オヤジとのキス

「だあああっ! もういい加減にしろよ!」

 高校の歴史準備室で、オレは絶叫した。

 そこの主は歴史の教師であり、オレの家のお向かいさん。

 …いや、ただの30過ぎたオヤジだ。

 オヤジの職場である歴史準備室には、さまざまな資料がそれこそ山のようにゴミのように溢れ返っている。

「また資料を増やしたな! どうすんだよ、コレ!」

「どーすっかなぁ、コレ」

 当の主はぼ~と資料の山を見つめている。

 普段はヤル気の無いオヤジのクセに、何故か歴史のことになると熱くなる。

 だから資料とか自分の給料で買ってきては、家に置けないからと歴史準備室に置く。

 そして…溜まっていく。

 無限大に。

 そうしてはオレを呼び出し、片付けをさせるんだ。

 オレがイヤイヤながらも片付けをしてしまう理由は…。

「まっ、こんなのお前にかかればすぐ、だろ?」

「アンタの目は節穴か? 世の中には限度ってモンがあんだよ」

「限度か。難しい言葉を使うようになったもんだ。昔は一人でトイレも行けなかったお前が」

 出たっ! 

 オヤジはこうやって昔話を持ち出しては、半ば強制的にオレを使うんだ!

「トイレは今、関係ねーだろ? それよりアンタも手伝えよ。一人じゃ終わんねーよ」

「へーへー」

 ヤル気の無さそうなオヤジの背中を押して、オレは改めて部屋の中を見て、ため息を吐いた。




 一時間後―。

「…自分自身に限界を感じてきた」

「まだ十六のクセに何を言ってやがる。希望を持て」

 淡々と片付けるオヤジ。

 だがオレは終わりなき片付けに、めまいがしていた。

「悪ぃ。少し休む」

 フラフラと何とか発掘したイスに座る。

「そっか。んじゃ、休むか」

 オヤジはこれまた発掘した長ソファーに腰掛け、タバコを取り出した。

「オイッ! 資料にタバコの匂いが移るだろうが!」

「ああ、そうだった」

 オヤジはタバコを持って、ベランダに出た。

 そして吸い始める。

 オヤジが開けた引き戸から、気持ち良い風が吹いてくる。

 …オレ、何やってんだろうな?

 いくら昔のことを持ち出されるとはいえ、こうやっていつまでも使われて…。

 でも呼び出されるたびに、少し嬉しく思ってしまう自分が情けねぇ…。

 窓越しに、オヤジの顔を見る。

 黙っていれば、渋いオヤジとしてまあ…モテる。

 ちょっとだらしないところとか、無気力なところもフォローしてやろうという気が起きる。

 …女の影があった時期もあった。

 けどすぐに消えて…それを何度か繰り返してたっけ。

 家が向かいで母親同士が仲良かったせいで、オレはアイツに育てられたようなもんだったけど…。

 そろそろ、距離を置いた方が良いのかもしれない。

 仕事が忙しい父親とは、あんまり仲良くなかった。

 そのせいもあって、オヤジのことを父のように、兄のように慕っていたけど…邪魔になっているんじゃないだろうか?

 オレの面倒を見ているから、オヤジはちゃんとした恋愛ができないなら…お互いの為に、一度距離を置いた方が良い。

「お待たせ。どれ、今日はここまでにするか」

「はあ!? つーか半分も終わってねーだろ」

「ゆっくりやるさ。また手伝ってくれるだろ?」

 余裕の笑顔がムカついた。

 だからイスを蹴って立ち上がった。

「―もう二度と手伝わない」

「あっ?」

 オレはそのまま、オヤジに背を向けた。

「そういうことは、アンタ目当ての女子生徒とかにやらせろよ。オレはもう二度と、手伝わないから」

「おいおい」

 歩き出したオレを、オヤジが背後から抱き締めてきた。

「そんなに怒ることじゃないだろ?」

「怒ってなんかっ…!」

 ただ、距離を置きたかった。

 コイツに振り回される自分が、情けなくなったから。

「じゃあ褒美がないから、拗ねてるのか?」

「そこまでガキじゃねーよっ! 確かに褒美がねーけどなっ!」

 手伝いをして、褒美らしい褒美を貰ったことがない。

 けれどそういう問題じゃない!

「ガキだろ? まだ。…ったく、しゃーないな」

 顎を捕まれ、グイッと後ろに引かれた。

「なっ…んぅっ!?」

 熱い唇と共に、タバコの匂いが口の中に広がった。

 苦いハズのキスの味は、何故か甘く感じてしまって…頭の芯が痺れた。

「ふぁっ…」

「やっぱりガキだな。キスだけで腰砕けになりやがって」

 …確かに膝が笑っていた。

 だけどっ!

「なっ何でキスなんて」

「だから言ったろ? 褒美だって」

 そう言って抱き締める手に力を込められた。

「それと俺はお前以外のヤツと、ここで二人っきりになるつもりはないからな」

「えっ…」

「ココは俺が1番安らげる場所なんだ。そこにお前さえいれば、俺は幸せになれる」

「なぁっ…!?」

 顔が真っ赤になるのを感じた。

 こんなプロポーズみたいな言葉を聞いたせいだ。

「いい加減、気付けよ。ガキだと思って、わざわざ回りくどい手を使ってやってるんだから」

 耳元で囁かれて、思わず身を硬くした。

「ほっ本当に…?」

「当たり前だ。俺が夢中になっているのは、歴史とお前ぐらいなもんだ」

 涙が出そうになった。

 だから力を振り絞って振り返り、オヤジに正面から抱きついた。

「おっおい…」

「ごめっ…ちょっ、嬉しくて泣きそう…」

 そのまま、ぎゅうっと抱き締める。

「ったく。やっぱりガキだな」

 優しい声。

 きっと優しく笑っている。

 大きくてあたたかな手が、オレの頭を撫でる。

 昔から変わらない優しさが、胸の中を熱くする。

「―愛してるよ。ずっと守ってやるから、側にいろ」

 守ってやるって何だよ?

 オレだって男なんだから、お前に守ってもらわなくても、生きていけんのに…。

 でもきっと、コイツがいなきゃ、オレは生きていけない。

 オレの全ては、コイツでできているんだから…。

「…ああ」

 消え入りそうな声だったけど、オレはちゃんと言った。

 オレを抱き締める手に、再び力がこもる。

「ありがとう。それじゃ…」

 オヤジは少し離れて、微笑んだ。

「今度、俺の部屋の掃除も頼むな」

「…はあ?」

「いやー。部屋も限界でな。そろそろヤバイんだ」

 …コイツ、ただ単に掃除するヤツが欲しいだけなんじゃないか?

 疑心にかられたオレに、オヤジは耳元で囁く。

「―ちゃんと家の合鍵、渡すからな」

 ………オヤジには、やっぱり敵わない。


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