22.復讐の花言葉

 栞里が最初に異変に気づいたのは、行き交う人の一部が妙にざわめき始めた時だった。

 すれ違う彼らは皆一様にスマホを見て、訝しげな反応をしている。

 その時の栞里はまだ、どうしたんだろう、と軽く思う程度で、ほんの少し違和感を覚えたに過ぎなかった。

 だけど最初はわずかでしかなかったそれは、時間が経つにつれてふつふつと湧き上がり膨らんで、言い表し難い不安感を栞里の内に募らせていく。


(……澪、戻ってくるの遅いな)


 平時なら、軽く店内を歩いて探すくらいで済ませていただろう。

 だけどなんとなく嫌な予感がしていた栞里は、早めに合流するためにも澪に入れてもらったLEINのアプリで連絡を取ってみることにした。

 そしてその時に、すれ違った人たちが訝しげにしていた理由をようやく理解する。


「圏外……?」


 電波が届かない山奥だったりするのならわかる。

 だけどここは、なんてことのない街の、普通のスーパーマーケットだ。

 それも周り様子を見る限り、栞里一人の問題ではなく、おそらくここら一帯の全員の電波が繋がらなくなっている。

 ――って言っても、確かエプシロンが行動起こす時って電波妨害の魔法とか使ってくるんじゃなかったっけ?

 不意によぎる、昨日の七夏の言葉。

 嫌な予感は確信に変わり、栞里の額を冷や汗が流れ落ちた。


「波打て、追憶の海――!」


 ショッピングカートを放り出し、急な動作に驚く人たちの視線を棚で遮って、変身に必要なワードを唱えた。

 澪がまだ店内にいる、などという甘い考えは栞里の中にはない。

 彼女が協会の監視から外れて間もないこの時期の、栞里と澪が一時的に離れたタイミングでの、近場での電波妨害。

 狙いなど知れているというものだ。

 衣装の変化が完了すると、すぐに腰のホルスターからハンドガン型の補助具を取り出して、認識阻害の魔法を装填して引き金を引く。

 棚の影から飛び出した彼女を気に留める人は、もういなかった。




   ✿   ✿   ✿   ✿




 栞里とエプシロンを探していた頃は夕暮れだった世界は、今はもう夜の闇に包まれていた。

 春にしては少し肌寒い空気が頬を撫で、吹き抜けていく。

 薄暗い雲の向こう側にかすかに見える、爛々と輝く満月は、世界にぽっかりと空いてしまった穴のようだ。

 あるいは人の記憶を喰らうあの化け物は、あの穴の向こうからやってきたのかもしれないと、澪はそんな妄想をしてみる。


「……」


 指定された公園までやってきた澪は、その敷地内に足を踏み入れた一瞬、どこか別の場所に迷い込んだかのように錯覚した。

 冷房がかけられた部屋に入る際に感じる温度の変化のように、自然的ではない何者かのよって作られた環境の違いに、澪の感覚が違和を訴える。

 目に魔力を通して周囲を見てみれば、その正体は容易に突き止められた。

 この公園全体を覆うように、ドーム状の魔力の膜が張り巡らされている。

 試しに一度来た道を戻り、その膜の外へ出ようとしてみると、澪の手は膜に弾かれた。


「無駄よぉ。あなたはもうここから逃げられない」


 電撃を受けたように痺れを訴える手に顔をしかめていると、そんな女性の声が上空から降り注いだ。


「精霊獣……個体エプシロン」


 声に振り向いた先では、一羽の黒いカラスが羽ばたいていた。

 夜に闇に紛れるその姿が辺りの電灯に照らされ、公園の中心までやってくると、ぐにゃりと陽炎のごとく空間が揺らぐ。

 カラスの姿は歪みの向こうへと消え失せ、一人の女性が姿を現した。

 忘れようもない、すべてを失ったあの日に見た化け物と同じ姿、同じ声。

 そして、薄暗い闇の中で輝く多色性の瞳。


(カラスに化けて……)


 精霊は人間と動物の姿を使い分ける。

 それは澪も当然知っていたが、鳥類に変化している可能性までは頭が回っていなかった。


(……道理で今まで見つからずにいられたわけだね)


 人間ばかりでなく、鳥類を含む小動物すべてを見て回るなど、土台無理な話だ。

 もとより逃げるつもりなどない澪は、公園を包む膜に背を向け、エプシロンと相対する。

 嗤っている。見覚えのある笑みだ。

 あの夜と同じ、人を見下し、食い物としか思っていない目をしている。


「この結界領域はねぇ、あなたを迎えるために特別に用意したものなの。ここは隔絶した世界……外からは抵抗なく入ることはできるけれど、中からはどうやっても出られないわぁ」

「……こんな大規模な魔法を使ったら、すぐに協会が駆けつけてくるよ」

「それはどうかしらねぇ? 外から入れるようにしたのは、あなたを招き入れるためでもあるけれど、もう一つ別の意味もある」

「別の意味?」

「外からはね、この領域の境界は透過して見えないのよ。ふふっ、さながらマジックミラーのようにねぇ」


 自分が作った道具を誇らしく語るかのごとく、エプシロンは自慢げに公園を包む膜を見上げる。


「外から見えているここの景色は、私があらかじめ記録しておいた二四時間前の光景。実際に確信を持ってここに来ない限り、この中で起きていることには誰も気づけないし気づかない」

「……」

「言ったでしょう? 隔絶した世界だと。逃げ道なんてどこにもないわぁ。あなたはもう、ここで大人しく私の贄となるしかないの」


 エプシロンは歓迎するように大仰に両手を広げながら、静かに歩み寄ってくる。

 澪はそれに鋭く目を細めて、自身の魔力結晶が埋め込まれた腕輪をかざした。


「逃げるつもりなんて最初からない。もちろん、あなたの食事になるつもりも」

「へえ?」

「――咲いて、約束の四つ葉」


 澪が変身に必要なワードを唱えると、桃色の魔力がその身を包み込んだ。

 澪の心と魔力結晶が繋がることで潜在能力が強引に引き出され、感覚の領域を引き上げていく。


「あらぁ。これまたずいぶんと可愛らしい魔法少女衣装ねぇ。それがあなたの理想の姿?」


 各所に備えつけられたフリルが、ひらひらと風になびく。

 胸元にはリボンの飾りを付け、その中心に四つ葉の模様が描かれた小さなブローチをあしらえている。

 魔力と同じ桃色を多分に含んだその派手なワンピースは、物語の題材として語られる魔法少女の姿そのものだった。

 エプシロンが言うように、これが澪の理想の姿、魔法少女としての憧れだ。

 かつて幼い頃に見た魔法少女のアニメの主人公の服を、ほとんどそのまま再現している。

 だけど澪は、自分が彼女と同じ存在にはなれないことを知っていた。

 アニメで見たその主人公の少女は、いつも明るく笑顔を浮かべ、どんな苦難にも決して屈せず、仲間たちと強敵を打倒していた。

 でも、自分は違う。

 栞里や七夏、紗代やレンダとの日々を最期の思い出作りなどと侮辱した思いで、偽物の笑顔を浮かべていた。家族を失う痛みに耐えられず自暴自棄になっていた。

 そして今も、栞里との約束を破って一人でここに立っている。

 今のこの希望に溢れた衣装は本来、自分が着ていいようなものではないのだ。


「……あなたに一つ、言っておきたいことがある」

「なにかしらぁ?」

「あなたが今まで食べてきた人たちの記憶を全部解放して、大人しく降伏して。そうすればわたしも手荒な真似はしない」


 手に持ったステッキ型の補助具を向けながら言い放つ澪の要求に、エプシロンは目を瞬かせた後、堪え切れないと言った風に口元に手を当てて笑った。


「そんなもの、私がどう答えるかなんて、あなたが一番わかっていることでしょう? 他でもないあなたなら」

「じゃあ、質問を変える。わたしがあなたを倒せば、今まであなたが食べてきた人たちの記憶は戻ってくる?」

「あなたが、わたしを? ふっ、ふふ、ふふふふふふっ! ずいぶんとジョークがお上手なのねぇ」

「っ……答えて! 戻ってくるの!? こないのっ? どっち!」


 声を荒げて澪が問い詰めれば、エプシロンはそこで一度笑みを引っ込め、瞼を閉じた。

 すると、エプシロンの雰囲気が変化する。

 人を見下し、食糧としか見ていなかったような彼女が纏う空気が、まるで違うものに変質した。


「『おねーちゃん、ありがとー。このマフラー、わたしのたからものにするね!』」

「――――っ」


 それは澪にとって心地のいい、幸せの匂いだった。

 姿が重なる。かつての妹との思い出と、その表情が、空気が、声が。

 失った思い出を心が求めるかのように、手を伸ばしてしまう。

 だけどすぐに、はっと正気に戻った。

 その手が伸びる先にあるものは、妹のかほなどでは断じてない。

 エプシロンの雰囲気はすでに元に戻っていた。人を見下し、あざ笑う、あの悪魔の微笑みだ。

 そんなものに、澪は手を伸ばしてしまっていて――。

 ずっと抑え込んで隠していた怒りのタガが簡単に外れて、全身を駆け巡った衝動に激しく歯を食いしばりながら、澪は手に持っていたステッキを振るった。

 ステッキから放たれた桃色の魔力の玉は、エプシロンの少し手前で弾かれるようにして消滅する。

 あの日の夜、澪がエプシロンを包丁で刺し貫こうとした時と同じ、見えない壁だ。

 だけど魔力が見える今ならわかる。あれは魔法だ。

 今澪が放った魔球と同じ、魔力を物質化して作られた障壁が、エプシロンを囲うように全方位に展開されている。


「ひどいわぁ。せっかくあなたが喜ぶと思って、妹さんの声から感情まで全部再現してみせたのに」


 手が震え、視界が狭窄し、息が乱れる。

 体調が悪いわけではない。澪の身を焦がす溢れ出んばかりの憤怒に、澪の体が耐え切れないだけだ。

 落ちつかなきゃ、落ちつかなきゃ。

 冷静さを欠いたら、相手の思うつぼだ。

 今すぐにでも次の攻撃を仕掛けそうになる心を自制して、何度もそう、自分に言い聞かせる。


「うふふ。そんな熱烈な瞳を向けてくれちゃって。嬉しいわぁ。やはりあなたを選んで正解だった」

「わたしを、選んだ……?」

「まさかこの私が、本当にただの気まぐれであなたを生かしたと思ってる? なんの打算もなく見逃したと?」


 エプシロンは嗤っている。

 変わらず、澪のすべてを奪ったあの日の夜と同じ顔で。


「幸せな思い出ってねぇ、おいしいのよ。この上なくね。ふふ……私がそのことに気がついたのは、数ヶ月前、興味本位で人の記憶をつまみ食いしてみた時だったわ」

「……」

「本当に少し、それこそ本人も忘れていたような小さな記憶の欠片……でもたったそれだけで、私の心には激震が走ったわ。この世界にこんなにおいしいものがあったんだってねぇ」


 まるで恋をする乙女のように顔に手を当て、その頬を朱に染める。

 気味が悪かった。気色悪い。


「それから私はたくさんの人の記憶を頂いたわぁ。初めは少しずつ……でも次第に我慢できなくなって、より多くの人間の記憶を食べたくなった。そして私はその衝動に従った。それが精霊として本来あるべき姿だって、私の本能が言っていたから」

「欲に負けただけのくせに」

「ふふっ。怒りに飲まれているあなたには言われたくないわねぇ」


 まるで自分と澪が同類だとでも言うような言い草に、澪はさらに表情を険しくする。

 しかしここでエプシロンは少し憂いを見せるように、小さくため息をこぼした。


「でも、協会もそろそろ感づき始めててねぇ。このまま狩り・・を続けていたら、いずれ捕まるだろうって悟ったわ」

「そのまま捕まればよかったのに」

「そうもいかないわぁ。誰だって命も記憶も惜しいものでしょう?」


 どの口が、と澪は心の中で毒づいた。

 その誰もが惜しいと感じるものを、今まで散々食い物にしてきたくせに。


「捕まらないためには、そろそろ人の記憶を食べるのをやめなきゃいけない……でもその前に、どうしても一つだけ食べておきたいものがあったの」

「……それは?」

「――魔法少女の記憶」


 ぴくり、と澪の目元が動いた。


「私の勘がささやくのよ。魔法少女の記憶は、きっと他のどんなものよりもおいしいって。人を魔法少女に変えることができる私たちの心に触れる力は、元々はそのためにあるんだってねぇ」

「……」

「でも、協会の魔法少女を食べることは簡単にはできないわぁ。基本二人一組で動いているし、片方を仕留め損ねたら足がついてしまうもの。中には戦闘経験が豊富で、精霊ですら手こずる猛者もいる……そんなものに手を出すのは愚の骨頂」


 だからずっと探していたの。

 そう言って、エプシロンはねっとりと舐め回すような目つきで澪を見た。


「あなたのように、たった一人でも私を追いかけてきてくれるような未熟な魔法少女の存在を」

「っ……」

「あの夜、あなたを初めて見た時、私は確信したわぁ。家族のため、妹のため、恐怖を抑え込んで私に立ち向かわんとする姿……あなたなら必ず、魔法少女となって私を討ちに来てくれる」


 エプシロンに家族の記憶を奪われてからのすべての軌跡が、エプシロンの手の上だった。

 魔法少女になったことも、エプシロンを倒そうと探していたことさえも。


「そしてあなたは私の期待通り、この場所にやってきた。ふふっ、こんなに嬉しいことは他にないでしょう? 私たちは離れながらもずっと思い合っていたのよぉ? お互いに会いたいと、ずっとねぇ」

「……言いたいことは、それだけ?」


 声を耳にするたび、話を聞けば聞くたびに、澪の中には苛立ちが募る。

 なんでこんなのが生きてる。なんでこんなやつが。

 どうしてこんなやつのために、わたしの大切な家族が犠牲にならなければならなかった。

 真実がなんであれ、理由がなんであれ、もう関係ないしどうでもいい。

 なにを聞かされようと、どうせやることは変わらないのだ。

 お互いに。


「もういい。お母さんたちの記憶が戻ってきても、こなくても、どうせあなたを倒すことに変わりはないから」

「ふふふっ。そうね、そうねぇ。こんなに私を思ってくれてるんだもの。私もその思いに応えて、食べてあげなきゃねぇ」


 指を唇に当て、舌なめずりをする。


「全部余さず――あなたの愛するパートナーちゃんとの思い出まで」

「――――」


 ――いつか澪と、本当のパートナーになりたい。

 あの時感じた思いを、願いを、こいつは――。

 澪の頭の中で、ぷつんっとなにかが切れた。

 力任せにステッキを振るい、これ以上ない全力の魔法を撃ち放つ。

 怒りを抑えるなどという思考は、もはや澪の中には存在しなかった。

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