第15話 拾伍
小雪の舞う鼠色を引きつめた仄暗い空の下。小走りに煙草屋から戻って玄関の戸を引くと、そこに外套姿の山高帽を被った小柄な男の背中があった。更にその向こうには、見たことのないシロの渋面があった。
「シロ、お客さんかい?」
私はそうシロへ問いかけて、訪問者を牽制してみる。外気よりも凍てついたこの空気から、自分が何やら只ならぬ事態に遭遇したのであろうことは容易に察することができた。
「センセ、」
シロが言葉を漏らすのと同時に、男がゆっくりと振り返る。
「妹がお世話になっております、センセ」
そう言って私を見上げてきたその顔は、南方を思わせる褐色の肌をした綺麗な女のものだった。
「えぇっと……」
あまりの意外性に私が言葉を詰まらせていると、シロがため息混じりに呟いた。
「私の姉で、クロといいます。姉は礼節を弁えない下品な女でございますので、センセにご不快な思いをさせるに違いありません。構わずに中へお入りください」
頗る機嫌の悪いシロが口を尖らせてそう言うものの、自分としては言われるままに捨て置くわけにはいかない。
「まぁまぁ、どんな事情があるのかは知らないけれども、姉御に向かってその様な物言いは褒められたものではないだろう」
言ってシロを見やってから、その姉へと視線を移すと、クロと紹介された女は不敵とも妖艶とも形容しがたい笑みをゆっくりと浮かべた。
「話のわかる男性は嫌いではありません。愚妹も、もう少し柔らかいものの捉え方ができるといいのですが」
そんな彼女の全身をさり気なく一瞥する。その瞬間、私の胸中に沸き起こってきた感情は、なんとも滑稽で愚かしいものだった。彼女のことを性的に値踏みして、爛れた情欲の断片を勝手に見出す。
そして、彼女の笑みは自分に向けられた好意であり、彼女は自分に気がある、少なくともその可能性はあると、都合のよい解釈を平気で行って憚らない。側から見れば気持ち悪いことこの上ないのだが、当の本人はそのことにまったく矛盾を感じていない。そんなことはあるわけがないと知っているはずなのに、その瞬間に違和感を覚えることがない。それはとても怖ろしいことなのだ。
こんなことからは抜け出したかったはずなのに、日増しに深みへとはまっていく。そして、それらを理解してもなお、私はクロと呼ばれた女の、凛とした美しい顔から目が離せなかった。
「寒いところせっかくいらしたのですから、中でお茶でもいかがですか」
疾しい心中を見透かされてはならぬと、誤魔化すようにそう促してみると、シロが眉を顰めるのがわかった。
「せっかくです。馳走になるとしましょう」
クロはチラリと妹を見てから、おもむろに山高帽と外套を脱ぎはじめる。すると、下から出てきた三つ揃い姿の身体は、秘された女らしさをかえって如実に主張していた。それは倒錯した妄念を嫌でも掻き立ててくる暴力とも呼べそうなものだった。そして、露わになったその滑らかな首すじへ、帽子の中で纏められていた藍よりも深い光沢を湛えた美しい黒髪が、はらりと静かに流れていく。
そんな私の心中など見透かしているのだろう。クロは軽蔑するかのように薄い笑みを口元に浮かべながら、私を無言で見つめてくる。その冷たい眼差しは、私に羞恥心を呼び起こさせるとともに、淡い快楽の予感をもたらしてくる。
私はもう末期なのだろう。何の末期なのかと問われると、明確に答えられはしないが、強いて言うなれば、人としての終わりを感じはじめていた。もはや、これは人とは呼べぬだろう。いや、呼んではならない気がする。
その後、クロとは世間話や姉妹の子供の頃の話などをし、何事もなく初対面は終了した。しかし、何事もなくと言ったが、それは表面上のことであり、私の心中は穏やかではなかった。
人としての終わりを自覚した私は、もう誰に憚る必要もなかった。そのことに気がついてしまったのだ。私のクロを見る眼が、シロを見る眼が、あからさまに変わったことなど、二人とも直ぐに気付いたであろう。
理性のタガは、簡単に外れてしまいそうだった。しかし、抵抗する必要などないと思いながらも、その時はどうにか踏み留まった。
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