かと接触しただけで、その人にこの魔法は効かなくなる。

 また、初めから見られている状態から使っても効果はない。自身の魔力をコントロールできる魔法少女や精霊にはそもそも効かない。他にもいろいろだ。

 あくまでこの魔法は保険であり、これがあれば絶対に注目されなくなる類のものではないということである。


(今まで気がつかなかっただけで……私の近くでも、誰か魔法少女が戦ったことがあったのかな)


 誰に感謝されることもなく、人知れず人を守る。その感覚をほんの少し、噛み締める。

 先を進む七夏を追って、栞里はゴミ捨て場へと向かった。

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